後篇
「さて。凪もいい加減に帰って来る頃だろうか、いやに遅いな」
言いながら、戸口に目を向けた時だった。
突然、大きな音を立てて開かれたと思ったら、目も眩むような火灯りだろうか。暗闇に慣れつつある目をしぱたかせる間もなく、誰か慌しく入ってきたのか?
「失礼。美子?何処だ、隠れても無駄だ、出て来なさい」
「その声は・・・美子さんの父君じゃないですか。一体どうしたと言うのです」
「嵐殿、美子は何処です!」
「ご主人、落ち着いて!どうしたと言うのです」
嵐は必死にご主人を抑えようとするのだがいかんせん、体格のいい相手に敵う筈も無くバランスを崩してひっくり返っては、ずれた眼鏡を掛け直す始末。藤はと言うとオロオロと右往左往するばかりでその間にもご主人は家の中を、それこそかまどの中まで覗いては美子の名前を連呼している。
終にはその手が嵐の、命の次に大切な調剤道具に掛かろうとし所で慌てて、それこそ火事場のくそ力で羽交い絞めにして説得して、ようやくご主人も我に返って、済まなさそうに、満身創痍の嵐が立ち上がるのに手を貸してくれる。
「いや、全く申し訳ない、取り乱してしまって」
「いえ・・・それより、美子さんがどうかしたのですか。私の所に来たと言う事は・・・」
嵐の後ろに控えた藤が不安げな顔をして居るせいか、未だ心ここに在らずな様子のご主人と、今度は囲炉裏を挟んで向かい合っている。彼にも、藤が見えているし声も聞こえているだろう、だから余計に気にして口ごもるが結局、重い口を開く。
「凪殿は」
「凪は先刻、配達に行かせました、すぐに帰ってくる筈ですが・・・凪が美子さんと一緒にいると?」
「いえ、疑うわけでは無いのです。ただ・・・」
「手紙、でしょう」
「ご存知でしたか」
「私が凪に、頼んだ物ですから」
正面から顔が、見られない。ご主人は不可解な顔をしている事だろう、最もな反応だ。
「私が凪に、頼んで届けさせた手紙が発端なのでしたら、凪はきっと美子さんと一緒でしょう。私の責任です、是非とも一緒に探させてください」
凪が薄目を開けるとそこは、見たことも無い一室だった。太い、磨きぬかれた柱、続きで描かれた意匠のふすま、高い天井。それらが何本も灯されたろうそくによって煌煌と浮かび上がっているのがボンヤリと見えている・・・
「凪さま・・・ご免なさい、こんな方法しか思い付かなくて」
「・・・美子さん?どうして」
凪は言われた通りに配達を済ませ、家路を急いでいた。通りから折れてもう目前、と言うところまで来て、ついさっき送った筈の美子のかごが止まっていて・・・
まだくらくらする頭を支えながら起き上がると美子はいっそう悲しそうな顔で凪に視線を合わせ、逸らして口ごもる。しかし意を決したのかはっきりとした、よく通る声で凪に向き直り、
「凪さまが気を失っている間にここまで来ましたの、手荒な真似をしてご免なさい。父が、私たちの事を勘ぐっている事は知っていたのですけど。送っていただいたすぐ後の事です、凪さまのお宅の方へ向かう父のかごを見かけましたの、まさかこんなに早いなんて。それで急いで、でも凪ぎさまが見付かって良かった!凪さまが私をたぶらかしてるだなんて!私、こんなに本気ですのに。いずれ、父はここにたどり着くでしょう、でも私、折れませんわ、父が私たちの事を認めて下さるまでの辛抱ですのよ」
「ちょっと待って!・・・もしかして、おれと嵐と間違えてない」
「嫌ですわ、私、恋人を間違えるような不実な女じゃありませんもの。あなたは凪さまです。町での噂は色々聞いていますけど、私にだけは信実の愛を語って下さったじゃありませんか」
「待って待って!・・・君の話を要約すると、手紙の差し出し主はおれになるのかな?それは誤解だ、おれはただ、嵐から君へのラブレターを届けていただけなんだけど。手紙には署名が無かったんじゃないかな、嵐が書き忘れたんだ」
嘘、と魂を抜かれたみたいに突然止まってしまう美子。こうして人違いと誤解で拉致された事に腹が立たないわけではないが、今にも泣き出しそうな美子の顔を見てしまうと気の毒な気がしてくる。
凪は困り果てて所在無い。下手に親切心を起こすとろくな事にならないのは今までの経験からして知っていたし、かといってこのまま放っておくのも・・・結局、凪は声を掛けてしまう。美子が俯いて、肩を震わせて泣き出してしまっては、そうする外無いだろう。
「何と言うことでしょう!それでは、私の気持ちは、私の凪さまをお慕いするこの気持ちは?・・・凪さまは、私のことがお嫌いですか」
