「子は持たぬようにしよう」その言葉を信じた十五年。夫は外で家族を作っていた
ブレンダは立ち尽くした。
目の前に広がる光景に目を疑った。
十五年連れ添った夫が、幼児を抱え微笑んでいる。
「え?」
さらには、その横に、柔らかな笑みを浮かべ二人を見つめる女性がいた。
「は?」
それは、どこからどう見ても親子の幸せな日常だった。
(なんなの?これは……)
心臓が忙しい。呼吸ができない。
(どういうことなの?)
その場でうずくまると、異変に気づいた紳士が声をかけてくれた。
他にも支えてくれる人が数名現れ、ゆっくりと伯爵家の馬車まで連れ添ってくれた。
血の気が引いていく。寒気がする。
(意味が、わからない……)
お礼もそこそこに、ブレンダはその場を後にした。
◇◇◇
ブレンダは伯爵夫人だ。二十歳の時に幼なじみのアンドリュー・ノーランと結婚した。
彼からの求婚に驚いたものの、彼とならば幸せな家庭を築くことができるだろう、そう思えた。
いつも彼とは穏やかに過ごしていた。趣味も好みも似ている。
もめ事はない。
だからこそ信頼もあった。
同じ伯爵位にある家門同士の結婚、異論を唱えるものはいなかった。
ところが結婚初日、ブレンダは、アンドリューからとある提案を受ける。
「子は持たぬようにしよう」
「え?」
縁戚の子を継がせれば良いからと、跡継ぎについては望まれなかった。
「あの、それってどういう……」
「わかるだろう?私は、子供を愛せる気がしない。愛する術を知らないのは君も知っているだろう?」
アンドリューは伯爵から厳しい教育を受けて育った。
頬にある傷をブレンダが手当をし、慰めてあげたこともあった。
それに対して、伯爵夫人は息子に感心を持たなかった。
彼をかばうことで伯爵の怒りを買うことを恐れたのだ。
愛されずに育ったアンドリューが愛する術を持たないということは理解できた。
ある時、迷子になった子が、間違ってアンドリューの服を掴んだとき、アンドリューがその子に向けた視線は冷ややかだった。
そのことを知っているだけに、一度は頷く。
しかし、ブレンダにだって結婚生活の希望はある。穏やかな家族を作りたい。
こちらにも理想があるのだ。
「しかし、それとこれとは……」
ブレンダの考えも伝えようとする。
ところがアンドリューは聞き入れないとばかりに首を振る。
「だから、子はいらないんだ。君と穏やかに暮らせれば、他には何もいらないから」
――君と穏やかに……
その想いは、ブレンダも同じだった。
ブレンダは言葉を飲み込むと、受け入れた。
そこから、十五年、アンドリューがブレンダに触れることはなかった。
いつしか寝室は分けられ、彼とは、伯爵と伯爵夫人という間柄になった。
◇◇◇
だからこそ、信じられなかった。
(あの人、何をしているの?子供を抱えて……!?)
──子は持たぬようにしよう。
(あの約束を、言い出したのは、あの人よ!)
こちらは、その約束を律義に守っている。
おかげでこちらは三十五年間、清いままだ。
すぐに裏取りをした。ノーランの遣いを使うわけにはいかない。
生家に協力を得て、秘密裏に調査させたところ、アンドリューがもう一つ家庭を持っていることを知る。
(本当の子供なの……?)
