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零ゆる花のシャングリラ  作者: 瀬川月菜
第二十一章 連鎖円環 れんさえんかん
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連鎖円環 3

 乙女たちの園には、気性の穏やかな動物たちも暮らしている。それを世話する者もあるし、果樹を育てる者もいる。しかし多くはそれぞれ、誰の助けを借りずとも生きていく。牛の乳は枯れないし、魚は絶えず泳ぎ、卵は孵らずとも鳥たちは歌い、飛ぶ。娘たちは、そんなものたちから少しだけ分け与えられたものを食べ、飲んでいる。

花紅はなべに

 ゆえに、娘たちの楽しみと言えば、自分の身を飾るものを新しくすることだった。花を編み、草を編み、紡いだ糸を編み。夢絹ゆめぎぬの双人は飾り編みの達人で、どうやらどこかでこっそりと蚕を飼い育てているらしい。絹糸の出所を誰も知らぬのだが、その領域を侵すことはないのは、夢絹たちが美しい肩掛けや手袋やリボンを惜しみなく贈ってくれるからだろう。

「花紅ったら」

 自分が呼ばれていることに気付いて、顔を上げる。春見の双人が一抱えもある花の束を持って、楽しげに笑っていた。

「まだ慣れないんだね。でも、名前を覚えてないんだから仕方ないよ」

 アガルタで過ごすうち、花紅の内からは少しずつ地上の記憶が薄れていった。何年もこの場所で過ごしたかのように、心の底に沈んでいくそれらは、意識せねば何の感覚も呼ばないものになっている。己の名を忘却したのは最初で、陽月のがつけた『花紅』という名が、そのまま呼び名になっていた。

 アガルタの乙女たちが集めたものを身につけた花紅は、黒い髪と黒い瞳のおかげで、シャングリラの一族に混じっても違和感がなかった。あげる、と赤白黄の鬱金香を差し出した春見のシャングリラは、今日は髪をまとめて一つに巻き付けている。春見は、いつも日の下にいるので、花紅よりも濃い色の肌をしている。

「もしかして邪魔した?」

「いや」

 歌舞の双人が、覚えているうちに地上のことを教えてほしいと言ったので、それをどうやって残そうかと考えていたのだが、覚えていることは限られているのだ。

 異質なものとして隠れて暮らしていたこと、国主に見出され力を利用されたこと。東神に見放され、西神に嫁いだこと。そして、晩年とも言えるときに、己の由縁をようやく知ったこと……。

 胸に痛みを覚え、息を呑み込む。アガルタに至るまでの己の生はどうやら鮮烈であったらしい。浮かぶのは空よりもずっと鋭くきらびやかだった青の色、黄金の色だけだというのに、避けて忘れようとするほど、花紅を焦らす。届かぬと知っているのに、どうしてここにいないのかと問いかけてしまいそうになる。

「辛いの? 地上のことを思い出してるんだね。そんな顔してる」

 春見のアルカディアが花紅の頬を撫でる。

「まだそういうものは置いておくべきだよ。痛まないようになってから触れるといい。君が悲しいと、私たちも悲しくなる。地上のことは、私たちは分かってあげられないから」

 頬に触れられているせいで首を振ることも出来ず、花紅は目を伏せる。悲しい顔をしないで、と寄り添われる。温かくて優しい、慰撫の手だ。溢れるほどの時間と、悠久がもたらす、癒し。この世界には穏やかさだけが漂い、雨すらも優しい。

 だから、違う、と誰かが言った。

「花紅?」

 さっと立ち上がると驚いたように春見の双人が見上げてくる。花紅は顔が歪みそうになるのを堪えて、微笑んだ。

「少し歩いてくる。わたしも、心の区切りを付けたいと思う」

 道に迷ったら誰かを呼ぶんだよ、と見送られた。

 アガルタにはあちこちに乙女たちがいる。己の領域と決めた場所で寝起きし、他の者のそういった場所に出掛けたり、気ままに遊んだりなどしている。朝も夜も平等にやってくるし、雨の日も曇りの日もあるが、自然は生命を脅かしたりはしない。無惨な光景も、心痛む跡も、何もかもが平らにならされている。危険はない。敵も存在しない。いるのは皆、味方のみ。

(だというのにこんなにもわずらわしい……)

「花紅。どこへ行くの?」

百果ひゃっかのが、林檎を分けてもらったんですって。一緒に行かない?」

 紫蜂と青湖あおうみの四人が言うのに、散歩をするからと断る。彼女たちも追ってこない。それぞれの領分を侵さないこと、無理強いはしないことが、この地の乙女たちの規則だ。

 アガルタには様々なものがある。外界への扉がある銀の河。青緑色をした水魚の池。最も大きな緑雨と呼ばれる森は、緑が雫のようにしたたって見えるほど、多様な植物で溢れている。獣たちの暮らす日羽ひわの森。巨大な鳥が巣を作っている希鵬きほうの大樹。百果の双人が管理している果樹園と花園。乙女たちが水浴びに使う湖、白海しらうみは、白魚の双人がよく泳いでいる。