じっと、美子の視線が凪をとらえると、凪は蛇ににらまれたカエルよろしく一歩も動けなくなってしまう。涙に濡れた頬、潤んだ瞳。気持ちとは裏腹に、いけないと分かっていても手が動いてしまう、手が、美子の肩に触れて美子も、体を預けるように凪にもたれかかる。
凪さま・・・と、美子がうっとりと、凪が脂汗をたらしている時だった。
「美子!」
なだれ込んできた突然の闖入者、嵐、藤、ご主人の目には、ひしと抱き合う二人。気まずい空気は暗雲のように垂れ込み、誰も何も、言葉を見つけられなかった。
怒りに震えるご主人、ぴったりと寄り添って離れない美子。それから・・・凪は再びひっくり返って機を失う事になる。
・・・・・
「本当に!何もなかったんだろうな」
「くどいわ!お父さま。全く、もう少しでいいところだったのに。納得したら、さっさと出て行って下さいまし」
そうも邪険にされては立つ瀬がないと言うか。気の重い沈黙を破って再び、すっかり頭に血が上ったご主人は凪に殴りかかり、止めようと後ろから飛びついた嵐を再び吹き飛ばして一発、凪が喰らった所で美子の堪忍袋の緒も切れて、二発目をお見舞いしようとこぶしを振り上げたご主人の頬を思い切り張り倒したのだ。
これが他の誰かだったら正直、千年の恋も醒めていただろう。
すっかりしおらしくなったご主人は、薬の効果が切れて見えなくなった藤にも気付かず、大の字に伸びてしまっている凪に平謝りをしながら、完全におかんむりの美子のご機嫌も伺わなくてはいけない。その結果、美子の意見、我がままのすべてを受け入れて言いなりになる事を選んだようだが、それでこういう娘に育った訳だ。
凪がようやく目を覚ますと、嵐たちはいよいよ美子に追い立てられる。起き抜けで、立派な青タンをこさえた凪は泣きそうな顔で嵐の袖の端を掴んでいたが、こればかりは。美子ににらまれては・・・そっと、部屋の端に櫛を置いて、凪の肩を叩いて勇気付ける事しか出来ない。
ふすまを閉めると、空間が分かれる。向こうには凪と美子と、多分藤。こちらには嵐と、ご主人。心配そうに右往左往しているが、所詮はふすま一枚、声は嫌でも聞こえてくる。
「凪さま、それでは今回の一軒は私の早合点、ということですの」
「ごめん、おれ・・・」
「いいえ!そこから先はどうか言わないで下さいまし、それに私、まだ諦めてませんの!」
どたばたと、獣が暴れるような音がしてふすまを見返し、丁度、虎の絵が描いてあったものだからそいつが、と思ったがそんな筈は無い。押し入った方が良いだろうか、と考えあぐねいで居ると、ひときわ大きな音が腹に響く。
「嵐さん謹製、恋の特効薬!効き目はあなたが一番ご存知ね?ごめんなさい、一時でもいいの、あなたがお父様の前で私との結婚の許しをこうてくれたなら。うふふ、飲み込みましたね?これであなたは私の虜・・・ウ!」
大きな、何か背の高い物が倒れるような音。嵐はとっさにふすまを開けるとそこには胸を押さえて倒れている美子、それを信じられないと言った、呆けた情けない目で見下ろす若干着衣の乱れた凪。
凪は美子に固まっていた瞳をこちらに向けると、ひ、と短く息を吸って目を剥くと、しりもちをついて、視線は一点に釘付けたまま。
「ふ・・・藤?」
嵐が振り向くとそこには誰も居らず、血相を変えたご主人が飛び込んでくる所だった。
そうなると、ようやく嵐も状況を把握する。完全に腑抜けた凪は使い物にならない、医師の心得は無いにしろ、脈を取るくらいは出来るだろう。
「大丈夫、貧血の酷い奴でしょう。それより早く、医者を」
そう言うとこけつまろびつ、威厳のかけらも無く、ご主人はほとんど四つんばいに近い状態で走って行ってしまう。嵐は美子を仰向けに寝かせ、すっかり腰を抜かしている凪に向き直ると
「美子さんはおれが見ているから、お前は藤の所へ行きなさい」
「でも」
「それとこれ、お前の注文した幽霊に効く薬。ちゃんと渡したからな、お前から言っておけ。彼女を金輪際、美子さんに近づけさせるな。美子さんにこれ以上何かあったら、おれは絶対に許さない」
・・・凪の顔は見なかった。だからどんな気持ちで聞いて居たのか、なにを思っていたのか。凪は薬と、ふすまの側に置いておいた櫛だけを手に行ってしまう。そうするとようやく二人きりで、嵐は眠る美子の顔を覗きこむ。
虫の鳴く声さえも聞こえない。
静かな、夜だったのだ。届かなかった手紙の相手、手の届かない所に咲く花。憧れ、夢にまで見た美子とようやく二人きりになれたのに。
「美子さん、私たちは、こんな形でしか二人きりになれないのですね。手紙の事は・・・ご免なさい。気付いていても、通じていないと分かっていても、あなたとのつながりを絶ちたくなかったのです。あなたの気持ちがたとえ何処にあろうとも、たとえ私に向くことが無くても、それでも私は、あなたを慕っていたのですよ。もっと早くに、そう言えていたら・・・何か変わっていたでしょうか。もしも・・・」