「なにが!?どこが、子を愛する術がないっていうの!?」
愛情を注いでいるのは明らかだった。
そうじゃなければ、どこぞの子に冷たい視線を浴びせていた男が、あんなに柔らかく子を見つめそして抱き上げることがあろうか。
子を作らない約束はした。
だって、有無を言わせてくれなかったからだ。
しかし、自分からすればできる可能性すら与えられなかった状況だったのに、社交界では、妻の責務を果たさぬ女として噂されていた。
「まだお子様いらっしゃらないらしいのよ?」
「え?できないのかしら……」
「跡継ぎを産んでこそ伯爵夫人ってものじゃない?」
「それだけ、他のことは完璧なお方ですものね」
「夜会でも茶会でも、あの方ほどそつなくこなす方はいらっしゃらないもの」
「良妻。それはあの方のためにあるようなお言葉。でも賢母にはさせてもらえていないのね」
でも、どんなことを言われようと、聞き流していた。
ノーラン伯爵家の尊厳に関わることには口を出さない。
自分が責められるだけならば、耐えれば良いだけだから。
そんな扱いを受けたこの十五年間を、許せるだろうか。
手が震える。
怒りで身震いするなど、初めての経験だった。
気づけば、手に持っていた報告書を机に叩きつけていた。
静まり返った部屋に、大きな音だけが響く。
「私は、そこまでお人好しじゃないのよ」
一枚の紙を用意する。
離婚届だ。
もう、迷いなど必要はない。
ブレンダは、丁寧に署名した。
帰宅した夫を迎えに出ることはなかった。
そんなことする必要がどこにある。
今まで欠かすことのなかった、主への出迎えがなかったことに疑問を抱いたアンドリューが、ブレンダの私室の扉をノックする。
「ブレンダ?私だ?入るぞ?」
許可をしていないのにアンドリューが入ってくる。
「部屋にいるじゃないか。帰ったよ。どうした?出迎えもないなんて」
窓のそばに立ち、外を眺める。夫の顔を直接見たくなかった。
窓に反射する夫の顔を確認する。いつもの調子のいい笑みを浮かべている。
そんな夫はブレンダに徐々に近づいてくる。
「なにか、あったのか?」
窓越しに夫と目が合った。
「ブレンダ?」
夫も自分の顔を見たのだろう。名前を呼ぶ声には動揺が滲んでいた。
「あなたは、許可もなく部屋に入室するんですね」
夫の入室後初めて発した声は、自分でも驚くほど低かった。
「いや……いつもと違う妻の様子を心配してはいけなかったか?」
ブレンダは大きく息を吐く。
「妻ね……」
その言葉が、静かな部屋に響き渡る。
「あなたにとって、私は妻じゃないでしょ」
「……何を、言っているんだ?君は正真正銘の妻だろう?」
「書類上の話でしょ?」
ブレンダは表情を変えることなく向きを変える。
「あなたにとって、私は同居人のうちの一人であって、愛する妻じゃないでしょ」
ブレンダは夫と目を合わせることなく、机の前に移動する。
引き出しを開け、一枚の紙を取り出した。
「離婚して」
一言告げ、紙を差し出す。
「な、何を急に言い出すんだ?離婚って……」
ふっとブレンダの口から声が漏れる。
「急?そんな覚悟もなしに子供作ったの?」
「こ、こども……」
夫の顔はみるみる青ざめていく。
「あの子、二歳だそうね……。短く見積もっても、約三年……甘く見られたもんだわ」
「こ、これには事情が……」
「事情?それは私に関係あることなの?」
「……」
アンドリューは口元を震わせ、なんとか言葉を紡ぎ出す。
「私の妻は君だけだ。彼女に愛はないし、それに、こ、子供が出来てしまったから……」
「愛がない相手と子供を作ったの?……あなたが妻だという私とは、一度もそういうことをしていないのに?」
「……」
「子供が出来てしまったじゃなくて、他所で子供を作ったの間違いではなくて?」
アンドリューは下を向く。
「あなたが言い出したことなのよ?子供は作らないと。私がどれだけ耐えてきたと思ってるのよ」
「耐える?」
「社交界ではずっと私のせいにされてきたわ。ノーラン伯爵に跡継ぎが産まれないのは私が悪いのだと」
「だが、それは真実じゃない」
