それでも好きよ
行き場を失ったクロードは、地下に設置されてある酒場へ赴く。
カリンに無駄遣いは禁止といいつつも、このときばかりは仕方がないとクロードは自嘲した。
クロードがカウンターへ腰を下ろすと、隣にはひどくへべれけになった男がいて、ガンガン煽っており、真っ赤な顔をしながらお変わりの注文をする。
「おやじ、おかわりを」
「大尉殿、もうおよしになってくださいよ」
酒場のオヤジは大尉、と呼んだ男からグラスを取り上げてしまった。
「返せ」
男はグラスを取り返し、なおも煽ろうとする。
見かねたクロードは、金貨を余分に出し、
「この方にもあげて下さい、何か訳ありなんでしょうから」
オヤジはクロードから金を受け取ると、しかたなさげに肩をすくめながらグラスを用意する。
「あんた、いい人だなあ」
男はクロードの肩を軽くたたくと、あ、と声を上げた。
「昼間のお兄さんか」
「おう、あんただったのか」
なんと、その相手とは昼間カリンと話していたリール。
「こんなところにまで……あ、いや。失礼」
クロードは毒舌しそうになり、思わず口をつぐんでしまったが、リールは酔っていたことも手伝って、
「いいよいいよ。気にしないで言いたいこと言いましょう。ところで……」
リールは横目でクロードのことを見つめると、
「あなたはあのお嬢さんに惚れてるんでしょう」
突然図星を指されて、クロードは飲みかけていたビールを吐き出した。
「かくして居るつもりでしょうけどねえ、残念なことに、僕にはちゃあんとわかりますって」
「そ、そんなこと……」
「彼女、想うに僕のことが好きなのでしょう。態度でわかってしまいます。恋なんて、うまくいかないものですよね」
クロードにはその気持ちが痛いほど理解できたので、うなだれ、グラスを傾ける。
「人妻なんかに手を出すからですよ。ましてや皇帝ナポレオンの妻ときた」
「おまけに、気が強いときた……ははは。情けない」
「だからといって、お嬢様に手を出したら許しませんからね」
リールはそこまで落ちぶれてはいない、などと手を振り振り、答えた。
「当然でしょう。僕は言い寄られたからと、すぐその気になれるほど器用じゃない」
「ならばよろしいですが」
リールは続けて、そんなに好きなら気持ちを伝えてはどうか、と助言した。
「いえ、そのことはお嬢様から先に言われてしまいましたから。それに私はただの下男にすぎません」
「下男ねえ」
リールは肩肘をカウンターへかけ、右足を左足の上に重ねた。
「あなたは身分を気にしすぎる。それでは肝心のお嬢様も自信がもてないでしょう」
「そういうものですかね」
「今起こっている革命にしても」
とリールは、眼光を鋭くさせながら、
「アンシャン・レジームという体制を崩すために行われているようなものですよ、あなた。とにかくこのパンフレットではないが、『第三身分とは何か』だの、下らぬ要素が多すぎる。ところで私はもうじきしたら、ストラスブールへ戻ります。ラ・マルセイエーズの普及を急がねば」
リールの功績は、ラ・マルセイエーズにあった。
ストラスブール市長、ディートリッシュによって依頼されたこの曲は、たちまちフランス国民に影響を与えたと言うが、じつはドイツ側をたたえる歌であったのだという。
クロードは、ほろ酔いになってカリンの寝ている部屋に戻ってくると、床に服を敷いて寝ころんだ。
カリンはベッドの上で身動きひとつせず、静かに寝息を立てているようで、様子を窺おうとこっそり顔を覗かせるクロード。
「どこいってたのよ。酒臭い匂いをぷんぷんさせて」
いきなり鼻をつままれ、驚いた拍子にクロードはカリンの上へと覆い被さる格好で倒れてしまう。
「お、お嬢様、申し訳ありません」
体を起こそうとするクロードの腕をつかむと、カリンは顔を近づけた。
