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零ゆる花のシャングリラ  作者: 瀬川月菜
第五章 我が扶翼 わがふよく
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我が扶翼 2

 扉を叩く。寝間着に防寒用の衣という、雪男かと見まごう着膨れの姿で、兄エルンストは目を上げた。やや寝ぼけ顔のまま、取り落とした書類を拾おうと中腰になって、扉の横に立つセイラを見る。

「こんばんは、兄上。今よろしくて?」

「入りなさい。扉は開けたままにして」

 頷き、彼が座った執務机の前に立つ。

 夜も更けていこうかという時に戻ってきて、再び出て行った後、日付が変わってから帰宅した。エルンストはもう横になっているはずの時刻に起きていてこの格好なのだ。

 この人は、眠気があると途端にすべてが鈍くなる。物を落としたり、つまずいたり。拾った書類も、握力がなくて、再びばらまくことを繰り返しているのだろう。

「何の用だ。報告書には目を通したが」

「報告書に書けない件で来たのです。耳飾りのことです」

 エルンストは目を細くした。

「姫が持っていらっしゃいましたわ」

「……何だって?」

「姫がお持ちでした。それを盾に無理矢理同行させられたのですわ。どうやって見つけ出したのかは、イレスティン侯爵令嬢の前でしたから問いつめることはできませんでしたが」

 たっぷり時間を取って思考したエルンストは、言った。

「……まさか、本当に魔女なのか?」

「時間をかけてそれですの?」

 太陽が昇っている時刻ならば、次にどのように立ち回るべきか考えるだろうに、かなりお疲れのご様子だ。セイラはくすくすと笑って、さあどうでしょうかと腕を組んだ。

「特別な力を持っているのは確かなようですけれど、それだけでは見つけただけの耳飾りをあのように扱いはしないでしょう。かなり情報を集めたんですわね。侮れない方ですわ。いったいどのような伝手を手に入れたのか」

 アンバーシュの側付きクロードだろうか。彼はいちるに、肩入れとは言わないまでも重んじようとする気配がある。ミザントリ・イレスティンは耳飾りのことは知らないまでもヴィヴィアン・フィッツについて話した可能性が最も高い。その他、いちるが言葉を交わすような人間には、女官ぐらいしか心当たりがないが、レイチェルの口は軽くないことは分かっているし、その下につく娘たちは主となった女を恐れている。

 どちらにしろ、舐めてかかると痛い目を見る。見た目は十七、八の小娘だが、中身が相当していないことはもう目の当たりにした。彼女の中身と一致しているのは言動だ。十代の娘にあれほどの度胸は備わらない。

「どちらにしろ、耳飾りがあれば、姫を妃として推すことに異論は出ないでしょう。むしろ、これまでの功績を鑑みて、結婚式を早めようとする動きが出るかもしれませんわね」

「エリアシクルとの契約か……」

 エルンストは椅子に沈み込んだ。

「聞いた話を総合してみると、契約というほどでもなさそうでしたけれど?」

「湧水の神馬エリアシクルの神話を読めば、そうとも思えない。娘の命乞いに髪を与えたというが、それに相応の価値があったということだ。エリアシクルは気に入った娘に長い加護を与える。あの話があったろう、あれ……あの、どこかに身投げした……」

「湖に身投げした娘を助けて人の世に返した後、その娘が結婚する時に虹をかけてやった話?」

 そう、それだ、と働いていない頭でエルンスト。

「かと思えば湖で漁をしようとした男を沈めるという話もある」

「それってただ女好きなだけじゃありません?」

「とにかく、あの姫は神官相当の力の持ち主だ。お前の言うように、特に神殿筋の後押しが強くなっている。陛下にその気は見られなかったが、今夜ラフディアの館に一泊するということは……」

「しけこんでいるのに間違いありませんわね」

 あっという間に嫌な顔になったので噴き出した。

「言葉遣いに気をつけろ。ただでさえ周りは耳聡い」

「これでも毎日慣れない言葉遣いに気を張って疲れているんですわ、お、に、い、さ、ま!」

 エルンストは苦々しく言った。

「……ぼろが出ないように気をつけろ。結婚の話が来なくなるぞ。陛下との関係が終わって、お前に目を向けている男は数多い」

 知っている。もうすでに何人かに言いよられているのだ。兄が知らないとは思えないので、ふふんと笑って流した。

「わたくしを満足させられる殿方がいるとは思えませんわね! そういうお兄様こそ、奥様は迎えられませんの?」

「…………」

「あら、そうでした。お見合いしてうまくいってもしばらくしたら逃げられてしまうのでしたわね、うふふ」

「……うるさい。早く寝なさい。肌に悪いですよ。ただでさえお前は日に焼けるし、汗を掻くし、肌に気を使っていられない環境にいるし、男所帯だし、手も足も身体も傷だらけなのだから」

 そういうところが嫌がられるのだということにエルンストは気付いていない。

「ご心配ありがとう、お兄様。嫁の貰い手がなくなっても、わたくしは一人で生きていけるから大丈夫ですわ。それに、安心なさって。例えお兄様が一生独り身でも、わたくしがお世話してさしあげますから」

