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中篇

久し振りの外出の帰り、そろそろと暮れなずむ夕焼けを横目に見ながら空腹を訴える腹を抱える嵐は、くたびれた足を奮い立たせながら家路を急いでいた。


と、言う割に回り道をして居る。近道はある、筈だけど・・・ 


これだけ長く逗留すればいい加減に町並み、道が頭に入る、と凪が言っていた事を思い出す。が、いかんせん嵐の生活のほとんどはインドア、未だに覚えられない路地を避けては、行き交う大通りを選ぶ他道はないのだが。


 「嵐さん、お薬届きましたよ」


 「嵐さん、お代は後ほど」


 まではいい。馴れない引きつった笑顔を作って誤魔化せるのだが。


 「嵐さん、折り入ってご相談が」


 これは困る!


 ようやく注文の薬も追い付いて、わずかばかりの上がりも出てきて潮時かと思っている所なのだから。こう言う時は困った顔で会釈をして、そそくさと足を速める。余所者の嵐はどうしても目立ってしまう、だから本当は裏道近道を覚えてしまえばもう少し気も楽なのだろうが。


 間借りしている仮の我が家が見える位置まで来て、ようやく息をつく。たまの外出は本当に骨が折れる!凪など、常々外出している奴の気が知れない、と嵐なんかは思うのだが、あれだけ家に寄り付かないとなると考え方そのものが違うのだろうか・・・


 「嵐さん」


 「うわぁ!」


 飛び退いてよろけて、何とか踏みとどまった体を支えて向き直る先には女物の着物の柄?体制を立て直して、ずれてしまった眼鏡を掛け直して、ぼやけた視界を矯正すると。


 「み、美子さん!?」


 「ご免なさい、驚かせちゃったかしら」


 いえ、そんな事は。と言いながら急上昇する血圧とそれに伴う脈拍を意識せざるを得ない。美子は首を傾げて、大きな、きらきらした瞳を嵐に向けている。だから余計に、緊張を悟られる訳にもいかないので精一杯、平静を装って、それでもわずかに声が裏返ってしまう。


 「嵐さん、外でお会いするのは始めてですよね。何処か・・・黒の紋付なんて、大事なご用事だったのかしら」


 「もう、今から帰る所ですよ。美子さんは」


 「私はこれ、おはぎの差し入れです。お薬届きましたよ、のお礼と、感謝の気持ち」


 「え、お代は別に戴いた筈」


 「だからこれは、私の気持ちです。嵐さんと、凪さまはいらっしゃるかしら」


 戸口を開けると、しんと骨に染み入る空気に、しばらく誰も居なかった事がうかがえる。取られる物など何も無いけれど、留守を頼んでおいたのに全く。


 「すぐに火を入れましょう、じきに戻るでしょうから・・・いや、もう夜も近い、こんな時間に女性を引き止めてはいけませんね、送りましょう」


 「いえ少しだけ、待たせてください、そうしたら帰りますから。心配なさらないで、そこにかごを待たせてありますの」


 淡く微笑えむ姿はどこか寂しげで、明かりを燈していないせいだろうか、火鉢、囲炉裏と火を入れるとぼんやりと、浮かぶ美子の頬は朱がさして見えた。


 囲炉裏を挟んで二人、一足先に日の暮れた我が家は暗く、戸口に外の宵闇がわずかな光を伸ばしている。嵐は湧きたての湯で急須を温め、せめてものもてなしをと思うのだが、普段から凪に任せきりだった事が祟ってか、美子を意識している所為も相まって上手く入れられない。くす、と見かねた美子が手を貸してくれたから良かったものの、初めて会った時もこんな感じだったなと、香り豊かにのぼり立つ湯気を見ながら胸のわずかなざわめきを伴って思い出す。


 「おはぎ、作られたんですか?凄く美味しい」


「とんでもない!行きつけのお店の出来合いですわ。でも良かった、こんなに美味しいお茶と一緒に戴戴けて」


「美味しい、んですか?こういう物は全部、凪が買って来ますので」


「伺ってますわ、嵐は家事全般、な~んにも出来やしない!って。先日もね、お茶をご馳走になりましたの。ホラ、大通りにありますでしょう、おぜんざいを出してくれるお店」


「え、その、ちょっと待ってください。・・・凪とは親しく、しているのですか」


「やだ、凪さまったら。嵐さんにまで隠す事無いのに。・・・手紙のやり取りをしていますのよ」


頬を両の手で包んでうつ向いてしまう美子。暗闇にぼんやりと浮かび上がる顔はますます紅潮して見えて、嵐ひとりが取り残されているようで。確かに、手紙には署名をしなかった。美子からの返事にも、署名はなかった。お互いに秘密の恋人を気取って、誰にも気付かれないように、誰にも見られないように、決して実る事のない恋、目が醒めてしまえば終わってしまうような夢のような関係。


