付喪神(一)
樹莉亜の個人サークル「無計画生産事業部」にて2017年11月に発行された同人誌「妖町幻想譚 巻之壱」に収録されたものです。
四月も終わりのある日、裏長屋に住む浪人の又三郎が古手屋の余麗屋を訪ねてきた。古着と古物の売買を担うこの店で、冬物の着物を売って夏物を仕入れるためだ。
暦の上で四月はもう夏であったが、四月一日の綿抜きから、五月四日までは袷と呼ばれる裏地付きの着物で過ごし、五日の節句を機に帷子と呼ばれる裏地の無い単衣ものに衣替えするのが慣わしであった。
店主の福兵衛は狸のような丸い体を機敏に動かし、店の奥から一番安い夏物を二、三枚持ってきて、売値と買値の差額を算盤で弾いて見せる。
又三郎は、ううん、と唸った。
「もうちっとまからねえかい?」
「無茶言っちゃいけませんよ、旦那。これ以上はまけられません」
「そいじゃ夏物は一枚でいいや」
「ちょいと旦那、暑い盛りに着替えも無しで過ごそうってんですかい? 色男が台無しですよ」
「そうは言っても先立つものがねえよ」
又三郎は、月代も剃らずにだらしなく伸ばしたぼさぼさの前髪をかきあげる。人懐こい目が困ったように苦笑いを浮かべていた。福兵衛はわざとらしく大きなため息をつくと、「仕方ないですねぇ」と言って、大きな口でニタリと笑った。
「あたしの頼みをきいてくださるんなら、まけときましょ」
松平家は遠く徳川に所縁のある家柄ではあるが、無役の御家人であった。この家に先年ようやく男子が生まれ、初節句というわけで甲冑と共に古い刀を購入したという。何やら名のある刀だと言われ、かなり無理をして買ったものらしいが、その日から夜ごと女のすすり泣く声が聞こえ、血染めの着物を纏った姿を見たと、家人が騒ぎ出したのである。家の主人もこの騒動に、「せっかくの祝い事にケチがつくのはよくない」と、刀を引き取るよう古手屋に相談してきたと、まあこういうわけであった。
「それでなんだって俺が付き添わなけりゃいけねぇんだぃ?」
連れ立って松平家を訪れた余麗屋福兵衛と又三郎は通された座敷で主が来るのを待っていた。又三郎の疑問に、余麗屋の狸親爺は顔中の汗を手ぬぐいで拭きながら答える。
「そりゃぁ、あれですよ。刀の扱いはお侍さんの領分と言いますかなんと言いますか、ねぇ」
「俺は剣術の腕はからっきしだし、骨董ならお前さんの方が目利きだろう?」
「そりゃそうなんですけどね、いや、旦那に見てもらった方がなにかと心強いじゃありませんか」
福兵衛はおろおろと落ち着かない様子で目を逸らし、出された茶をすすった。
「お前さんもしや、幽霊が怖いのかい?」
「なに言ってんですか、旦那。あたしが幽霊なんぞ怖がるように見えますか?」
なぜだか、むきになって否定する福兵衛を又三郎は、「わかった、わかった」と、宥める。そこへこの家の主人、松平芳忠が現れたので二人は居住まいを正した。
歳の頃は三十前後と、又三郎とそう変わらない筈の芳忠は、浅黒い肌は皺が深く、頬骨の張った顔にはどことなく疲れた色が滲み出て、随分と老けて見える。
お互いに型通りの挨拶を済ませ早速、「いくらで引き取るか」と芳忠が福兵衛に訊ねるも、狸親爺は渋い顔を見せる。
「幽霊の出るお刀なんぞ、買い手もおりませんからねぇ。こちらとしてもあまりご用立てできるもんじゃぁありません」
「それは家の者が申しておるだけだ。これは銘こそないが正宗であると聞いている」
福兵衛は、ほう、と息を吐いて目を眇める。
「正宗ともなれば値の付けようもない名刀ではございますが、しかし偽物も多いと聞きますからねぇ」
「馬鹿を申すな。刀屋は正宗で相違ないと言うておったぞ」
