付喪神(五)
昼を過ぎて、又三郎は糊の乾いた傘を手に、椿を連れて傘屋に向かった。
傘屋武田屋は、町の境にある木戸に近い大通り沿いに店を構える、間口五間ほどの中規模の商家であった。
屋号を染め抜いた暖簾をくぐると土間がある。腰掛けるのにちょうど良いくらいの高さの板間があり、帳場の手前に数張りの蛇の目傘が並んでいる。店の中に人影はなく、風もないのに蛇の目傘が揃って又三郎たちの方へ転がった。
「よう、旦那」
蛇の目傘から声がして、ギョラギョラと笑い声が続いた。又三郎は驚きもせず蛇の目に向かって、番頭はいるかと声を掛ける。鉤型に板間を囲んでいる土間の奥から、犬ほどの大きさの蛙が跳ねてきた。
「なんだい旦那、女連れか」
蛙が大きな目をぎょろりと動かして二人を見上げる。
「そんな色っぽい話じゃねえよ。椿は付喪神でな」
大蛙と蛇の目が揃ってまん丸い目を椿に向ける。蛇の目傘は少々風変わりなこの店の売り物で、大蛙の方は店に居着いている妖なのだと、又三郎が椿に説明する。
「蝦蟇じゃな」と断じる椿に、「おいら蝦蟇じゃねえ!」と、蝦蟇にしてはつるりと滑らかな肌の緑青色の蛙は、びょんびょんと跳ねながら抗議する。
蛇の目傘の集団からさざ波のような笑い声がもれる。
板間と奥にある六畳の座敷を仕切る板戸が開き、顔を出したのは唐傘お化けであった。大人の背丈ほどもあろうかという大きな傘の体に人間の手が二本と足が一本、目が一つと口が一つ付いた妖であり、この武田屋の番頭でもある。
「これは又三郎さま」と、唐傘お化けは膝を曲げ傘を傾げてお辞儀をする。長くこの店で働いているこの妖は、客であれ出入りの職人であれ、変わらず接するのが常であった。
又三郎は携えた傘の束を唐傘に手渡し、椿のことを話した。
「ほう。付喪神ですか」
「ああ。お前さんも付喪神みてえなもんだろう。何か心当たりはねえかな?」
「私も先々代の頃からこちらにお世話になっておりますが、付喪神の本体を取り替えるという話は存じませんねえ。私などは骨が折れる度に接いだり替えたりしておりますので、まあそんなことを繰り返していればいずれ全ての骨が入れ替わるということにはなると存じますが」
そう言って唐傘は竹で出来た己の傘の骨を手で摘んでみせた。半月ほど前に骨接ぎしたばかりだというその部分だけ、真新しい色をしている。
「そうかい、お前さんでも知らねえか」
又三郎は腕を組み、ううん、と唸って首を傾げる。大蛙が彼を真似して同じ方に頭を傾げ、蛇の目傘がつられて転がった。
段梯子を降りる音がして、この店の女主人が顔を出した。主人といってもまだ二十歳前の年若い娘である。名を美雲といった。
お美雲は又三郎の姿を認めると、いつも適当に結い上げてある髪を気にして、手で整えた。それから又三郎の傍らに寄り添う少女の姿に眉を顰める。
「旦那どうしたんだい、その子。旦那の娘さんかい?」
「いや、そうじゃあねえよ」
又三郎は苦笑を漏らす。少女が付喪神であることを伝えると、途端にお美雲は機嫌を良くし、好奇心に大きな瞳を輝かせる。
「そうかい、付喪神かい。あたしは美雲ってんだ。よろしくね」
「うむ。そなたも妖なのかえ?」
椿の言葉に、お美雲は首を振る。自分は妖として生まれたわけではないが、妖憑きなのだと笑った。
その笑顔にはどこか淋しげな色が滲んでいた。
お美雲には生まれつき不思議な力があり、書いた文字や絵が動いたり喋ったり、形になって現れるのだという。彼女は帳場から紙と筆を持ってくると、その場でさっと椿の花の絵を描いてみせた。
「ほう、巧いもんだ」
又三郎が褒めると、お美雲はこれも商売なのだとなんでもないような顔をしたが、なぜだか目元の辺りが紅でも差したように赤かった。
衆目が集まる中で、紙に描かれた椿の花はみるみる内に本物の椿の花のように膨らんで、ころりと紙から浮き出た。
「椿じゃ」
喜ぶ少女にお美雲が手渡す。どこからどう見ても、本物の白い椿の花にしか見えなかった。
「妾の花じゃ」
誇らしげに又三郎に花を見せる椿と、そんな少女の頭を撫でてやる彼の様子に、唐傘などは好好爺のように一つしかない目を細める。
「まるで親子のようですなあ」
唐傘の呟きに、お美雲が顔色を変え、椿がふふん、と鼻で笑った。
「なに、子供も子供。孫か曾孫よ」
と、なぜか不遜な態度で胸を張る少女に、傘屋の面々は目を丸くする。成り行きを見守っていた蛇の目傘たちまで、白目の部分がいつもより広がっている。
「先の大戦で戦ったと言っていたからな」
一人にやけた顔をして、又三郎は指折り数えた。
椿の言う戦が慶長二十年の大阪夏の陣だったとすれば、おおよそ二百年余り経っている計算になる。
「それならば、私よりも古い妖でございますな」
と、唐傘が感嘆の声を上げる。
「そうであろう。又三郎などひよっこもよいところよ。おまけにひょろひょろゆえ、妾が守ってやるのじゃ」
「そいつは頼もしいな」
と笑って応じる又三郎だったが、すぐに思案げに眉根を寄せる。
二百年以上も共に過ごした筈の刀を乗り換えたいというのはどういうことなのか。
事情を聞いて、お美雲も首を傾げる。
「どうして椿ちゃんは、今の刀が嫌なんだい?」
「あの刃は多くの血を吸い過ぎたのじゃ」
椿の言葉に又三郎は益々首を捻る。
戦に出たのなら、何人もの首を取っただろうと思えるからだ。彼がそう問うと、椿は首を振って、言った。
「あれは戦になど出ておらぬ」
「けどお前さん、先の戦で主を守ったって……」
不意に、又三郎は口を噤んだ。
何かが引っかかっている。
容易に刀を移ることが出来るのだと椿は言った。
戦に出たという彼女と、戦で使われていない刀。
敵を斬ったことより、守ったことを誇らしく語る付喪神。
「そうか」
急に又三郎が立ち上がったので、娘二人は驚いて彼を見上げた。
「俺はとんだ思い違いをしていた」
言うなり店を飛び出した又三郎に、お美雲がなにか叫んだが彼の耳には届かなかった。