霜月、静かで悪くない日
朝なのか夜なのか、よくわからない時間に目が覚めた。カーテンの向こうは明るい気もするし、まだ暗い気もする。体は重く、胸の奥に薄く膜を張ったような息苦しさが残っている。咳をひとつすると、胃のあたりがきしんだ。
このまま起き上がれなくなったらどうしよう、という考えが、思ったよりも自然に浮かんでくる。恐怖というほど強い感情ではない。ただ、天気予報を見るような冷静さで、そういう可能性を頭の端に置いている自分がいる。
布団の中で、今日やるはずだったことを順に思い出す。洗濯、小説、ラジオ。どれも大切なはずなのに、今の体には遠い。体を少し動かすだけで、世界との接続が不安定になる気がした。
それでも、完全に何もできないわけではない。まだ考えることはできる。考えられるうちは、たぶん大丈夫だ。私はそうやって、自分の体と静かに交渉を始める。
枕元に置いた薬の袋に、手を伸ばすかどうか少し迷う。朝に飲むと具合が悪くなることは、もう何度も経験している。それでも飲まなければ、あとで足がびりびりしてくるかもしれない。どちらも嫌だ。どちらかを選ばなければならないという事実だけが、静かに残る。
以前は、言われたとおりに飲むことが「正解」だと思っていた。飲んで具合が悪くなっても、それは体が慣れていないだけだ、と自分に言い聞かせていた。でも、慣れる前に動けなくなってしまっては意味がない。元気になるための薬で、一日が潰れてしまうのは、本末転倒だ。
だから、朝はやめた。夜だけにした。大げさな決断ではない。ただ、悪くしないための選択だった。少しでも動ける時間を残すための、消極的な工夫だ。
この選択が正しいかどうかはわからない。数値で測れるものでもない。ただ、気持ち悪さが消え、息が少し楽になり、考えごとができるようになった。それだけで、今日は「生きている側」にいられる気がした。
無理をしない、という言葉は簡単だ。でも実際には、どこまでが無理で、どこからが甘えなのかは、誰も教えてくれない。私は自分の体を観察しながら、その境界線を毎日引き直している。今日はここまで。今日はこれ以上はやらない。その線を越えないことが、今の私の仕事だった
動けない時間は、突然やってくる。横になったまま天井を見ていると、体だけが先に一日を終えてしまったような気分になる。やるべきことは頭の中に並んでいるのに、手足がそれに追いつかない。
そんなとき、ラジオをつける。顔も名前も知らない誰かの声が、部屋に流れ込んでくる。内容はどうでもいい。天気の話や、誰かの失敗談、音楽の合間のとりとめのない言葉。それらは私に何かを求めてこない。ただ、そこに居続けてくれる。それがありがたかった。
目を閉じて聞いていると、自分が「聞く側」でいられることに気づく。返事をしなくていい。笑わなくてもいい。元気なふりもしなくていい。体調のことを説明しなくていい。ラジオは、何も要求しない関係だった。
少し調子のいい日は、ゲームを起動する。派手な操作はできないから、設定をいじって、死なない程度にする。勝たなくてもいいし、うまくなくてもいい。ただ進めばいい。画面の中の世界は、失敗してもやり直せるし、今日はここまで、という区切りも自分で決められる。
動けない時間は、無駄な時間だと思っていた。でも、ラジオを聞いて、ゲームを少し進めているうちに、その考えも変わってきた。何もしていないようで、ちゃんと息をしている。ちゃんと、今日をつないでいる。
体を休ませながら、頭だけが少し先に進む。物語の断片や、言葉の並びが、ふと浮かぶことがある。起き上がって書くことはできなくても、それでいい。今は溜める時間だと、自分に言い聞かせる。
動けない時間は、敵ではない。味方でもない。ただ、今の私に必要な、通過点なのだと思う。
ラジオの音を小さくしたまま横になっていると、廊下から足音が聞こえる。一定じゃない、少し乱れた足音だ。息子だとわかる。呼ばれなくても、声をかけられなくても、それだけで時間がこちら側に戻ってくる。
息子は、私の体調を気にしているようで、実際にはあまり気にしていない。顔色をのぞき込んで「だいじょうぶ?」と聞いたかと思えば、次の瞬間には学校の話や、ゲームの進み具合の話を始める。その軽さに、何度も助けられてきた。
何かをしてあげられなくてもいい。元気な背中を見ているだけで、今日はここまで生きていてよかったと思える瞬間がある。責任とか義務とか、そういう言葉よりも先に、体の奥で納得してしまう感覚だ。