「そうよ。でもね、社交界では有名なの。私の体が悪いんですって。誰もあなたの愛が私に向いてないとは思わないのよ」
いつもブレンダに優しく寄り添うアンドリュー。
二人一緒にいることが自然で、社交界ではおしどり夫婦として評判だった。
「私は子を授かる機会さえ与えられなかったというのに」
「……君は、子供を望んでいたのか?」
「は?」
「だったら言ってくれれば……。私は、君も納得しているのだと思っていたから……」
「何を言っているの?あなた、私の言葉なんか聞かなかったじゃない」
思い当たる節があったのか、アンドリューは黙り込んだ。
「私は産めないんじゃない。産まない決断をさせられたのよ。作らせてもらえなかったの」
本当は欲しかった。自分の子供が。一緒に穏やかな家族を作りたかった。
いつからアンドリューは子を欲しいと思っていたのだろうか。
この十五年のいつから……。
「もう一度言うわ。『子は持たぬようにしよう』ってあなたが言い出したのよ?自分は父のようになりたくないと。でも、あなたは結局、お父様と同じことをしているじゃない。妻を、ただの伯爵夫人として置いておくだけ」
「お、同じじゃない!だっていつも寄り添っていた。君を孤独になんかさせてないだろう?」
「ああ、そういうこと?でも一緒にいるだけって、それって妻じゃなくて同居人でもいいわけでしょ?」
「……」
「そういった意味でもそうね。あなたはお父様とは違うということか……」
ブレンダは納得し頷く。
「私が言いたかったのは、少なくとも、お父様はお母様を妻として迎えた責任からは逃げなかったということよ」
ブレンダはアンドリューを見据えた。
「だって、お二人の間には、あなたという子宝を授かったのですから」
アンドリューは息を呑む。
「きちんと妻の責務を果たさせてくれているじゃない」
「!?」
「縁戚の子に跡を継がせるでしたっけ?」
はっとアンドリューが息を呑む音がする。
「ふざけたことを。どうぞ、実子をお迎えください」
「そ、それで、ブレンダはかまわないのかい?」
「はい?」
この男、何を勘違いしているのだろうか。これでもまだ一緒にいられるとでも思っているのだろうか。
ふっと鼻で息をすると、ブレンダは告げた。
「あなたとその子とは、私は家族ではありませんから。私に意見を求める必要もないでしょ?」
早く書いてちょうだいと、紙を差し出す。
その離婚届には、あとアンドリューが署名するのみだった。
(この男、子どもがいることに、なんの謝罪もないのね……)
このあと、ずっと一緒にいてくれだの、離れたくないだの言われたが、心はこれっぽっちも動かなかった。
(私の十五年、なんだったんだろう……)
夫に書類を握らせて、部屋の外に出した。
ちょうど通りかかった執事に事情を話すと、その足でそのまま夫を部屋から遠ざけてくれた。
ブレンダは引き出しから便箋を取り出すと、生家に手紙を書き始めた。
そこには、お礼と、これから帰りますの言葉だけ。
これだけで、十分に伝わる内容だった。
◇◇◇
離縁から一ヶ月後。
もう屋敷にはブレンダの気配は何一つなくなっていた。
彼女の部屋にはもう彼女の物は何も残っていなかった。
代わりに、子供の母親がここに入る。
子供は、自分の息子である以上、ノーランの跡継ぎである。
屋敷を一掃すると彼らを迎え入れた。
「すごい広い……まさか、伯爵様だったなんてね」
後妻となったロージーに今まで身分を明かしていなかった。
「資金を援助してくれていたから、裕福なんだろうとは思っていた」と笑いながらあたりを見回している。
ロージーが伯爵夫人になると、屋敷内が落ち着かなくなった。
原色の花が飾られ、カーテンも濃い色が用意された。
性格も好みもブレンダとは違うということを、視覚的に理解させられる。
「なんだ?これは……」
妙に出費が多い。
執事と確認してみれば、ロージーの衣装や宝飾品に消えているという。
いつも華やかなロージー。そういえば、今までどうやって収入を得ていたのだろうか。
彼女は金に困っている様子はなかった。俺への執着もそれほどなかった。
彼女は何か仕事をしていたか?