美子は、凪本人からの手紙と思っていたのだ・・・


「たっだいまぁ。あれ美子さん?嵐も」


「凪さま!これ、おはぎ。先日お好きだって言ってましたでしょう」


「わぁ、嬉しいな、有り難く戴きます」


「凪・・・悪いが、美子さんをそこまで送ってやってくれないか。そこにかごを待たせてあるそうだから」


「構わないけど、いいのか」


「美子さん、お引止めして申し訳ありません。お父上にもよろしくお伝えください」


「私、まだ・・・」


「凪」


・・・背中で、戸口の閉まる音がする。家の中は暗く、囲炉裏を挟んだすぐ向こうさえ、闇はわだかまって今にも嵐を飲み込んでしまいそう。一口、お茶を口に含むとすっかり冷めていて、温まりかけていた体に寒さが染み入る。


もう一度、戸口に目を向けると丁度、凪が入ってくるところだ。


「お帰り、凪」


・・・・・


何かを察してか、凪は何かを言いかけた口を名残惜しそうに動かすのみで、それきりうつむいて嵐の向かい、先刻まで美子の座っていた位置に腰を下ろす。


じっと、待っている。時々、こちらを上目に覗き込んでは目を伏せて、組んだ足をそわそわと落ち着かない。


「・・・調子のほうはどうだ」


「は?何だよ藪から棒に。薬の材料の事か、それならほら、藤が手伝ってくれたお陰で順調だぜ」


「それは有り難いんだが、そうじゃなくて。おまえ少し痩せたんじゃないか」


「嵐は少し肥えたな。たまには外に出た方がいいぞ、今日みたいに」


そんなにも、沈黙が耐えられないのか。明らかに話題を逸らしたと言うのに凪は無理にも嬉しそうに、調達してきた薬の材料を広げて見せてくれる。幽霊を連れて来た、と信じられない事を言い出したあの日から数えて、未だそれほど経っては居ない筈。正直、ここまで順調に事が運ぶとは思ってもみなかったので、戸惑いが無いと言えば嘘になるが。そもそも、蘭語で書いてある指南書の蘭国由来の材料など、どう考えてもこんな片田舎で手に入るとは思えない。もしも揃って調合する事が出来るのなら薬師冥利に尽きると思っていたが、おそらく藤の影響力だろう生前に使いきれなかった幸運が死後、一気に押し寄せると言う物語を読んだ事がある。その本は作り話だったのだが、もしかしたら本当なのかもしれないと最近は思い初めているくらいに。


「それで、お前の方の調子はどうなんだよ」


「おかげさまで。薬のことなら、仕上げの段階に入るところだよ」


ようやく、と言った感じで凪は一通りの買い物を嵐に広げて見せると、次は手際よく土間に下りて夕餉の支度に取り掛かる。嵐はその一つ一つを確認しながら、材料ごとに仕分けし、使いやすいように片付けるのだが。


「凪、これは?・・・女物の貝飾りじゃないか」


「あぁ、それは藤が欲しそうにしてたんだ。いいだろ一個くらい、綺麗だし」


言うなり、凪はまた何もない中空に目線を寄越しては頬笑んで居る。傍から見たら狂気の沙汰でしかない事を、一体どこまで自覚しているのか。自分がどれほどの危険を犯して、藤をそばに置いているのか分かっているのか。


「・・・凪、配達を頼みたいんだが」


「今、夕飯の支度してるのが見えないのか」


「一刻を争う場合もある、早いに越したことなし。それとお前、櫛を持って居ないか。


以前に配達を頼んだ家から預かっていないか、女物の彫り模様のある櫛らしいんだが」


「女物?・・・待てよ、そう言えば」


凪はごそごそと袖の下を探って、衿の中を探って、ようやく思い出したようにいつも首から提げているお守り袋を引っ張りだすと悪い悪い、と頭をかきながら中身を嵐の手の上に乗せる。


