プロローグ:最後の竣工図
東京都心の深夜二時。
そびえ立つ高層ビルの最上階、その一角にある仮設事務所の明かりだけが、消えることなく不気味に灯っていた。
「……よし、これで……全部だ」
一ノ瀬 聖は、キーボードを叩く指を止めた。
充血しきった瞳が、液晶画面に映し出された複雑怪奇な3Dモデル――BIM(ビルディング・インフォメーション・モデリング)の完成形を捉える。
柱の一本、配管の一系統、ボルトの一本に至るまで。数千の工種が入り乱れた巨大商業ビルの「竣工図」が、今、完璧な形で出来上がった。
聖は、業界でも「伝説の大所長」と呼ばれていた。
不可能な工期を可能にし、気難しいベテラン職人たちを缶コーヒー一本で手なずけ、理不尽な施主の変更要求をデータという暴力でねじ伏せる。
だが、その代償は大きかった。
直近三ヶ月の残業時間は月二百時間を超えた。
「現場が止まるより、俺の心臓が止まる方が先か……」
冗談めかして笑っていたが、体は正直だった。指先が震え、心臓が異質なビートを刻んでいる。
『保存して終了しますか?』
画面のダイアログに「YES」をクリックする。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
キーボードの上に突っ伏す。最後に鼻をかすめたのは、現場監督の魂とも言える、コンクリートと鉄錆の匂い……ではなかった。
冷たい、泥の匂いだ。
「――ねえ、起きてください。こんなところで寝ていたら、魔物に食べられてしまいますよ」
鈴の鳴るような、だが悲痛な響きを含んだ声。
聖がゆっくりと目を開けると、そこには夜空を覆う満天の星……ではなく、見たこともない二つの月が浮かんでいた。
「……あ?」
体が重い。起き上がろうと手をつくと、そこは粘土質のひどい泥濘だった。
目の前にいたのは、ボロボロのドレスを纏った少女だった。
透き通るような銀髪と、大きな瞳。その瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
「……現場監督……? いいえ、旅の方でしょうか。ごめんなさい。せっかくお越しいただいたのに、おもてなしもできなくて。この屋敷も、もうすぐ……」
彼女が指差した先を見て、聖の「現場監督としての本能」が叫びを上げた。
「なんだ……ありゃあ……ッ!」
そこには、石造りの立派な屋敷があった。いや、あったはずだ。
だが、建物の右半分が異常な角度で地中に沈み込み、外壁には巨大なクラック(亀裂)が走っている。
柱は垂直を失い、屋根のラインは不気味に波打っていた。
「……『呪い』なんです」
少女――辺境領主のリアナは、力なく首を振った。
「この土地は、古くから『沈む領地』と呼ばれてきました。何を建てても、どんなに祈っても、大地が建物を飲み込んでしまう。父も、その心労で亡くなりました。もう、私の代でこの街は終わりです。みんな、逃げ出してしまいました……」
聖は無言で立ち上がった。
泥を払い、無意識に腰を探る。コンベックス(メジャー)はない。レーザーレベルもない。ヘルメットすらない。
だが、脳裏に妙な感覚が走った。
「……おい、お嬢さん」
「はい……?」
「これは呪いじゃない。ただの自重による沈下、それと地盤の液状化だ。おまけに……おいおい、この石積みの基礎、フーチング(底盤)が全く足りてねえぞ。これじゃあ荷重が一点に集中する。不陸どころの話じゃねえ、ただの設計ミスだ」
「ふりく……? せっけい……?」
リアナが呆然とする中、聖の視界に不思議な「線」が現れた。
建物の傾きをミリ単位で示す赤いレーザー。地面の下に広がる水の流れ。土質の組成データ。
転生に伴い、彼が現代で使いこなしていたBIMとCADのシステムが、彼の視覚と直結していたのだ。
【スキル:不陸の裁き】発動。
【スキル:脳内BIM】展開――。
「……地下三メートルに支持層があるな。そこに杭を打ち込み、地盤改良を施せば沈下は止まる。それから、その屋敷の右半分を一度『ジャッキアップ』して、構造を補強すればまだ住める」
聖の言葉に、リアナは何一つ理解できない様子だった。
だが、彼の瞳に宿る、圧倒的な「プロフェッショナルの熱量」に、彼女の心は強く打たれた。
「あの……あなた様は、何者なのですか?」
聖は、落ちていた適当な棒を拾い上げると、足元の泥の上に、完璧な直線の「配置図」を描き出した。
そして、前世で何度も繰り返してきた、あの不敵な笑みを浮かべる。
「通りすがりの現場監督だ。……おい、お嬢さん。工期はいつまでだ? 予算はいくらある? 安心しろ。俺の現場で、竣工できなかった建物は一つもねえ」
その瞬間、聖の脳内にメッセージが響く。
『受注条件:辺境領地の再建』
『工期:未定』
『安全目標:無事故無災害』
一ノ瀬 聖。三十五歳。
異世界という名の「新規現場」での初出勤が、今、始まった。
「まずは……掃除(4S)からだ。掃除ができねえ奴に、いい家は建てられねえからな」
泥まみれの男が、希望を失った少女の手を強く握った。
それが、後に「建築神」と呼ばれる男の、最初の一歩だった。
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