彼女に興味すらなかった俺には、今更過去の確認など出来ることではなかった。
毎夜寝床を共にする。
人のぬくもりを、この屋敷で直接感じることなどなかったことだ。
横で眠るロージーを見る。
自然と涙がこぼれた。
(俺が見たい顔じゃない……)
俺は、ロージーが来てからずっと比べている。
比較しているつもりはないのに、どうしてもロージーの後ろにはブレンダが浮かんだ。
ブレンダと一緒に横になったのはいつだろうか……。
彼女の寝顔が思い浮かぶのは、幼い頃のものだ。昼寝をしている天使のようなブレンダだった。
翌日、ロージーに伝える。
「少し、出費を抑えてくれ。買うなとはいわないが、無限に金があるわけじゃない」
「……それもそうね」
彼女は、屋敷の管理など一切しない。興味もない。覚える気もなさそうだった。
彼女も理解している。必要とされてここにいるわけではないことを。
息子の母親という立場に守られていることを。
だからだろうか、その後は当り障りなく自由に過ごしていた。
「パパ~」
笑顔で自分に駆け寄る息子を、しゃがんで視線を合わせると両手を広げて迎え入れる。
「どうした?ママはどこに?」
「しらな~い」
息子を抱き上げ、子供部屋へ向かう。
新しく雇用した乳母に預ける。
「しばらく執務が溜まっていてね。相手は手が空いたらする」
乳母は頷いた。
「パパ~」
「少し待っていてくれ。あとで遊ぼう」
息子は外遊びが好きだった。だから、会う時はいつも外に出ることが多かった。
(そこを目撃されてしまうなんて……)
今は心配する必要がない。
屋敷の庭で、遊んでやればいいだけだった。
◇◇◇
毎日が滞ることなく過ぎていく。
一緒に暮らす家族が変わったというのに、何も変わっていないかのように……。
ブレンダが去って行った。正確には離縁した。
どうしてもそばにいて欲しいと願ったが、彼女の表情が変わることはなかった。
彼女の望み通り、用意された書類に署名すると、あっけなく離縁は成立した。
ブレンダは署名をちらりと確認すると、それを手にすぐに屋敷から出ていった。
感情など全くない。喜怒哀楽の何も感じられない表情のまま。
(ブレンダのあんな顔は、初めて見た……)
いつも優しい笑顔で、そばに寄り添ってくれたブレンダ。
それは幼い頃からずっと変わらずにいたはずなのに。
「お前はこんなこともできんのか!ノーランの跡取りとしての自覚を持て!」
父の指導はいつものことだった。時には手が出ることも。
幼少期から続いた厳しい教育は、父を恐れる感情だけが残った。
そこに愛を感じたことなどない。
(きっと僕のことが好きじゃないんだ……)
自分を見る目はいつもつり上がっている。
母はずっとそれを遠巻きに見ていた。
自分を慰めてくれることもなかった。
そんなことそしたら、母が殴られてしまうから。
『強く賢い子に育てる』
それが父の信条だった。
新しい傷が増える。そしてそれにいつも気づくのは、ブレンダだった。
ブレンダとは家格も同等で、父同士の交流があったことから、唯一会うことを許されていた。彼女と何か話すわけではない。ただ横にいるだけ。
自分が話せることなんて何もなかったから。だって、父に叱られる毎日だったから。
そんな彼女も何も聞かないでくれた。ただ、彼女が楽しいと思っていることを教えてくれるだけだった。
「昨日、つぼみだった花が開いたのよ。さっそく図鑑で調べたの。あと数日は楽しめるわ」
「昨日読んだ小説が面白くて、今日は寝不足なのよ。少し眠ってもいい?」
自分に警戒などない。
信頼してくれているのだろうか。
なにより、いつも笑顔でいる彼女に安らぎを感じていた。
自分に本心からの笑顔を向けてくれる、唯一の人だった。
時が経ち、二人とも適齢期を迎える。
嫡男である自分は妻を迎えなければならなかった。
今は亡き母の顔が浮かぶ。
母は、屋敷でいつも一人だった。
夫も息子も側にいない日々を送っていた。
(なぜ、母は孤独だったのか。父が寄り添わなかったからじゃないか?)
