第99話 閉じる石扉と、燃えない印
扉の隙間は、指一本分だった。
ロウの縄と、ミリアの《ライト・ピン》で残した“戻り道”。
細いのに、今はそれが命綱に見える。
子どもたちは、俺たちの間にいる。
木片を握りしめた小さな手が震えているのが分かる。
「急ぐ。走らない。転ばせない」
シルヴァの声は低い。命令じゃなく、作業の確認みたいだ。
アメリアが前へ出て、子どもたちにだけ聞こえるくらいの声で言った。
「大丈夫。ここ、もう終わった。上、空気あるよ」
その言い方が、不思議と効いた。
子どもは頷けないままでも、足が前に出る。
――その瞬間。
蒼光灯の青が、じわ、と濃くなった。
見てる。
いや、見てるだけじゃない。
“閉める”気配が床から上がってくる。
(まずい)
扉の石が、低い音を立てて動いた。
さっきまで“隙間を残していた”縁が、ゆっくり押し寄せてくる。
ロウの縄がきし、と鳴った。
「……潰しに来た」
ロウが呻く。
ミリアが息を吸いかけて止めた。
派手な術は打てない。揺れれば蒼光灯がもっと反応する。
その判断の早さだけは、上のランクに負けてない。
アメリアが、いつの間にか違う武器を手にしていた。
短い棒でも小剣でもない。
細い鎖――先に小さな鉤がついた、捕縛用の道具。
街の喧嘩屋の道具みたいなのに、扱いが静かすぎる。
「縄、切らせない」
アメリアはそう言って、鎖の鉤を扉の縁に引っかけた。
引っ張るんじゃない。引っかけて、角度を変える。
石の扉が“まっすぐ閉まる”動きが、一拍だけ鈍る。
でも、それでも閉まる。
床の溝が、ぬらりと光った。
墨の匂いが立ち上がる。
(来る……)
黒い糸が、溝の中からにゅるりと伸びた。
狙いは俺じゃない。アメリアでもない。
子どもの足首――転ばせる位置。
転べば揺れが出る。揺れが出れば蒼光灯が強くなる。
強くなれば扉が閉まる。
……綺麗すぎる段取りだ。
「ミリア!」
「分かってる!」
ミリアが杖を床へ向ける。
「ライト・ピン!」
光の釘が、溝の上に刺さる。
糸が進む“道”を縫う。進路を固める。
糸が止まる。止まった糸が薄くなる。
薄くなって、釘の隙間から――すり抜けようとする。
(抜ける)
俺は短剣を抜かない。
抜けば、子どもが“刃”を見て固まる。
代わりに、木粉をひとつかみ。
糸の上へ叩きつける。
白が黒を噛む。
糸がびく、と怯む。
その一瞬で、俺は短剣の柄で“叩いてずらした”。
切らない。
ただ、糸の先を溝へ戻す。
子どもの足首から外れた。
「……っ」
子どもが息を漏らした。
蒼光灯が一拍だけ強くなる。
――やばい。
扉が、さらに閉まる。縄がきしむ。釘が悲鳴を上げる。
そのとき、石の溝の端に小さな影が現れた。
四本足。短い尻尾。
黒い犬の影。
影は墨の溝へ鼻先を寄せ、ぺろり、と一舐めした。
黒が薄くなる。
蒼光灯の青が、ほんの少し落ち着く。
扉の動きも、一拍だけ鈍った。
アメリアが目だけで舌打ちした。
「……助けてる? 回収してる? どっちでもいい、今は」
答えはない。影はすっと消えた。
シルヴァが低く言った。
「今だ。全員、抜ける」
子どもたちを先に。
ロウが“手すりの縄”を引き、カイが後ろから支える。ミリアが灯りを最小にして足元だけ照らす。
俺は最後に残って、扉の隙間を見た。
縄が石に削られ、今にも切れそうだ。
アメリアが鎖を引いて、扉の縁を“ずらす”。
石が一瞬だけ噛み合わず、隙間が広がる。
「早く」
その一言で、俺は抜けた。
次の瞬間、石がごり、と音を立てて閉まった。
縄が切れる音が遅れて聞こえた。
――戻り道は、潰された。
でも、扉の存在は残っている。
そして俺たちは、外側にいる。
◇
水門の階段を駆け上がると、夜の空気が肺に刺さった。
鐘の音がまだ遠くで鳴っている。
写字房の火の匂いは薄くなったが、煙は街の上に残っている。
子どもたちは、地上の空気を吸っただけで膝が落ちそうになった。
カイがしゃがんで背中を支える。
「呼吸、ゆっくり。焦らないでいい」
軽口じゃない。ちゃんとした声だった。
騎士団の小隊が待っていた。ガレスが前に出る。
「……三人か」
「帳面の数と一致する」
シルヴァが短く言う。
それから、布に包んだ指輪をガレスに渡した。
「これも。落ちてた」
ガレスが指輪を見て、眉をひそめる。
「貴族の紋……? いや、反対側――」
彼の顔が、一段硬くなる。
そこに、外套の銀糸の魔法使いが近づいた。
さっき《アクア・カーテン》で火の粉を抑えていた、高ランクの術者だ。
「見せてください」
声が落ち着きすぎていて、逆に怖い。
ガレスが指輪を渡す。
術者は指輪を宙に浮かせるみたいに指先で回し、呪文を短く吐いた。
「ディテクト・マナ」
空気が一瞬だけ澄んだ。
指輪の周りに、薄い光の輪郭が現れる。
綺麗すぎて、嫌になるほど整っている。
「……これは“通行印”ですね」
術者が淡々と言った。