「いらん」

「では、おやすみなさいませ。明日からまた忙しくなるのですもの。姫が帰ってきたらたっぷりからかって差し上げることにしますわ」

「セイラ」

 咎めるのではなく、低く呼び止める声にセイラは笑い声を潜める。

 言葉を探す兄は、やはり頭が動いていないのだろう、口にしたのは至極真っ正直な問いかけだった。

「……もう復讐はいいのか?」

「お兄様のそういうところがだめなんですのよ」

 そうだなと口の中で言いよどむ兄は、優しい人だ、と思う。

 外に向きかけた足を再び室内に戻し、腕を組む。

「正直……もう、どーでもいいですわ」

 俗語発音で両手を広げる。

「アンバーシュに一生ヴィヴィアン様のことを忘れさすまいと、側にも侍りましたけれど、彼自身が過去から抜け出そうとし始めたらもう意味がありませんもの。わたくし、これでも気が咎めているんですのよ。アンバーシュと姫の仲がこじれたのは、わたくしが彼にヴィヴィアン様のことを囁き続けたからでしょうから」

 あなたは忘れてはいけない。あの方は不幸になった。あなたが幸せを奪った。あなたが捨てた。あなたは残酷な人だ。

 言葉の毒を流し込み、呪いを放った。かつてヴィヴィアンが落とし込まれた毒の海を、セイラはアンバーシュに指し示し続けてきた。

 ヴィヴィアン・フィッツ。元、暁の宮の方。ごくありふれた街の娘だった彼女はアンバーシュに召し上げられ、十年をあの宮殿で過ごした。十年は長い。高貴な身なりだが警戒心のない彼女に、下町の子どもが拾われ、やがて騎士団長になるくらいには。

「まあ、最初はいい気味だと思いました。呪いが成就したのをこの目で見たのですから。けれど、姫を見ていると虚しくなってきたんですの。姫は多分、わたくしが何を言おうと鼻で笑うでしょうし、アンバーシュが何をしようと好きにしろと言うんですわ。そして、わたくしがアンバーシュに呪いを続けていると、つかつかとやってきて何をしていると張り飛ばすに違いありません。わたくし、痛いのは嫌ですもの」

 エルンストは椅子に座り直す。

「……陛下はすでに、言い方は悪いが、姫の所有物と見られているということか?」

「その辺りは微妙ですわね。単純に近しい人々がせせこましく争っているのが嫌いなのかもしれませんし、わたくしのやっているようなことが気に入らないだけかもしれませんし」

 それほど彼女と親しく接していない。接するべきではないだろうと距離を置いたのだが、それが今日になってあんなことになった。

 けれどあのお茶会はよかったわ、とセイラは思い返した。不思議な会だった。セイラ自身はぶしつけな口を聞いたが、いちるもミザントリも気を置かなかった。イレスティン侯爵令嬢の意外に親しい交流が垣間みれたことは収穫だったし、青いのかわがままなのか得体の知れないところもあったいちるが、やっぱりわがままで得体が知れないのだということも分かった。

 今頃、アンバーシュとどう過ごしているのだろう。

(一晩中喧嘩している方に賭けるわ)

 エルンストはため息をついて、眼鏡のつるを押し上げた。

「……ヴィヴィアン様には、偶然とはいえお前を拾って側に置いてくださったことに恩がある。あのようなことになって残念だとは思ったが……お前が……」

「わたくしが?」

「お前が陛下のおそばに侍るようになったのは、私は未だに間違いであったと思っている。生まれも育ちも身分も不釣り合い、というだけではない。お前をそのように駆り立てたヴィヴィアン様にも責任があったように思う」

 セイラは目を見開いた。

「私とお前では十近く歳が違うが、当時私が見たあの方は少々気が弱すぎたように思う。周りが良き言葉で支えてやらねばならず、それが彼女を守るためのいい空気を作り上げていたとは思うが、それは彼女にも周囲にも思い込みをさせていた気がする。ヴィヴィアン様は悪くない、悪いのはよからぬことを言う者たちなのだと」

 そんな風に思ってみたことはなかった。何故なら、ヴィヴィアン・フィッツという人は、セイラにとって神様のようなものだったのだ。アンバーシュとはまた違う、手が届く距離がいて、声が届き、触れることができる、小さなかみさま。

 そうして、それについて兄がそんな風に言ったことは初めてだった。

(恩があると思ってくれていたなんて)

 片親しか血のつながらない妹を迎え入れたことを喜んでいてくれるとは、思ってもみなかった。

 じわりとしみ出した思いに気付きもせず、エルンストは苦笑じみた顔でいちるのことを話している。

「イチル姫はそれに照らし合わせるとよからぬことばかりを言っているが、少なくとも間違っていない。その言葉が相手に優しいか甘いかという違いだけだ」

 見つめるセイラをどう思ったのだろうか。エルンストは椅子から立ち上がると、防寒着を直しながら書類や筆記具の片付けを始めた。難しい、疲れた顔をしている兄の言葉をじっと待った。

 しばらくして、彼は言った。

「もう休みなさい。私は眠い。何を言っているのか自分でもよく分かっていないから」

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