吐く息が白い。上着も着ずに、裸足で飛び出して来てしまったので指先の感覚はしびれて、手にした櫛と、薬を落とさないように気を付けなければいけない。
誰も居ない。いつも、首をめぐらせればすぐそこに、笑顔をほころばせてたたずんでいたのに。
先刻の顔を思い出す。長い髪は逆立ち、あろう事か恐怖を抱いてしまった。その、一瞬の気後れが今に響いているのだ、藤を傷つけてしまったのだ。せめて、同業の凪には薬が効かない事を説明していれば、あんな事には・・・後悔ばかりが先に立つ。
藤の元に。そう言われて探しに来た、そう言われなければ探しになど来なかっただろうか。考えても、どうにも頭がボウっとして、一日に二度も気絶させられたのだ、無理も無いか。凪はすっかりあがってしまった息を落ち着かせようと、一つ深呼吸をすると迷い込んだ建物の外、庭に座り込んで空を仰ぐ。真ん丸い月は昼間の太陽のように明るく、その所為で星が見えない。それでいて、身を切るように冷たい風が吹いていて、肩を抱き寄せては、思い出したように衿を正す。
持ち出した、櫛に目を落とす。どうして忘れていたのだろう、彼女の元には、毎回花を携えて薬を届けていたのに。
す、と視界に端に、裸足のつま先が入る。凪自身のものではない。いっそう透けた華奢な、細い指先を辿ると、顔を上げると思わず頬がゆるんでしまう、たった数刻、顔を見なかっただけなのに、こんなにも懐かしい。
「良かった、もう会えないかと思った」
「どうして、責めては下さらないのです?私は美子さんを」
「助けてくれたんだろう」
「その結果があれなんです・・・嵐さんに言われました、私きっと、悪霊になってしまったんです。凪さまに取り憑いて、いつか殺してしまうかもしれないんです!・・・だから、さよならです。私のわがままに付き合ってくれて、ありがとうございました」
「そんな、こっちこそ。そうだ、君の注文、薬が出来たんだ」
かじかむ手を藤に向ける。もう、それと分かるほどに透けていた。はかなく、消えてしまう現実を凪に突きつけて、悲壮に頬笑む顔に、体に、赤い霧がかかる。が、一向に藤が姿を取り戻す事は無く、透けたまま。それどころか、まばたきの度に輪郭がぼやけて行く。
「くそ、嵐の奴!ちっとも効きやしないじゃないか」
「いえ、もう・・・時間なのです、それは曲げられない。・・・凪さまは本当に、ご自分の魅力が分かっていらっしゃらないのですね」
どれもこれも皆、藤は自分の為にいたしました事でしたのよ、人生の最後に、あなたさまに会えて、しあわせでした。
パン、と視線を落とすと手の中の、櫛が真っ二つに割れていた。気を取られて、顔を上げると誰も居らず、静かな夜を見上げると、どんよりと重くのしかかるような鉛色。重みに耐えかねて、首を垂れるとふわり、と純白の結晶が折れた櫛に舞い降りる。音も無く、舞い降りた雪はすぐに溶けて、跡形もなくなってしまう。未練に、空を見上げてももう、何も舞い降りるものもなく、藤の姿を見ることは二度と無かった。
「反魂丹って薬があるでしょう?それを下さいな」
ぐったりと冷たくなった猫を抱えた幼女はにこやかに首を傾げているものだから、兄弟は揃って顔を見合わせて、ションボリとうな垂れる。
「あのねお嬢ちゃん、あの薬がどういうものだか知って言ってるかな」
「あれはな、何にでも効くし、安くて手に入りやすい万能薬。一言で言うと毒にも薬にもなりゃしない。まして死んだ者を蘇らせるなんて誰に聞いたんだ。幾ら優秀なこの嵐さんでも、そう言うお願いは聞いてあげられないね。それよりお嬢ちゃん、何か欲しい薬はないかな?うちみ、くじき、風邪薬から幻覚剤・・・はオススメ出来ないか」
「って!なに商売こいてんだよ、全く。ごめんねお嬢ちゃん。代わりに、その子に立派なお墓を作ってあげるのはどうかな、お兄さんも手伝ってあげるから、ね」
「お前、こんな幼女にまで手を出すつもりか、幾ら藤に振られたからって、呆れたな」
「んな訳無いだろ。お前こそ、美子さんに振られて傷付き過ぎて手伝えない~なんて、聞かないからな。手向ける花にいい薬、持ってるんだろう」
「誰に聞いてる?このおれに作れない薬はない」
「なによ、お兄さんたち二人とも、振られたの?」
死という、別れの悲しみから、曇っていた顔がくすりと、少しだけ晴れ間を見せる。二人は引きつった笑顔を幼女に向けると、声をそろえて、
「振られた訳じゃない!」
それでも、忘れられない事もあるのさ、生きているんだから。
了