そう考えたら、側にいられる人が良い。
一緒にいたいと思えるのは、ブレンダだった。
父に伝えると、父も了承した。
幼い頃から交流があったのは、父がそれを認めていたからだ。
ブレンダとの婚姻はあれよあれよと結ばれた。
今振り返れば、あのときの一言が始まりだった。
「子は持たぬようにしよう」
ブレンダを妻に望んだのは自分だった。それなのに、妻の役割を望まなかったのだ。
本当にあのときは子供なんていらないと思った。
父のようにはなりたくなかった。
だからこそ、子を持たない家族が良いと思った。
血のつながりなんていらないと。
爵位は跡を継ぐものがいれば問題ない。
だから、提案した。
――君と穏やかに暮らせれば、他には何もいらないと。
隣に彼女がいる。それだけで幸せだった。
父が亡くなり爵位を継ぐと、二人で屋敷を切り盛りし、運営していくことになる。
彼女は真面目だったし、伯爵家の女主人としてよく働いてくれた。
社交場でもすこぶる評判が良かった。
自慢の妻だった。
しかし、一部の心ない噂が上がっていたことは知っている。
「子が産めないのよ」
それは真実ではない。だって、子を授かるはずがないのだから。生まれないのは当然だった。
だからといって、わざわざ訂正するほどのことではない。私は聞かなかったふりをした。
ブレンダを傷つける言葉だったと、今ならわかるのに……。
そして、転機がやってくる。
結婚十年目を記念して、ブレンダと観劇をした。
そこで、衝撃を受けることになる。
欲望のままに生きる主人公が、すべての欲を満たしていく物語だった。
過激な内容もあったが、一つ、心に火を点したものがあった。
欲情したのだ。妻に向けるべき感情なのだろうか。
だが、どうしても躊躇われた。
ブレンダは、自分にとってそういう対象ではない。
(こんな想いを抱くなんて、俺は汚れている)
この欲を、清廉な彼女に向けることが出来ず、他の者の力を借りてしまった。
ブレンダでなければ、相手は誰でも良かった。
その欲を満たしてくれれば誰でも。
そんなことを年に数回繰り返していたある日、相手の女性に告げられた。
子が出来たと。
頭は真っ白になった。だが、そうなることをしていたのだ。
黙認するしかなかった。
ところが、生まれてきた子を見て、ある感情が沸き起こった。
愛せないと思っていたのに、愛し方を知らないと思っていたのに、愛しいと感じている自分に気がつく。
二人には生活に必要な支援だけをしようと考えていたが、それに反するように二重生活が始まった。
(バレてしまった……)
最悪な事態だった。ブレンダの笑顔を消してしまったのは自分だ。
(わかっている……自分のせいだってことは……)
ずっと側にいてくれた妻を、妻という存在だと思っていたのは自分だった。
彼女の指摘で、認識の違いを知らされた。
彼女にどんなことを強いていたのか。今になって冷静に振り返れば、ひどいことだった。
伯爵家を切り盛りさせ、社交場で横に立たせ、子は作らない。
伯爵夫人としても妻としても、彼女は一つだけ出来なかったことがある。
跡継ぎを、子を産むということだ。
彼女は、俺が希望したせいで、不完全なままだった。
(外に俺の子がいることが発覚したんだ。許せるわけもない)
子供は可愛かった。守ってやりたいとも思った。
あの頃、一緒に暮らしていなかったのに、息子を愛せていたのだ。
(ブレンダとの子供だったら、どんなに可愛かっただろうか)
そんなことを思い浮かべたことを、もう叶わぬだろうことがわかっている俺は、首を振り打ち消した。
◇◇◇
生家に戻る。兄が迎えてくれた。
「ブレンダ。お疲れ様。おかえり」
兄の顔を見たら、自然と涙があふれだした。
「お兄様……!」
抱きついたりなどしない。もうそんな歳でもない。
兄も、そっと背中を支えてくれるだけだった。それで十分だった。
そのあとは義姉が側にいてくれた。
家族だからと、とても親身に……。
私と血のつながりのない義姉でさえこうやって寄り添ってくれるというのに。
「ブレンダ。君の部屋は前と同じだ。娘が先月嫁いだから、また、君の部屋として使ってくれ」
「あの子、もうそんな歳だったんですね……」
姪は二十歳になっていた。奇しくも、私が嫁いだのと同じ年齢だった。
「私はお邪魔でしょう?出戻りなんて……」
「いや、問題ないよ。そこは妻とも話し合ったから」
了承を得ていることは感じ取れた。そうでなければ、あのように寄り添ってなどもらえないだろう。
「ゆっくりしているといい。君には時間が必要だ」
十五年という重さは、傷の深さに比例すると兄は言った。
一カ月ほど経っただろうか。兄に呼び出された。
「いかがなさいましたか?」
「うむ。きちんと君に聞いてから対応しようかと思ってね。これなんだが……」
(?)