「どうしていつもそうやって、逃げてばかりいるの。もう少しだけでいいから、私を見て、もっとよく見て……。このままじゃ、駆け落ちまでした意味がないわ」
「こ、これ以上私にどうしろと」
いつものように逃げ腰でいると、リールの声が脳裏へと響いてくる。
……あなたは身分を気にしすぎる。
「どうかした」
カリンは首を傾げてクロードを見つめた。
愛くるしい瞳、白く透き通るような肌。
自分にはもったいない、とクロードは想う。
それが引っ込み思案を作る原因なのかもしれなかった。
「お嬢様……」
唇を近づけ、ゆっくりと、ゆっくりと……カリンの吐息を頬に感じることができる位置までたどり着く。
カリンはクロードの首に腕を回して、全身をもたれかけ、彼に身を任せた。
だが、できなかった。
クロードは直前でやはり、抑制してしまう。
「どうしてよ」
カリンはぼろぼろと涙をこぼして、クロードの胸板をたたいた。
クロードは困ったように眉間へしわを寄せつつ、されるがままとなる。
「どうしてなの、いつもいつも」
「すみません」
カリンをどうにか寝かしつけて、クロードは床へ横臥の姿勢をとり、眠りについた。
翌日、カリンは駅で偶然リールを見かけ、声をかけていた。
自然とそうしてしまっていたので、自分はなんとはしたない娘だと想われただろうか、などと不安になった。
だがリールは気にする風でもなく、微笑み、カフェテラスへと導いてくれた。
「私、リールさんのことが好きなんです」
リールは驚くでも無し、こともなげに、そう、といった。
「わかっています。あなたには想う人がいるという事を。でも……リールさんのことはとても好きだから」
「クロード君はどう思っているのだろうか」
カリンは突然クロードのことを言われ、驚いたように顔を上げる。
「どうしてクロードが出てくるのです」
「彼、とてもきみを心配していたよ」
「あの人は……」
カリンは左右へ頭を振ると、
「あの人のことは、もう忘れたいんです……」
「ほんとうにいいのか」
リールはイスを後ろに引き、立ち上がると、テーブルに両手をついた姿勢でカリンに尋ねる。
「ほんとうに、僕でいいんだね」
カリンは大きくうなずき、それを答えにした。
カフェテラスの入り口付近で、ちょっとした騒ぎがあったらしく、カリンとリールはそちらを見ると、悲鳴を上げるものがあった。
「どうしたの、カリンさん」
カリンは青ざめて、リールの背後に身を隠した。
ちょうど数人の男たちが聞き込みをしており、その中の一人、カリンの父親がこちらに視線を送ったからだ。
「お父様です……追われているの。クロードと駆け落ちしたことを怒っているの」
「駆け落ちねえ。なんだか格好いいなあ。なんて……いっている場合ではありませんね」
リールはカリンということを相手に悟らせないように、恋人のふりをしながら裏口へ逃げ出す。
彼の胸板がちょうど、カリンの顔に当たる位置だったので、心臓の音が伝わっており、彼女は動揺しながら抱きつく。
「もう大丈夫でしょう」
リールは緊張をゆるめ、微笑んでいた。
カリンは、その笑顔を見た刹那から、改めてリールのことを好きであると、確信し、自分をこれ以上、偽りたくなかった。
「やはり私は、あなたが好きです」
「え、ちょっと待ってよ、それじゃあ、クロードさんはどうするの」
「彼の気持ちが分からないままでは、私だってどうしたらいいか……」
カリンの様子からだと、心底迷っていたようであったし、リールとしてもこれ以上は責められなかった。
「……それはそうなんだが。ううむ」
「一度だけでいいの、一緒に、夜を過ごして下さい。それであきらめろと言われたら、……忘れます」
リールはカリンの熱意にとうとう負けてしまい、今夜一晩だけなら、と承諾してしまったのであった――。