動けない日でも、息子は時間を運んでくる。朝になり、昼になり、夕方になる。食べる時間、休む時間、眠る時間。自分一人だったら曖昧にしてしまう区切りが、彼の生活によって、はっきりと現れる。
生きる理由、なんて大げさなものじゃない。ただ、明日もこの足音を聞きたいと思う。それだけで、体を悪くしない選択をしようと思える。無理をしないでいようと思える。
息子は、私を奮い立たせるわけじゃない。背中を押すわけでもない。ただ、横で生きている。それが、いつの間にか、私の活力になっていた。
その日は、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。外はまだ暗く、窓の向こうで雨が降っているのかもわからない。体を起こしてみると、思ったよりも動けた。それだけで、今日は大丈夫な日だと判断する。
台所に立ち、湯を沸かす。時計を見ると、まだ四時台だった。早すぎる時間なのに、頭は妙に冴えている。息子の修学旅行の日だと思うと、眠気より先に段取りが浮かんでくる。忘れ物がないか、何度も確認したはずの荷物を、もう一度だけ見直した。
息子の部屋のドアをノックすると、少し間があってから返事があった。声は寝起きの低さと、どこか落ち着かない感じが混じっている。起きてくれただけで、まずは一安心だった。
車のエンジンをかけると、静かな住宅街に低い音が広がった。まだ人の気配はほとんどない。助手席に座る息子は、シートベルトを締めながら何度も時計を見ている。私は前を向いたまま、余計なことは話さなかった。この時間は、息子の気持ちの中にあるものを邪魔したくなかった。
信号の少ない道を走り、駅に近づくにつれて、同じような車が増えてくる。修学旅行の朝は、どこの家も似たような空気をまとっているらしい。駐車スペースに車を止めると、息子は荷物を抱えて一度だけ振り返った。
「いってきます」
短い言葉だったが、それで十分だった。私はうなずいて手を振る。改札へ向かう背中を見送りながら、ようやく肩の力が抜けた。
車に戻り、エンジンをかけ直す。ラジオをつけると、いつもの声が流れてきた。体調のことも、薬のことも、この朝だけは脇に置く。無事に送り出せた。その事実だけで、今日という一日は、もう役目を果たしていた。
家に戻ると、まだ午前中の空気が残っていた。洗濯機を回し、簡単に掃除をする。体は動いているが、気持ちはどこか駅に置き忘れてきたままだった。無意識にスマートフォンを手に取り、通知が来ていないかを何度も確認する。まだ何もない。それでいい。移動中なのだ。
昼前、振動が手のひらに伝わった。メッセージと一緒に写真が届いている。バスの中から撮ったらしい窓越しの空と、同じ制服を着た友だちの肩が少し写り込んでいる。文章は短く、「今、羽田着いた」とだけあった。それだけで、胸の奥がふっと緩んだ。ちゃんと進んでいる。それがわかれば十分だった。
昼過ぎにも、もう一枚写真が届いた。空港での集合写真の一部を切り取ったような、雑然とした一枚だったが、息子は笑っていた。画面の中のその表情は、家にいるときより少しだけ大人びて見えた。知らないうちに、こうして外へ向かっていくのだと思う。
夕方になるころ、体の重さを感じはじめた。無理をしないと決めている。洗濯物を取り込み、簡単な食事を済ませる。ラジオをつけると、いつもの時間帯の番組が始まっていた。何度も聞いた声なのに、今日は少し違って聞こえる。誰かの日常が流れていくのを、静かに受け取る余裕があった。
机に向かい、ノートを開く。書こうとしていた日記の続きを、ほんの数行だけ書く。多くは書けないが、それでいい。止まっていないという感覚があれば十分だ。息子が今どこにいるのかを思いながら、言葉を置いていく。
夜、また一通メッセージが届いた。「ホテル着いた」。写真はない。疲れているのだろう。それでも、無事に一日が終わったことがわかる。私は「おつかれさま」とだけ返した。
布団に入ると、朝よりも体は重かったが、心は静かだった。今日一日、私は前に出過ぎず、後ろにも引かなかった。ただ必要なことをして、見送って、待っていた。それでよかったのだと思う。
眠りに落ちる直前、明日はどんな一日になるだろうと考えた。きっと、今日と同じように、静かで、悪くない日になる。