 どの場所も乙女を拒まない。一人になりたい者はそれを伝え、周りもそれを探さないという手段がとられる。地上から来た者に蝶のように寄ってたかる彼女たちに、はね除ける言葉を使えばよかろうものを、花紅はそれが出来ずにいた。きっと娘たちは驚き、傷つき、泣くのだろうと思うと、どうしても出来ない。そうして、何故そのような手段をとろうとするのかと自問し、心を逆立てる自分に首を傾げるのだった。地上では、誰かを切っていかねば生きていけなかったのか。

 だというのに、そのような場所に、どうやら未練があるようなのだ。

 柔らかい衣服の上から胸を押さえる。夢絹たちの作った衣装は寝間着のように軽い。シャングリラの娘だというので、引きずる袖を作り、朱色に染めた帯を巻いた形だ。壮麗さはないが、着心地のいい、素朴な衣装だった。

 だが、このように愛らしいものを身にまとう自分に、違和感が拭えない。

 香りを感じて顔を上げると、木立の向こうが仄明るい。誘われるように歩みを進めて、再び視界が明るくなる。

 そこは桜木の森だった。開花を謳歌する木々で、地表すらも白く染まっている。花を愛でる娘たちの姿があるかと思ったが、誰もおらず、見る者がないせいか、木はほろほろと静かに花びらを零している。

 この花を見るのは久しぶりだ。記憶の底で言う者があり、花紅は辺りを見回した。そう、確かに久しい。意図的に作られた場所では見たが、地に根付き、このように枝振りも自由に咲くものは、人の手が入らぬところならではだ。西には、この木はほとんどなかった……。

 細枝に手を伸ばし、花弁に触れる。

 この花はいつまでも咲き続けるのだ。数日かけて蕾を生み出し、再び開く。



「……つまらぬ」



 呟いた声がいかにも鋭かったので花紅は目を見開く。

 だが、その刺のなんと心地よいことか!


「つまらぬ。つまらぬ……! 何故こんなにも美しいのだ。このように穏やかなのだ! そんなものが見たいわけではない。そんなものが……」


 温もりに満たされた世界。純粋な乙女たち。そこにいる自分は、生ある中で最も幸せであるはずなのに、疼いて耐えられない。壊したい。乱したい。それらの衝動を封じ込め、忘れようとする自分がいる。そして、それに違和感を覚えぬようになっている。アガルタに満ちるものが花紅を作り替える。こんなのは間違っている。わたしではない。わたしは、もっと。


「わたしは、もっと、傷つきたいのに」


 かつて、その傷に触れるものがあった。

 骨張った長い指。皮は厚く、乾いた指先は強かった。手のひらの熱が触れると震えが走ったものだった。

 青が見える。天青の色だ。

 衝動が込み上げ、口を押さえる。何も吐き出すことが出来ず、視界が滲んだ。

 唱えていた楽園の名が、脆い夢だったことに気付く。崩れていくのは、真実に望んだものではなかったからだ。

 ここにはない。何もない。

 だが、この地を望む者たちがいる。この地に眠る、者たちがいる。


「どうしてこのようにつくられたのだ」


 風が吹く。それが、嵐の前触れだと気付いたのは、恐らく花紅だけだった。急速に雲が動き、風が鳴き、緑や水が波立ち騒ぎだす。怯えたように鳥が鳴き交わす中、花紅の前で一斉に桜花が散り始める。それは吹雪めいて凄まじく、空も地表も覆い尽くしていく。

 雲の一点に明確な渦が見えた。扉を叩く激しい音が空の中で響き、光の瞬く間にも灰色の雲が形を変えていく。再び視界を覆われ、顔を庇う。腕を退けたとき、花紅は空から何かが降りてくるのを見た。

 狼だった。銀の毛並みは、掘り出したばかりのような濃い色をしているが、首周りや尾は美しい、花と呼ぶにふさわしい色をしている。瞳は紅玉。血珠のように深い赤。空を蹴る度に光を撒き、輝かしい神の力を振りまく。

 花びらが邪魔だった。もっとよく見たいと、花紅は目を凝らす。

 狼の背から飛び降りたのは、男だった。


「アンバーシュ」


 はらり、と名が落ちて、問いの答えを取り戻す。

 己の生、命。この男のために使おうと決めた。どのようなさだめであろうとも、生きたのは我が心。与えるのは、この男のみ。その思いのままに、名を叫ぶ。

「アンバーシュ!」

 降り立った男に向かって駆ければ、相手もまた、地を蹴って来た。こちらの方が加減しなかったために、ぶつかった後、アンバーシュを押し倒してしまった。掻き抱くようにされた耳元に、熱い声が響かせられる。

「イチル」

 花紅は――いちるは、それまで忘却していた感情を一気に溢れ返らせたあまりに、声を詰まらせてしまった。

「……こんなところまで、来るでない!」

「会いたかったくせに、その言い草はないでしょう。顔と言動が一致してませんよ」

 笑いながら言うアンバーシュもまた、瞳を揺らしている。

 届かなかったものに触れている。触れられるところにある。侵入者によって在り方を乱した楽園の、無惨なほどに激しく散る花びらが、きつく抱き合っている二人に降り積もっていく。

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