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零ゆる花のシャングリラ  作者: 瀬川月菜
第四章 況や愛とは いわんやあいとは
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況や愛とは 6

 自身を支えていたものが突如として消え去り、森へ墜落したのが意識の最後だった。したたかに身体を打ち、おそらくは骨を折っただろう。目を覚ました瞬間、痛みが全身に走り、肺がうまく機能せずに咳き込んだ。途端、溜まっていた血混じりの反吐を吐瀉し、焼けるような喉の痛みと肋骨の軋みに、身体を折って呻いた。

 だが、手足も動き、痛みこそあるが動けぬほどの傷ではない。どうやらすぐに治癒能力が働いたらしい。

 目を巡らせて状況を見る。

 家の中だ。小さな部屋。ミザントリの家と比べ格が下だろう、小屋ほどの建物。窓の下に枯れた花が下がっている。薬草のようだ。緑独特の甘く辛い匂いが漂っている。清涼感のある薄荷、枯れたような香りがする青花の迷迭香まんねんろう、生姜の匂い。嗅ぎ慣れた甘酸っぱい香りを考えて、紫蘇だと思い当たる。窓の桟や棚のあちこちに置かれている透き通った石の数々は、治療と魔除けの薬石に違いあるまい。

 硝子で保護された照明器具が二つ、部屋を橙色に照らしている。植物調の家具、分厚いつづれ織りのうわがけ。

 首をひねる。

(何故か見覚えがある気がする部屋だな……)

 扉が開く。家の主だろう四十ほどの女は、いちるが身体を起こしているのを見て、持っていた洗面器を落としそうになるほど驚いたようだった。

「起きちゃだめ! すごい怪我だったのよ!」

 飛ぶようにやってきていちるを寝かそうとするが、吐瀉物を見て急いで処理を始める。見下ろした頭には、白くなった金色の髪が混じっている。

「あなたが、ロッテンヒルの魔女ですか?」

 手が、一瞬止まる。押し殺した声で「……ええ」と返答があった。

「そう呼ばれているみたい。不思議な力なんて何もないんだけど」

 だろうなと内心で頷く。

 床を拭き、においの強い液体を被せて布で覆った後、彼女は口をゆすぐための水をいちるに手渡した。心置きなく口の中を洗っている視界の端で、女の顔が深刻になっていた。

「あんな大怪我だったのに、もう動けるの?」

「もうほとんど治っているからです」

 言って、腕に巻かれていた包帯を取る。傷ひとつない腕を見せつけられ、女は驚いて胸を押さえている。

「人ではないの? ……神様?」

「さあ、何でしょうね」

 顔を歪めるいちるに、しかし女はそれ以外のものが想像できなかったらしい。神かその眷属と判断し、曖昧な返答にそれ以上追及を重ねなかった。

「骨はもうくっついてるのね。すごい。包帯はもういらないわね」

 手分けして巻いていた包帯を取る。その頃にはあばらも修復されていた。無惨なのは外見の方で、衣装は無惨に破れ、髪もかなり乱れている。一束にしたものを三つに分けて編んでいくことにした。

「どうしてこんなところにいたの? この辺りは、そんなに強い魔物はいないはずだけど」

 事故だといちるは答えた。事故以外の何でもないだろうと推測していた。

 占い師はいちるを欲していた。それを途中で放り出すなら、何らかの外因が作用して投げ出さざるを得なかったか、いちるを痛めつけたかったかだろう。居場所を知られる危険性を考えて、まだしばらく遠見は控えておきたいが、もうあまり心配はしていなかった。時間の推移からして、アンバーシュに知らせがいったのは間違いがない。あれが手を打つだろう。もういちるはお役御免だ。運良く森の隠者に拾われたことで手傷は癒えた。

