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零ゆる花のシャングリラ  作者: 瀬川月菜
第十六章 忘咲 わすれさき
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にしきあや 3

 再び、まるで最初からそうであったかのように手を繋ぎ、歩いている。歩くというよりは足を擦り動かしていると言った方がいい歩調だ。ほとんど進まず、手を絡め、隣り合っていることに意味があるような時間だった。

「クロードとエルンストの姿が見えなかったが」

「エルンストは国王付きではなく、インズ宰相の補佐官ですから彼のところ。クロードは休みをあげました。今頃、恋人のところじゃないでしょうか」

 ロッテンヒルの隠れ家ならば誰にも邪魔されずに逢うことができるだろう。都会では誰が何を見聞きしているのか分からないものだ。隠れ家には住み込みの台所女がいたが、おしゃべりが好きなだけの善良な人間だったので、クロードは歓迎されるだろう。

 あの二人の行く末はいちるも案じていた。あれらは、いつか別れるさだめにある。

 呟きには溜め息が混ざる。

「いいことをしたとでも思っているのか」

「出来るだけのことをしてあげたいと思うだけです。あなたと同じ」

 アンバーシュの言葉には先に立つ者の笑みがあった。いちるが感じるものとは異なる、時間と運命についての感覚がこの男にはあるのだ。隠遁し、世間から離れ、見送ることに感慨を抱くことのなかったいちるにとって、今の状況は危ぶむべきものだ。しかし、自身が見送るのでなく見送られる側になる可能性が、訪れるとは思ってもみなかったが。

「謳歌すればいい。それは消え行く者に光を与え、残される者に悲しみと喜びの記憶を植える。俺たちは、せめて近くにいる彼らに、できるだけ不幸な形に終わらないよう見守って、手を貸さなければならないと思います」

 ではわたしたちはどうなる。

 わたしたちは、誰の助けを得ることができないまま、別れを迎えるやもしれぬ。

 言いかけ、止めた。この件について、いちるは時折、言葉を飲み込むべきだと判断することが時々ある。諦め、言っても仕方のないことだと思うときがある。西の大神にすら救いを得られなかったのだから、何に願ってもしようがないと、自身がその答えを導いてしまうのだ。

 だから、日々に静かな喜びを数えることにした。

「イチル?」

 いちるは足を止めた。

 辿り着くべきものを見出し、己の不調の原因を知ったからだ。

 いちるは胸の奥のものが一気に熱となって上昇したので、アンバーシュの手を振り払い、正面に向かって走っていた。

「は、……えっ!?」

 戸惑うアンバーシュが何事かといちるの背中を追う。いちるは、息を切らしながら己に向かって罵倒と叱責を繰り返していた。

(馬鹿だ。大馬鹿だ。やはり己だけで考えるべきだったのだ。答えを求めれば与えられると内心で分かっていたのではないか! アンバーシュを探す理由が欲しかっただけ!)

 ――会いたかったのだ。

 胸に澱を感じるとき、いちるは己を立ち返っていた。一人で物を考え、誰に問うこともできずにいた。アンバーシュに尋ねようと思ったのは、何の不思議もない動きだったのだ。

 原因が、これ、なのだから。

 放っておかれることが我慢ならなかった。なんてくだらない理由!

 感情が爆発してこじれる前に行動したのは褒められるべきかもしれなかったが、それにしても阿呆だった。これでは、人恋しいと身をくねらせているのと同じだ。おぞましい。そんな身の振る舞いを自身に許した覚えはない。

 落ち葉の上に裾が踊る。だがもちろん、アンバーシュの脚力にろくに走りもしないいちるが勝てるわけがない。それでも不慣れな場所だったからだろう、腕を掴むべき手は掠め、いちるの裾を掴むと、二人してもつれ合うように倒れ込んだ。

 落下が止まり、いちるはアンバーシュに頭を抱え込まれていた。擦り傷を作った足下から、傷が消えていく感触がした。深い溜め息が聞こえる。何がなんだか分からないと、疲れた様子が感じ取れた。

「怪我は?」

「……治った」

「『治った』で済んでよかったですね。いきなり走り出すからびっくりしました。あなたといると心臓が落ち着かないな……」

 身体を起こし、ふと止まる。

 ぎくん、とぎこちなく心臓が鳴った。その目が嫌いだと、いつも思うが、今のそれは薄く、淡々とした冷たいものを帯びている。

「退け」

「体調は?」

「今は関係ない」

「俺は調子が悪いです」

「聞いていない」

 くつ、と笑うと手を掴んで引き起こす。いちるは髪に付いたものを払うと、抱え込みそうになる頭を何とか堪えた。座り込んだアンバーシュは何がおかしいのか、膝の上で顔を支えて、いちるを見て微笑っている。

「何だ」

「なんだかなあ、という気持ちです、今」

 心底おかしいという様子で、笑顔が滲んでくる。

「恋ってこんなでしたっけ。もうちょっと穏やかな、安らぐものだと思ってたんですけど。落ち着かないし、忙しいし、よく分からないし、ちょっと時々すごーく腹が立ちます。自覚して怒らせてますか?」

「時々」

「やっぱり。そうだと思った」

 くすくすくす、と顔を洗うようにして覆いながら笑っている。いちるを放り出して一人そうしているかと思えば、大きく溜め息して、ひどく凪いだ寂しい目でいちるを見るのだった。落ち着かず、身じろぎをし、それでも収まらなかったので立ち上がった。

 いちるは、アンバーシュに答えられない。

 何故なら、いちるが初めて抱いたこの感情は、ひどく腹立たしく、何度も苛立ちを覚えさせ、深く傷を負い、じわりと痛むことも、激しく激痛を訴えることもある。静かに疼くかと思えば、燃えるようになることもあった。そこをアンバーシュが触れていくことで、熾き火のような感情に変えられる。だから、いちるの恋情は傷と同義だ。宥められるものだからこそ、抱えていられる。そうでなければ、とっくに見向きもしなかっただろう。

(たかだか眼差しひとつで、宥められた気になっている妾もどうか)

 口が達者で不誠実なアンバーシュは、本物の眼差しを使う。覗き込む瞳が、いちるに一つのことを訴えかけてくるから、流されがちになってしまっていた。目というのは、底を知ろうとすればするほど深く、絡めとって離さないものだ。いちるの素質としての力がそうさせるのかもしれないが、アンバーシュの目は力がある。

 アンバーシュがゆっくりとこちらにやって来て、声をかけた。

「戻りましょうか。一仕事したら、お茶に行きます。先に始めていてください」

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