「悪い。大事なものだから無くさないで下さいって言われて、そのまま忘れてた」


「別の女にプレゼントした、とか言われたらどうしようかと思ったよ」


「信用無いなぁ。ま、現に着服してたような物だから文句はいえないか。それじゃ、着服の罪滅ぼしに、配達行ってきます」


開けた扉の向こうには、ほの明るい月光が長い影を嵐の傍らにまで伸ばしている。ふと、一瞬だけそれに寄り添う形の、陽炎のような揺らめきが見えた気がしたが、まばたきの後には何も無く、離れていく凪の影が戸口の隙間と共に細くなっていくのみ。


戸口が完全に閉まるとまた、少し暗くなった家の中には嵐がひとり・・・いや。手の中には凪から受け取った彫り模様の櫛、たわわに垂れる藤の柄の、女物の櫛を見つめていると、戸口で戸惑ったままの影が見えるようで。


「藤、と言ったな。話があるんだ」




形ばかりに囲炉裏を挟んで座布団が二枚。その一枚に嵐が座り、もう一枚は重みに形を歪める事も無く、見えない少女が本当にそこに居るのかも知れた物でない。


「そこに居てくれているのかな、どうだろう・・・見えない、聞こえないとやりにくいな。・・・今日、君の家へ呼ばれたんだ、せっかくの縁だ、線香の一本でもと、葬式に」


君はあの日、凪が初めて君を連れて来たとおれに言った日の朝、亡くなったんだよ。あの朝、君の父親が俺の所に来て、防腐剤は無いかって言うものだから。それは幾ら何でも早計だと思ったから、彼にはとにかく医者を呼ぶように勧めたんだ。でも、顔を見れば分かるよ、だから後で凪に薬を届けさせたんだ。


でも、その時凪は丁度席を外していたし、おれの方から事情を説明した事も無かったし。直接君の顔を見た事も無かったんだろう?代金の代わりの櫛を受け取って、君を連れてきた。君を何処の、誰とも知らないまま、子猫でも拾うみたいに。


凪は優しいだろう?困ってる、特に女の子は放っておけないんだ。だけど君はもう死んでいる。あまり、こう言う事は専門じゃないから分からないんだけど、死者が生者の側に居る事は良くないらしい。


凪が急にやつれたのは、君の所為じゃないのか?


君は不治の病で、ろくに外に出た事も無いままに、死んでしまった。やりたい事も、伝えたい事もあったろうに、充分に出来ないままに、未練を残して。でも、だからこそ危ないんだ、不安定なんだ。君はいつ、悪霊になってもおかしくない存在なんだ。君が思うだけで、やろうと思えば、憎いと思うだけで人を殺してしまえる。その事だけ、覚えておいて欲しい。


「さて。難しいお話はこれでお仕舞い。凪にはああ言ったけど実は、もう出来てるんだ、薬。・・・話をする前に使えば良かったのにって、思ってるだろうね。ごめんね、おれも、勇気が無かったんだ。君に、面と向かってこんな話をする勇気が。君の櫛に、憑いてるんじゃないかと思ったんだけど。これで居なかったら馬鹿の筆頭だよね」


暗闇の中で影が、わずかに揺れたような気がした。灯りに目を向けるとそろそろ、油を足さなくてはいけない頃合い。視界は狭まり、手を伸ばせば、今なら藤に手が届くだろうか。嵐は調剤道具に埋もれた小瓶を丁重に、硝子に触れる手は冷たく、緊張して居る。


蓋を開けて、霧吹き口を取り付ける。向かい合った座布団に視線を移しても誰もいない、それが常識。嵐は据えていた腰を上げると深呼吸をして


「さて、嵐さんのお手並み拝見」


さあっと、噴出し口から飛び出した霧は、ほの赤い余韻だけを残し、すぐに見えなくなる。


・・・・・


霧は血となり肉となり。


あたりはいっそう暗く、無くなりかけの油では手元すらも危うくなってしまった。足元の座布団は嵐の重みにひずんでいる。囲炉裏を挟んだもう一枚には、


「完全に、と言うわけには行かないんだな。はじめまして、藤」


座布団から一歩、外れた所にしっかりと足をつけて、少し恥ずかしそうに頬笑む少女の袖の先は僅かに透けて見えた。

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