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零ゆる花のシャングリラ  作者: 瀬川月菜
第十八章 花姫神 はなひめがみ
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花姫神 1

 帯を結びながら溜め息が漏れたのを、フロゥディジェンマが聞き咎める。膝をつけて座り込んでいたところから、何事かと顔を上げるので、いちるは何でもないと口の端で微笑みを浮かべながら首を振り、純絹の帯を締めた。

 誰ぞの手伝いが欲しかったものの、人手をさけぬという珠洲流の懸念を理解できたため、口うるさく言うつもりはなかった。未だここに留め置かれているだけ、幸いであろう。

 東島、東の大神の末子、珠洲流の守護地である神域に、いちるとフロゥディジェンマは秘されていた。もちろん、誰の許しもない。

 すでに一夜を明かしたいちるは、ここがまごうことなき東島であると実感した。朝の気配、鳥の鳴き声、大気の香り。水を多く含む森の香と、湿った土。拓けた都市とは遠く離れた、清浄さが密となった聖域。夜の星は霞まず、光は光のまま、何者の手も拒む場所。それが、いちるがかつて暮らした東の地の、神々の場所だった。

 いちるたちの出現に、珠洲流は多くを口にしなかった。西の大神がアガルタという場所へ向けて手を伸ばし始めたこと、いちるの身が危ういらしいことを伝えると、大まかな事情を悟り、身を翻して神山に行ってしまった。連絡役に彼の側付きである恵舟を置いていったが、その彼も他の用があると見えて必要なものを揃えると姿を見せなくなった。

 そうしていちるはこうして、恵舟が用意した絹の着物を身にまとっている。まさか、東の衣装を身に着けることになるとも、今時の衣装を与えられるとも思っていなかった。

 白絹の小袖に浅葱色の細帯を締め、上から同じ浅葱の打ち掛けを羽織っている。浅葱に施されているのは流水と蝶で、金と朱色がきらきらしい。普段から用意されているとは思えぬので、急ぎ用立てたものなのだろう。化粧道具だけが元々あったらしく、誰のものだろうと考えて紅を塗った。東の女の顔が鏡に映り、見た目据わりはいいが、どうも心が落ち着かなかった。フロゥディジェンマに童女の着物を着せかけながら、エマを見るような心持ちでいるのかもしれぬ、と思う。どうしても相容れぬ何かがある、と感じさせるものが胸にあるのだ。

(近く西へ返されるか。それとも、東神に囲われるか。西にいると東神の動向が見えぬものだったゆえ、この状況で陣地を組み立てるのは難しい)

 しかし、いちるを手放した時点で、彼らはアガルタに関わる者を見限ったということになるのか。その理由は何か。珠洲流が知らぬこと、つまりこちらでも古神のみが知り得るものがあるのだろう。過去を知る者を引き入れることが叶わなかったことが、東島では可能になるまいか。

(東神は、多くが古神だ。西神ほど神がおらず、ほとんどが大神の直系。ただではいかぬだろうが、味方を作れば、あるいは……)

[しゃんぐりら。恐イ顔]

 ぽつりと少女が言い、首を傾げる。

[エマ、間違ッタ?]

「……わたしにも分からない。ただ、エマがわたしを思ってくれたことは、よく分かっているよ」

 事実、西では状況が膠着していた。逃げの一手のみが許される状況を、いちるもアンバーシュも歯噛みしていた。

 打って出る術が見出せない苦しいところで、少女の無垢な願いが何かを生み出すかもしれないという希望を、いちるは抱き始めている。

 恐らく、これでこちら側が手をこまねいているだけでも、従順に従うつもりもないことが広まった。東神を味方に付けることができれば、大神の思惑が知れ、戦う術が見つかるかもしれない。

 情報を、といちるは意識に刻んだ。知らねばならない。古い神々が持つ、アガルタの記憶。大神が抱く望み。秘められているものを暴き出すための武器を手に入れるために。

 着物の裾をはだけて転がるフロゥディジェンマに注意し、帯を直してやる。頭から被って裾が広がっている愛用の普段着とは違って、東の服は不自由らしく、その内、服を脱いで歩き出しそうだ。もし長居するなら、以前と同じ服を用意してもらわねばなるまい。当の少女はされるがままになっていたが、ぴくり、と足先を外に動かした。いちるも察した。誰か来る。

