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零ゆる花のシャングリラ  作者: 瀬川月菜
第十八章 花姫神 はなひめがみ
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花姫神 9

 宴は無礼講だった。常ならば分け隔てられている男女の境が取り払われ、男神に女神が酌をする姿や、逆に女神の猪口に酒を注ぐ男神も見られる。上座にいる紗久良姫たち姫神、阿多流たち五男子は、途切れることのない挨拶を受けていたが、それも一段落すると、末弟たちがそれぞれに動き回り始めた。

 それらの光景を、いちるは紗久良姫の近く、満津野姫と燐姫と共に眺めている。

「あらあら、ご夫君を探していらっしゃるの? アンバーシュ殿はあちらよ。ほら、珠洲流のところ」

 指されずとも居所には常に気を配っているのだが。

 清酒を飲んだ満津野姫は、白い顔をほんのりと赤くして、先ほどからいちるとアンバーシュの挙動を逐一口にするので、苦笑いしか浮かばない。

「堂々とした挨拶だったわね。御簾の内側のあちこちから、溜め息ばかりが聞こえてくるんだもの。物珍しいだけじゃないわ、あれは。気をつけてね、いちる。花媛殿の者は、みんな恋に飢えているんだから」

「寝室に裸の女が寝ている愁嘆場は、すでに越えております」

「な……それ、詳しく聞かせて!」

 出会って間もない頃、いちるの部屋に女が裸で寝ていたことを話すと、満津野姫はますます頬を紅潮させ、目を輝かせた。その女が今では親しい知人の一人だというと、ますます興奮した様子だ。どうやら、彼女は思ったよりも若々しく夢見がちなところがあるらしい。

 周りでは、満津野姫が重ねた酒杯を片付ける花媛たちが忙しなく動き回っている。一人と目が合ったので、聞き耳を立てているのは間違いなかった。

 アンバーシュは珠洲流の隣にいて、何事か話しながら、東神の中に溶け込んでいるようだった。酒の力は大きいらしい、注ぎ注がれしていると、気持ちが大きくなって、大笑いしあっているのだった。この中でもあれの笑い声が聞き分けられるのだから、重症だと自分を憐れんでしまう。上等な清酒を舐めながら、聞き耳を立てている己が、ひどくさもしい存在になった気がする。

「アンバーシュはなかなか賢い方のようね」

 挨拶代わりに杯を受けているはずなのに、顔色が全く変わらない紗久良姫が言った。

「先ほどから、女神たちが遠巻きにしているでしょう。あれは、珠洲流がいるせい。下手にしなだれかかると機嫌を悪くすることを皆知っているから、近付くことが躊躇われる。周りは男ばかり。西の男神にお近づきになりたいでしょうに、ああも隣り合っていては、酌も出来ない」

 近くに女神たちが固まっているのはいちるも気付いていた。彼女たちの中に、うっとりと溜め息を漏らしていた者が混ざっていることも知っている。アンバーシュが目もくれないので放っているのだ。

「なるほど。近付いてこないように動いているのか。それもいちる殿のためなのね……」

 宙を見つめる満津野姫が何を想像しているのか。

 いちるは手元の皿に取り分けられていた餅を黙々と噛み締めた。

「燐。食べている?」

「姉上……燐は、もう眠いです……」

 どことなく目がうつろになっている姫神の、両手で支えている杯から、酒が波打ち零れそうになる。それを上から拾い上げたのは、涼やかな美貌の少年だった。

 髪を短く切りそろえているが、少女のように可憐な印象を受けるのは、目元が幼いからだろう。燐姫とよく似た容貌は、つまり彼が彼女の双子の片割れ、多鹿津男神だと示している。表情らしいものが見えず、燐姫に怒っているように見られ、呼びかける声は、つるりとした石のように平坦だった。

「燐」

「多鹿津……でも……」

 一言で何を告げたのかは分からないが、燐姫は言いたいことが分かるようだった。目を擦りながら、ぎゅっと眠気を堪えている。

 多鹿津は溜め息をし、初めていちるを見た。目礼され、いちるも返す。どうやら口数の多くない神らしい。姉兄たちが話し上手なのだから、こういう弟がいてもおかしくないだろう。

「あのね、多鹿津……いちる殿がね……燐の絵を、褒めて、くれたのよ……。綺麗だって。ふふふ……」

 酔いと眠気でろれつが回っていない。

「燐」

「うん。……だからね、今度、西の虫たちのことを、教えてほしいの……多鹿津なら、書を、手に入れられるでしょう……?」

 多鹿津は溜め息を返した。ありがとうと燐姫は笑い、双子の胸に身体を預けるようにしてうつらうつらし始める。多鹿津はそれを、見た目に反して力強く抱え上げると、宴の輪をまたぎ越すようにして行ってしまった。