兄が提示したのは、一通の手紙だった。
「ホスキンズ伯爵?」
差出人を見るが、手紙をもらうような覚えはなかった。
「ああ。君に婚約の話が来ているよ」
「婚約!?」
手に持っていた手紙をひらりと落とす。
「縁談があるとかではなく、婚約ですか!?」
「ああ。まだ離婚して一カ月だろう?さすがにどうにも返事のしようがなくてな。そして、この手紙は三通目なんだ。君がここに戻ってきて間もなくから手紙を受け取ってるよ」
「え?」
「それも相手は正直、申し分ないだろう?ダスティン・ホスキンズ伯爵だぞ?どうする?ブレンダ。話だけでも聞いてみないか?」
「ええ、はい……」
ダスティン・ホスキンズ伯爵は、口下手なお方だと聞いている。
そのためか、社交にはあまり顔を出さない。
だからこそ、名前だけは知っていた。
兄の追加情報では、現在三十二歳、爵位を継いだばかり。婚姻歴はない。
(兄の言う通り、申し分ないお相手すぎるけど……なぜ私?)
「突然、申し訳ございません。ですが、ブレンダ様がこちらに戻られているとお聞きしたものですから……」
私は驚いた。
彼は、衝撃のあの日、声をかけて馬車まで支えてくれた紳士だった。
「あの日は、失礼しました。お礼もせずに……」
「いえ、体調はいかがですか?」
「あ、それはもう問題はありません」
「そうでしたか。よかった」
接点があったこともあり、きちんと話を聞いてみることにした。
「なぜ、私なのですか?」
彼は口を引き結び唾を飲みこむと、意を決したように告げた。
「ずっと……お慕いしておりました……」
「へ!?」
口からは変な声が出てしまった。
「お見かけできる機会はそう多くはありませんでしたが……あなたの周りはいつも笑顔でしたから……。その、いつも、横にいられたら、幸せなんじゃないかと……」
耳まで赤くしながら、彼は丁寧に答えた。
「あ、あのですね。私は婚姻歴があります。あなたはずっと独身でおられたんですよね?」
「はい」
「私でいいんですか?」
「はい。あなたが良いです」
ダスティンは迷うことなく告げる。
「……私はもう三十五歳です。爵位を継がれたのでしたら、こんなおばさんじゃなくても……」
「あなたと私は三歳しか違いません」
「年齢差を問題にしているのではないんです。結婚ですから、跡継ぎが必要でしょう?」
「はい。ですが、妻にしたいのはあなただけです」
「……でも、産んであげられないかもしれませんよ?」
「私はあなたに側にいて欲しいので、そこは問題にしていません」
(この人も、そんなこと言うの?)
この世界において、子が生まれないという現実は、夫人にとっては生きにくいというのに。
「そういうわけには……。あなたもご存じでしょう?私が社交場でなんて言われていたか……」
(また、産めない人って言われるのは嫌だわ……)
「あなたはまだ未来が選べますわ。お気持ちはありがたく頂戴しますが、お話はなかったことにしてくださいますか?」
「そ、そんな。ブレンダ様!」
慌てて立ち上がるダスティンから目をそらし、私は深く頭を下げた。
きっとありがたい話なんだろう。
彼は見目もいい。艶のある黒髪に宝石のような緑の瞳が美しい。
背も高く、家格も良ければ、爵位をお持ちだ。
ならば、なおさら。
子を持たぬ生活を送らせてはいけない。
側にいたいだけなら、友人でも良いのだから。
◇◇◇
あれから三年が経った。
息子はすくすくと成長した。
五歳を迎えると、そろそろ教育を始めるかと、家庭教師をつけることにした。
「遊んじゃダメ?」
「遊びは勉強が終わってからだ」
「えー?パパのいじわる」
「意地悪で言っているのではない。それから言葉遣いを正しなさい。父上かお父様と呼ぶように」
(言葉遣いくらい、母親が面倒見ておけよ……)
ロージーは母親になることに向いていない。
あまり息子にかまっている様子は見られなかった。
気がつけば、俺は、厳しく口を出すようになっていった。
「なぜ、こんなことも出来ないんだ。お前がしっかりしないでどうする!」