「貴族側の紋は表の許可。反対側は……ギルド内部用の封緘印」
封緘。
閉じるための印。隠すための印。
ミリアが小さく息を呑んだ。
「両方あるって……」
「両方に顔が利く者がいる、ということです」
術者は事実だけを言う。
でも、その事実が嫌な形をしている。
シルヴァが視線を落としたまま言った。
「……“扉の存在”を消したい理由が、はっきりしてきた」
ガレスが歯を鳴らす。
「ギルドの内側か。貴族か。どっちだ」
「たぶん、どっちもだ」
アメリアが軽く言った。
軽いのに、目は笑っていない。
「だから面倒なんだよ。街って」
その言い方が、彼女が街にいる理由の一つに聞こえた。
◇
子どもたちは治療師へ引き渡された。
毛布をかけられ、暖かい湯を渡される。
治療師が言った。
「名前は……明日でいい。今夜は寝かせる」
俺はその言葉を、胸の奥で反芻した。
“明日”がある。
アメリアが子どもに目線を合わせて言う。
「もう大丈夫。誰も連れて行かない。ここは先輩が守る」
子どもは頷けないまま、木片だけを強く握った。
木の匂いが残る。
ミリアが、そっと息を吐いた。
「……木が残ってよかった」
「紙は燃えたけどね」
カイが言って、すぐに口を閉じた。
今は軽口にしない方がいい空気だと分かっている。
ロウが静かに言った。
「でも、燃えないものは持ち出した」
鉄板。帳面。印具。指輪。
燃えない形の証拠。
そこへ、詰所の前がざわついた。
きっちりした靴音。香油。乾いた紙。
また来た匂いだ。
男が二人。ひとりは帳簿係みたいな格好で、ひとりは護衛のように硬い歩き。
そして先頭の男は、笑顔のまま目が笑っていない。
「お手数をおかけしました。状況は“こちら”で引き継ぎます」
柔らかい声。
でも“引き継ぐ”の意味が、胃に悪い。
男は視線を俺たちに滑らせ、最後にアメリアで止めた。
一瞬だけ表情が固くなる。
――最強は、現場の都合を壊す。
「Fランクの皆さんには、詳細は不要でしょう」
男が続けた。
「不安を煽るだけですからね。子どもも保護した。火事も鎮圧に向かっている。
――これで“問題はない形”です」
ミリアの眉が動きそうになった。
でもアメリアが一歩前に出て、先に空気を取った。
「問題ない形、ね」
声は軽い。
なのに通る。
「じゃあ聞くけど。封緘印の指輪、どう説明するの?」
男の笑顔が、わずかに止まった。
「……それは確認します。提出を」
「提出しない」
アメリアがあっさり言った。
詰所の騎士が息を呑んだ。
ガレスも一瞬だけ目を見開く。
アメリアは続ける。
「ここは街の線。新人の線。子どもの線。
それを“問題ない形”で潰すなら、私は――問題にする」
男が喉を鳴らした。
「アメリア殿。感情で――」
「感情じゃないよ。仕事」
アメリアは笑わないまま、淡々と言った。
「私の仕事は、街の中を守る。
あなたの仕事は、札を刻む。
札が人を殺すなら、札の方を止める」
男の指が、無意識に袖口へ行った。
香油の匂いが濃くなる。苛立ちだ。
シルヴァが一歩前に出た。
「証拠は、騎士団とギルド監察の“共同保管”にする。ここで決める。
――この場で消える記録は、俺が許さない」
男の笑顔が戻った。戻り方が雑だ。
「……なるほど。では“封鎖したことにする”報告にして――」
「するな」
ガレスが切った。
「封鎖は騎士団が決める。ギルドの書類で勝手に閉じるな」
詰所の空気が、ようやく“揃わない”方向に動いた。
誰かが上でふんぞり返って札を刻んでも、現場の線は勝手に消えない。
そういう空気。
男は一拍だけ沈黙し、次に出した声は、さっきより低かった。
「……分かりました。では、上へ報告します。
“面倒な形”で」
言い捨てるようにして、男は去った。
護衛もついていく。
残された空気が、少し冷える。
ミリアが小さく言った。
「……今の人、味方じゃない」
「味方は、今夜は少ない」
シルヴァが言った。
「だが、少ない方が分かりやすい」
アメリアが肩をすくめる。
「味方が少ないなら、先輩が多めに働く」
その言い方が、妙に頼もしかった。
◇
詰所の端で、俺は指輪を見た。
貴族の紋。
ギルド内部の封緘。
両方を持つ手が、街の下に扉を作った。
そして扉は、閉じた。
閉じられた、じゃない。閉じた――“閉じられるように作られていた”。
俺の鼻の奥に、まだ冷たい匂いが残っている。
扉の向こうの広さ。
墨の膜。
蒼光灯の目。
そして、黒い犬の影。
(……次は、もっと大きい)
口には出さない。
出すと、揃えられてしまいそうだから。
アメリアが俺の横を通り過ぎるとき、軽く言った。
「レオン。今夜はよくやった。
でもね、いい子で終わらない夜が来る。――そのときも、戻ってこい」
「……はい」
俺はそう答えて、子どもたちが毛布に包まれている方を一度だけ見た。
明日がある。
だから今夜は、証拠を残す。
燃えない形で。