芳忠は、「疑うなら己で確かめろ」と、又三郎達の前に件の刀を置いた。
福兵衛が腰を浮かせて覗き込む。しかし一向に手に取ろうとしない彼を訝しく思い見遣ると、狸親爺は拙いところを見られた時のような誤魔化し笑いを浮かべてみせた。
「旦那、お願いします」
身振りをまじえて刀の扱いを任せると言う福兵衛を不信に思いながらも、又三郎は一礼して刀を手に取った。
「拝見いたします」
艶のある黒漆の鞘には金蒔絵で雪輪模様が散らされ、鍔には椿の花を象嵌してあった。雪に椿とはなかなかに趣深い拵えである。
又三郎は懐紙を口に挟み、鯉口を切った。鞘から引き出された刀身は女の肌を思わせる滑らかさで、障子を通して柔らかに入り込む光を受けて白く輝く。
又三郎の傍らで見ていた福兵衛が、「ほう」と口元を押さえた手ぬぐいの中からくぐもった声を出した。
身幅は尋常、重ね薄い作りで、僅かに傾けると木目のような模様が浮かび上がる。刃文は柄に近い腰もとに波打つような箱乱れと呼ばれる模様があり、中ほどから切っ先にかけては直刃というまっすぐな焼刃が続いていた。
目釘を取って柄を外し、茎を確かめる。魚の腹に似た形のそこには、確かに銘はなかった。
刀装を元に戻し、刃を鞘に納めて、向かい合わせに座る芳忠に返す。又三郎が紙を懐にしまうのを待っていたかのように、福兵衛が口を開いた。
「これは良いお刀ですねぇ」
「そうであろう。幽霊などとケチが付かなければ手放しとうはないのだが」
最初にそれを見たのは芳忠の妻だったという。その後、芳忠の母と下働きの女も、「幽霊を見た」と騒ぎ出し、妻は恐れるあまり子供を連れて実家に帰ってしまった。そうなると妻の両親も黙ってはおらず、「不吉な刀を始末するまで娘と孫は帰さぬ」と、こうである。
「それじゃ、やっぱり幽霊が憑いてんですかぃ」
又三郎の後ろに半身を隠すようにして話を聞いていた福兵衛がうわずった声を出す。
「愚かなことを。大方、なんぞ見間違えたものを殊更に騒ぎ立てておるだけであろう」
芳忠自身は、「幽霊を見たことはない」と言い、福兵衛に刀の買い取りを迫る。しかし、儲け話に目がない狸親爺にしては珍しく首を横に振るばかりであった。又三郎の袂を掴んだまま、芳忠に聞こえぬように小声で話す。
「い、い、いやですよ。幽霊憑きのお刀なんて店に置いとけやしませんよ」
「そんならなんだってここまで来たんだい?」
「ですから、旦那からこう、上手いこと断ってくださいよ」
縋るように体を寄せてくる丸々とした中年男を少々鬱陶しく思いながら、又三郎は眉根を寄せた。
件の刀を見つめ、しばし黙した後、徐に口を開く。
「ひとつ、確かめてみようか」
確かめるとはどういうことかと、前後にいる二人の視線が問いかける。
「真に幽霊がでるのかどうか、見定めてからでも遅くはありますまい」
本当に幽霊が出ないとわかるまで、刀を預かるか、屋敷に泊まるかして、確認すればいいと言うのだ。
福兵衛は激しく首を振って否やを示す。
「冗談じゃありませんよ! わざわざ幽霊が出てくるのを待つってんですかい?」
「まあ、そう言うな余麗屋。幽霊が出なけりゃ、お前さんはこの刀を買い取ることができる。もし幽霊が出たら、これは寺なり神社なりに持って行って祓ってもらうほかなかろう」
「だ、旦那も一緒じゃなきゃ嫌ですよ、あたしゃ」
袖に縋って小動物のようにぷるぷると震えている福兵衛に、又三郎は苦笑をもらす。
「如何ですかな、松平殿?」
芳忠は渋い顔を見せながらも首肯した。
そんなわけでその日の夜、又三郎と福兵衛は芳忠の屋敷に泊まり、幽霊の噂を確かめることになったのだった。