俺がいなくなったら、この子がこの屋敷を切り盛りしなければならないのだから。
伯爵家の令息として生きるために恥じない人物にならなければ。
そして、ふと、自分の言動が、父のそれと重なった。
(ああ。そういうことだったのか。ノーランを守るためには、仕方のないことだったんだ……)
あの厳しさは父の責任と愛情だった。父がいなくなったあと、ノーランを継ぐ俺が困らないように。
見えることが全てじゃなかった。
父はちゃんと見ていた。そして、きちんとブレンダという婚約者候補を宛がっていたのだ。
◇◇◇
俺は方針を変えた。
息子の性格上、のびのびと教育を受けさせることにした。
強制するのは違うと思ったからだ。
それが彼にあったのか、自主的に学ぶようになってくれたのはうれしいことだった。
「お父様、ここを教えてくださいますか?」
息子は7歳になった。
「ああ、そこは実際に目で見た方が良い。今度の視察は一緒にいくか?」
「はい!」
正直なところ、立派に成長していると思う。
ただ、俺はここ数年、疑念を抱いている。
息子が、”俺に似なくなってきた”ということに。
金髪碧眼の俺と、亜麻色の髪に茶色い瞳のロージー。
息子は金髪に茶色い瞳で生まれてきた。
しかし、成長と共に、金髪は明るい亜麻色に変わっていった。
そして、今では、息子の髪色は茶色だ。
屋敷の者たちも不信感を抱き始めていた。
「旦那様に似ているところがなくなってしまった」
そんな会話が聞こえたこともある。
それだけではない。
「奥様にもあんまり似ていないわよね」
(……え?)
俺がロージーと顔を合わせるのは寝室だけとなっていたから、彼女の顔なんか覚えていなかった。
その日の夜、ロージーに聞く。
「あの子は誰に似たんだ?最近髪色が濃くなっている気がするのだが」
「さあ?子供なんて成長すれば変わるんじゃない?」
赤子の時は色素が薄く、後に色づいてくることはよく聞く。
だが、両親の髪色を超えて濃くなることはあるのだろうか。
(どう見ても、俺の血が入っているとはもう思えない)
「それよりも、もう一人がなかなか来てくれないわね。もう一度母親になりたいのに」
(母親になりたい?今も息子がいるじゃないか……)
息子に興味を持たないから、最近自分にも似ていないことに気づかないのだろう。
今目の前にいる彼女の顔の中に息子に似る部分が見当たらないというのに。
そして、おなかをなでる彼女を見て理解する。きっと、妊婦になりたいのだ。
自分の中に命を宿す経験は、特別なことなのだろう。
俺たちの間に愛が存在しないからだろうか?俺たちの間にもう一人の天使は現れなかった。
「旦那様、正式に爵位継承する前までに、お調べになった方がよろしいのでは?」
何をとは言わない。執事が真剣に書類を差し出す。
それは、親子鑑定について書かれていた。
「君も、そう思うのか?」
「最近、奥様が他の殿方と頻繁にお会いになっているという情報が多く寄せられております」
「え?」
「坊ちゃまについて、一度お調べになった方がよろしいかと思いますよ」
周りが疑うくらいに、俺と息子は他人に見えた。
数日後、ロージーを執務室に呼び出した。
「どうしたの?私これから友人と待ち合わせておりますのに」
俺は書類を差し出した。
「なぁに?これ」
「私と息子に親子関係はなかった。いったいどういうことだ?」
書類をまじまじと見つめる彼女。結果を読んだところで一息ついた。
「あなたじゃ、なかったの……」
「え?何を言って……」
「あなただと思っていたんだけど、違ったのね」
「どういうことだ?じゃあ誰だって言うんだ?」
「さぁ。誰が父親かなんて私も知らないわ」
「は?」
「もちろん、母親は私よ?ちゃんとこのおなかで育てたんだから」
そこからの記憶は曖昧だ。
彼女は用事があるからと部屋を出て行った。
あの時、彼女の中では父親候補になり得る人が他にもいた。ただそれだけだった。
俺の息子だと愛した子供は、血のつながりのない子供だった。
(血が繋がっていたから愛したのか?)