「エマ」

 少女は反転し、銀の毛並みを持つ巨大な狼に変じた。守るように半身を前に出し、腹の側にいちるを囲む。

 東神の神域に踏み入るもの、すなわち神に他ならない。

 板間に悲鳴を上げさせて現れたのは、若木のような髪を縛って蔓のようにしならせた、少年の面差しを残した男神だ。まだ尖りきっていない輪郭に、切れ長の眼差しが鋭く、瞳に宿した激しい怒りは、彼の印象を成人ではなく癇癪を起こした幼子のようにしている。いちるは、まず身構えた。何故なら、彼の手には抜き身の太刀があり、フロゥディジェンマが唸り声をあげたためだった。

「おのれ」と、思ったよりも高い声は、男神は想像した年齢よりも幼いことを意味していた。歯ぎしりし、太刀を向ける憎悪は本物だったが、それは敵に対するものよりも、幼い思い込みに由来するのだと判断することができた。

「魔性の身でよくも神域に足を踏み入れたな。いかなる術を用いようとも、我らは決して汚されはせぬ!」

「エマ」

 歯を剥き出しにして唸る獣の首に、手を置き、宥めながら、相手を注視した。極力、温和な口調で呼びかける。

「御剣を収められませ。刃を向ければ、いかな神狼であろうと、牙を剥くことを躊躇いはしないでしょう」

「魔の甘言は聞かぬ」

 太刀を持ち、珠洲流の領域に踏み込んでくるのなら、彼より上位。ならば、五男子に数えられるかの神の兄神のいずれかか。すぐ上の神は、確か文字を司る神で、このような荒々しい振る舞いはしないだろう。とすれば、その上。

渡汰流御神わたるのみかみとお見受けいたします」

 相手はぎょっと目を見開いた。当たりだ。三番目の男神、渡汰流わたる。植物を司るもの。なるほど、汚濁を嫌い、浄化を好ましくする気質はこのように現れるのだ。そのように健やかな性格なら、ままならぬことも多かろうに。

 いちるは優しく言った。

「太刀をお置きください。わたくしの手には何もございませぬ。フロゥディジェンマ神も、そのように敵意を露にされては牙を収められますまい」

「……魔性のやり口だ。名を取り、絡める」

 どうあっても太刀を手放すつもりはないらしい。強情なと舌打ちしたい気分だったが、他の手を使っても理由をつけて刃を向けるのだ。初手で傲慢に見せるべきだった。ここにいて何ら恥じることのないものを、食客の身でつい引いた。

「無遠慮に乗り込んできたのはそちらの方」

 強い調子で言い放つ。

「太刀を収められませ。血が流れれば、あなたの望むようになるかもしれぬけれど」

「我が望みは、地に蔓延る魔性の消滅。お前のように流血を好ましく思うことなどない!」

 いちるは傲然と顔を上げた。

「ならば、その剣を置くことです。我が身から流れ出た血は、血を汚し、あなた方を汚す。この身は人にあらず、なれども、この身こそを望んだ者たちがあなた方に牙を剥くから」

「何を……」

 言いかけ、渡汰流は言葉を止めた。唸っていた神獣は、今や底深い血の色の瞳で男神を見つめ、その一挙を逃さぬよう冷静さを取り戻していた。静寂の中、一息でも呪いを吐き出したならそれが完成する前に喉笛に噛み付くだろう。太刀が振り下ろされる意志を宿したなら、その手は肩の肉ごと消え去るだろう。首を静かにもたげるフロゥディジェンマを支えながら、いちるは微笑んだ。渡汰流が、ありありと想像して青ざめたのが見て取れたからだった。

 それでもなお、若い男神は太刀の柄を強く握った。

「神をたぶらかしたか」

「お前より好かれるというだけですよ、渡汰流。お前は、本当に乱暴者でいけないこと」

 涼やかな一声が空気を変える。

 しゃりん、と銀の鈴の音が響き渡り、光をまとった影が現れた。影だというのに、光を散らしていたのだ。光は、花弁だった。薄い、爪のような花が吹き込み、波のようにささやかに寄せてきた。甘い香りが燻り、香りが形を取った。

 花の姫。

 そう思ったのは、その人のまとう衣の中で、花が芽吹き、咲き、揺れ、入れ替わるようにして再び咲くからだった。五枚花の桜、鞠の形の桜、枝垂れる桜。多種の桜が咲き乱れている衣を引いて現れた女神は、花の色を溶かし込んだような赤く光る不思議な黒髪と漆黒の瞳をした、歳若い娘の姿だった。華やかな笑みは、花のついた枝を思わせ、彼女の齢の重なりを感じさせる。笑み一つで、渡汰流は声もない。

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