 あんな汚らわしいものどもの思い通りにはならない。

「詳しいことは話してもらえないのね。じゃあ、ちゃんと帰れる? 望んでここに来たんじゃないなら、帰った方がいいわ。あなたには帰るところがあるんでしょう?」

 いちるは胡乱に女を見る。

 急に年上らしい態度になった。直視された女は目を伏せ、自嘲するように笑みをこぼした。

「何があったかは知らないけど、帰らなくてはだめよ。ひとりでいては、いけない」

 灯火の火がちらちらと揺れる、かすかな燃えさしの音がする、静かな家だ。

「――気色悪い」

 いちるは吐き捨てた。

「白々しい。嘘は止めなさい」

「ど……どうしたの? いきなり」

「羨み妬む心で言われても、何の祝福にもならない。あなたは私を呪いたいのですか?」

 驚き、うろたえていた女は、胸を押さえて呼吸を整えていたが、やがてかすかな笑みを浮かべる。

 傷つき慣れた者の顔、嘘を暴かれた諦観の表情だ。

 歳を重ねた分、折れやすくなる人間がいる。

「……ええ、あなたが羨ましいわ。あなたは綺麗。きっと素晴らしい出来事がこの先にも待っている。たくさんの人に囲まれて、誰かに信頼されて、愛される。私くらいになると、山ほどの後悔があるのよ。取り返しのつかない過去が」

 孤独が滲みる、と女は言った。

「わたくしは後悔したことはありません。悔いたとしても何も元には戻らないからです」

 いちるが声を枯らすほど叫ぶとすれば、動かし得ぬ不条理に対してだ。

 なぜこのようにつくられたのかと、繰り返した問いと同じ。

「至らぬことにほぞを噛む前に、己のすべてを使い、物事を変えればいい。何もできなかったという後悔は永遠に残る。いずれ癒える傷を恐れることはないのだから」

 女は目を伏せ、いちるを見ぬままに静かな口調を使った。

「あなたは強いのね。その強さで進んでいけばいい。それがあなたの道でしょう」

「言われずとも」

 もういちるはこの女のような弱さの段階を過ぎたのだ。百は年下の女のこのような甘言に癒されることはない。


 外で大音が響いた。


 女は身体を強ばらせた。いちるは虚空を見遣り、その雷鳴が自然的なものでないことを知る。再び女に目をやった。両手で拳をつくり、白くなるほど握りしめている。怯えているのだ。

「帰ります」

 女の側をすり抜けて扉を開ける。

「あ……っ」

「心配せずとも」といちるは振り向いた。

「あなたのことは誰にも言いません。名前も、聞きません。この扉を出て行かなければ、あなたのことは誰にも知られない。この十年と同じように(・・・・・・・)」

 ひゅっと息を吸い込んで青ざめる女。

 当たりか、と目を細めた。

 魔女と呼ばれるにしては若すぎる。代替わりするものなのかと思ったが家の内装は新しい。家具も品物も、城で揃えている流行のものだ。そして、その趣味はいちるの自室と似すぎている。既視感の理由は、それだったのだ。だが、まさか本当にそうだとは。

 十年という言葉を聞いても顔色を変えることがなければよかったのにと、哀れみの視線を投げ掛けて背を向けた。

 出て行くのを止められることはなかった。

 暗い森へ出て、しばらく歩く。空が銀燭に彩られている。居場所を示しているのだろう。それほど呼ばずとも聞こえるわと毒づいた。雲が帯電を始め、薄い紅色の輝きを帯び始めている。

 枝と木の葉を踏みしだき、顔を出す緑の芽を顧みずに進み、斜面になったところへ出た。ところのせいか木もまばらで、これならば見つけやすかろう。そろそろ焦れた頃だろうかというほど歩いて、いちるはようやく声を使った。

[アンバーシュ!]

 風が、止んだ。地上から天へ向かって噴き上げた後の静寂。そうして雷雲がきらりと光ったかと思うと、そこから馬車が出でた。乗り手は、やはりアンバーシュだ。

 傲然と訪れを待つ。近付いてきた馬車は勢いを殺すことなく迫る。伸びた太い腕が掬うようにしていちるの腰を抱えていた。

 馬車は再び空へ舞い戻る。

 いちるは、閉居の扉を開け放ち、食い入るように空を見上げる隠者の女を見た。

 絶句する男の呼吸を、胸の近くで感じる。

 二人は目を見交わしただろう。

 そしてどうやら女が頭を下げて見送った。

 それらの光景が気脈を通じていちるにも分かり、馬車は勢いを取り戻して上昇する。


[……案外気丈ではないか。他の者たちの話を聞くに、てっきり泣かれると思ったが、十年も経てば変化するものか]

「黙りなさい」

 唸りに似た声を発したアンバーシュに、いちるは最後に一言だけ告げた。

[そんな顔で城に戻るのは止めろ、と言っておく]

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