俺の愛の行き場がなくなった気がした。
◇◇◇
ある晴れた穏やかな日、息子を連れて国営庭園に来ていた。
以前視察に同行させる約束であったものを果たしたもので、国営庭園はその序でだ。
珍しい花も見られるとあって、勉強にもなると足を運んだものだった。
ふと、一輪の花が目にとまる。
(ああ、これは、彼女が図鑑を調べたといった花だったか……)
ブレンダと離縁して五年だ。
俺はこの五年、ずっと彼女を想い続けていた。
失って初めて知ったのだ。
彼女のことは好きだった。好きだったがその好きは、好みの好きだと思っていた。
でも違ったのだ。
側に置いておきたいほどのお気に入りだった。隣にあるだけで良かった。
今でも彼女の笑顔が好きだ。愛しいと思えるのは、彼女だけだった。
この好きは、愛だった。
ふと隣にいる息子を見る。
(なんど見ても俺には似ていない……当たり前か……)
もし、ブレンダとの間に子がいたら……当然のように愛しただろう。
それは、血が繋がっているからか?いや、妻である彼女とそこに生まれてきた家族だからだ。
なぜ、彼女と家族を作ろうとしなかったのだろうか。
彼女の笑顔が浮かぶ。愛しい彼女の笑顔が。
(ああ、きっと年を重ねた彼女の笑顔はこんな感じだろう)
どこまでが、想像だったのか。
目の前の光景にはっとした。
あの花の前に、ブレンダがいた。
「ブレンダ……!」
手を挙げ声をかける。
しかし、彼女はこちらには気づかない。
彼女が振り向いた先には、幼児と手をつなぐ紳士がいた。
(……え?)
彼女は穏やかな笑顔で二人に近づくと、幼児は紳士の手を離し、勢いよく彼女に抱きついた。
受け止めた彼女は少しよろけた。
慌てた紳士は追いつき屈むと、その幼児をなだめ抱き上げた。
そして片腕に抱き直すと、空いた手を彼女の手に重ね、繋いだ。
三人はそのまま楽しそうに話しながら、花を見て回っている。
どこからどうみても、理想的な家族だった。
愛に溢れ、幸せであることが感じられた。
そして、俺は、あることに気づく。
幼児は、黒髪に翠眼で、その紳士にそっくりであること。
そして、顔かたちはブレンダにそっくりだった。
(あっ……)
そして、ブレンダの手がおなかをなでる。
彼女のおなかは丸く大きかった。
そこには、自分が失った全てがあった。
◇◇◇
一年後。
今日も婦人たちは社交界の噂話をお茶請けにして茶を楽しんでいた。
「ノーラン伯爵家の坊ちゃま、養子になられたそうよ?」
「血縁はなかったのでしょう?」
「それでも伯爵様は後継者として認めたそうよ」
「それで?伯爵夫人は家を出て行かれたんでしたっけ?」
「そうよ。一年前に離縁されて、今は靴職人の男のところにいるそうよ」
「え?元夫人が?」
「先日子爵夫人が靴を作りに工房に行ったら、おなかの大きな元夫人がいたそうなのよ」
「え!?だって、一年前までノーラン伯爵家にいたじゃない……」
「でも、ねぇ……お二人のお子様は結局、坊ちゃま一人でしたし……」
「でも、その坊ちゃまは……ねぇ」
「え、もしかして、そういうこと?」
「あ、だから養子にお迎えになったのかしら?」
「きっとそういうことよ。だってほら、ホスキンズ伯爵家にお二人目がお生まれになったじゃない?」
「ああ、ブレンダ様も再婚されてから幸せそうね」
「ホスキンズ伯爵も見る目がおありだわ。ブレンダ様が離縁したと知るなり求婚したって話でしょ?」
「もう、それは有名な話よ。社交でお会いするたびに見初めていたって」
「あの頃のブレンダ様は囲われてかわいそうな方でしたわね。今のブレンダ様は一層に輝いてますもの」
「ホスキンズ伯爵様の元で、完璧な伯爵夫人になられましたものね」
「最近お会いできてないけど、そろそろ伯爵夫人が社交に戻るというお話しでしたわ」
「それは素晴らしいわね。彼女は手本になるようなお方ですから」
「あ、そうそう。後継と言えば……公爵家の跡継ぎ騒動についてお聞きになりました?」
「あー、それはもう。新聞でも拝見しましたわよ~」
婦人たちの話の種は尽きないのであった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
※もし楽しんでいただけましたら、評価いただけると励みになります。