 満津野姫が「あの子たちは本当に仕方がない」と呆れた様子で言う。

「仲睦まじいお二人ですね」

「二人でひとつだから。足りないものを補い合って、完全な形を作ることができるけれど、考えものだとわたしは思うわ。健全じゃない。ふたつという数は、自分と、反転した己という形に感じられて、不吉に思えるのよ」

 満津野姫の表情は張りつめ、声は明朗さを失って低くなっていた。彼女の懸念の一端を垣間みたのだと、いちるは夜闇に包まれた空を眺めやる。天に近しい場所であっても、灯火に照らされるがために星の数は減っていた。

(ふたつ。自分と、反転した己)

 黒色を見上げ、思い浮かぶのが、東と西の大神たちなのは何故なのだろう。

 何かがずれていると感じたいつかの疑問は、しかし形を定めせられず、揺れて消えていく。小さな屑のようなそれらを奥底に抱え込み、いつか繋ぎ合わせられる時を待つことにした。

 失礼を、と断り、席を立つ。裾を引いていくと、神々が言葉を止めていちるを見上げた。騒ぎの静まりに気付いたアンバーシュが、杯を掲げる。視界の隅で、珠洲流が一瞥をくれたのが分かったが、いつも通り落ち着いた様子だった。

「そろそろ挨拶をして辞さないか」西の言葉だ。今では口に馴染んでしまった語で告げたそれを、アンバーシュはきらりと目を輝かせて受け入れた。

 途端、「うっ!?」と驚きの声が上がったので見遣ると、隣にいた珠洲流の膝上に、銀色の柔らかい髪が乗っている。

[フロゥディジェンマ殿……その……いったい、何を……?」

 可哀想に、さすがに珠洲流も西の小さな女神の振る舞いに目を白黒させている。青年神の膝を枕にしている少女の姿の女神は、その上でごろりと反転し、下から覗き込んで、視線だけで何事かを訴えようとする。

 真っ直ぐに見下ろした珠洲流と、膝から見上げるフロゥディジェンマ。

 いちるとアンバーシュは顔を見交わした後、言った。

[よろしく頼みます]

[なっ……!? お前たち、何を言っている!?]

[スズル、スズル]

 フロゥディジェンマが袖を引く。身体を起こしたのでほっとした様子の珠洲流に、彼女は重々しく言った。


[『夜ハ、ダメゼッタイ』]


 言うなり再び珠洲流の膝に頭を置いて目を閉じてしまう。噴き出すのを堪えるいちるたちだったが、混乱の極みにある珠洲流はどうしていいのか分からず必死に少女に呼びかける。もう一度よろしくと伝え、調子を取り戻した周囲から揶揄される珠洲流を置いて、いちるとアンバーシュは、紗久良姫と阿多流に辞する許しを貰う。

[どうぞ、ご自分の家だと思って過ごされますよう]

[ありがとうございます。それで、厚かましいようですが、ひとつお願いがあるのです。よろしいですか?」

 紗久良姫を見つめ、アンバーシュはにっこりした。

[明日、妻が起きてこなくとも、お許しいただければ幸いなのですが]

「な……!?」

 満津野姫は顔を真っ赤にして両の手で拳を作り、紗久良姫は軽やかに声を上げて笑った。

[結構です。明日は誰も構わぬようにしましょう。ただ一つ申し上げるなら、決して無体な真似はなさらないで。いちるはわたくしたちにとっても可愛い子なの]

[女神の慈悲に感謝申し上げます]

 紗久良姫の前では殴りつけることも、ましてや罵倒すらできない。唇を噛み締めて耐える屈辱を味わっている傍らで、アンバーシュは満足そうに、乙女たちの視線を浴びながら、凛と立ち上がっていちるに手を伸べた。

(後で見ていろ)

 まずは爪でも立ててやろうと微笑みを浮かべてアンバーシュの手を取ったいちるだが、次の瞬間、手どころか身体を抱え上げられ、声を飲み込むことになった。重い衣装など構うことなく、しがみつかねばならないいちるを楽しそうに笑いながら、男は誰も彼もが口を開けた宴席のただ中を闊歩する。

 心なしか誇らしげに見えてしまう自分の目の悪さを恨めしく思いながら、明るい場所から遠ざかってから、とりあえず緩んでいる頬を思いっきり摘んでやった。痛いと言うその声もまた、愉快そうで苛立つのだが、どうにも頬が締まらなかった。




 唇を合わせる合間に息を継ぐので、なかなか思いが言葉にならない。まるで暴れるようにして縺れ合うので、意志も途切れがちになり、なかなか伝わらない。それでもいちるは何とか相手の性急さを諌めながら[アンバーシュ]と強く呼びかけた。

「何」

「調べてもらいたいことがひとつ」

 藤も葵もいない好機を逃すわけにはいかない。

「アマノミヤに、愛人がいなかったかどうか」

 さすがに動きが止まった。半身を起こしかけたいちるに被さったまま、じっと真意を探ろうしてくる。ぐっと目の光が強くなる。怯まない。

「……とんでもない深淵を覗き込もうとしていませんか」

「女を囲っていた様子がある。だが誰も知らぬというのだ。そんなはずはあるまい。女神ならば手がついたことを誇るだろう。精霊ならば神に召し上げられよう。となれば、残るはアガルタの女か」

 だが見当たらない。彼女の持ち物であったろうこの銀珠殿は閉鎖され、誰にも使われることなく放置された。久方ぶりに開けられて迎えられたのはいちるだった。アガルタではない。では、その女はどこへ消えたか。

「始末されたか。または放逐されたのなら痕跡があるはず」

「寿命を迎えたのかもしれない。俺たちには、アガルタという種族がどんなものかという情報がない。神なのか、人なのか、それとも別のものであって儚いものなのか……」

 そこまで言ってアンバーシュはふと何かに気付いて口をつぐんだ。同じものとは言えなくとも、何者でないものを知っているはずだった。いちるは頷いた。もう一つ問題があると言い、唇を舐めて息を吸う。

「私とアガルタの関係の謎が残る。私とアガルタにどのような関わりがあるのか」

「想像がついているように聞こえますが?」

 息がかかるほど近くにあって、素肌に手を置きながら、しているのは密話だ。空気の濃さは薄れ、別の意味で深くなりつつある。

「可能性としては一番濃い。だが……有り得ぬ」

 何故、と問いかけに、答えた。

「殺されるからだ。東神と人の間に生まれた子は」

 恐らく、さだめられたのは東神が島を治めるようになった始まりから。

 紗久良姫の言葉通り、伊座矢の怒りに触れるものが純血という概念ならば、東神を支配しているのはそれだった。西神は人に混じり、半神と呼ばれる子孫が人と神の間を繋ぐことがある。だが東神は、そもそも人と交わることがない。人間は、彼らにとって守護し、見守る対象ではあるが、まったく異なる存在として認識されている。人間の中で異能を持つ者は、仙として召し上げられるものの、それらは人間以上のものにはならない。

 東神と人間の恋物語は存在する。すべてが悲恋に終わる。東神の掟に逆らった者は死を賜る。あるいは連れ戻され、人の方が死を受ける。子どもがいれば殺される。東島に、半神は存在しない。

 三柱の直系たる大神と神獣に連なるもの。それが東神の誇りだ。

「もし、アマノミヤとアガルタの間に生まれた子があるなら、始末されているに違いあるまい。掟に従うのならばな。もしそれが辛うじて生かされていたとしても……」


 暗い大地。

 恵まれぬ土地。細々とした光を掻き集め、這いつくばって生きることを宿命とする人と国。その中で生きてきた。森の奥深く、静寂だけを友として、答えのない問いを繰り返した。

 人でもなく神でもない、すべてから隔てられた我が身は、なにゆえこの世界に存在するのか。

 ――神よ、どうしてこのようにつくられたのだ。


「……守護も庇護もなく、野に放たれることがあるか?」

 いちるが己を、アマノミヤとアガルタの子だと思えぬ理由がそれだった。

 アマノミヤの直系、アガルタの子孫が、自分たちの望みを叶えるものだと知っていて、西の神に譲り渡すか。いちるならば、限られたものを手放したりはしない。

 今になって、多くの神々がアガルタへの道筋を求めている。その手がかりになるものが複数あるのならば、東神がいちるを手放すことが理解できるのだ。また別の、秘められた事情でもないかぎり。

 東神がたつきを離すとは思えない。

「サクラやアタルはあなたを重んじているようでしたが?」

 アンバーシュの問いかけはいちるの疑問を突く。しかし、分からないと首を振った。彼女たちが、単にいちるを西への生贄にした理由以外のものを確かだと見出すことができない。だが気になる言葉も聞いているのだ。伊座矢は、姉神のしていることは自己満足だ、と断罪している。

 何にせよ、アマノミヤの神々の事情に通じる者のいないことが、道を阻んでいるのだ。

(紗久良姫の『自己満足』にあたる妾の重用が、過去に何が起こったためなのか。調べねばならぬのは、アガルタの行方と、妾の存在。そして、大神たちがアガルタを望む理由)

 肩を押され、床に肘をつく。頬を撫で上げられたのは、どうやら気になる表情をしていたせいらしい。薄青の瞳が、何もかもを抱く深みを帯びた色になる。

「アマノミヤに会談を申し込んでいます」

 許可が出るかは分かりませんが、とあまり期待していない口ぶりで肩を竦め、だから、と先ほどより強く肩に触れる手が強くなった。

「少し時間をくれませんか」

「分かった。待とう。アマノミヤに直接話ができるならば、」

「それもあるけど、そうじゃなくて」

 笑いながら遮られる。疑問符を浮かべたいちるは、頭上から包まれるようにされて、形をなぞる緩慢な口づけを受けた。呼吸を取られてまばたきをすると、低めた声が肌にかかった。


「……二人で触れ合うだけの時間、ですよ」

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