第93話 共同井戸の輪とギルド最強
共同井戸の方角から、声が漏れていた。
怒鳴り声じゃない。泣き声でもない。
それなのに、胸の奥がざわつく。
人が集まっているときの匂い――汗と布と土。
そこに、乾いた紙とインクの匂いが混ざっている。香油も少し。
さらに、その奥に“黒い粉”の気配がある。
(……いやな混ざり方だ)
俺が立ち止まると、ミリアも足を止めた。杖を握る指が、わずかに強くなる。
「ノーラの伝言、当たってるわね」
「はい。井戸の周り、輪が敷かれてます」
見えるわけじゃない。
でも鼻の奥が「ここに線がある」と言っている。石畳の上に、薄い“場”がある匂いだ。
ロウが通りの端で、視線だけ動かして周囲を確認する。
「逃げ道、二つ。荷車が一台、もう一台……裏に回してあるかも」
カイが唇を尖らせる。
「隠す気満々だね。慈善の顔して」
慈善。確認。保護。
言葉は綺麗なのに、匂いは汚い。いつもそうだ。
そのとき、後ろから足音が来た。
軽いのに、周りが自然に道を開ける足音。
「遅い」
アメリアだった。
ギルド最強。
それなのに、今日の格好はやけに“街の人”だ。派手な鎧もなければ、目立つ武器もない。腰に短い棒一本。支え杖みたいな長さ。
通りすがりの人が、アメリアに気づいて息を止める。
母親が子どもの肩を抱き寄せ、小声で囁く。
「……アメリアさんだ……」
アメリアは俺たちを見て、いつも通りの調子で言う。
「ここ、気持ち悪いね。静かすぎる」
静かすぎる。
たしかにそうだ。人がこれだけ集まっているのに、音が揃っている。
“揃う”――満ちた輪の匂い。
ミリアがいつもより少し丁寧な声で言った。
「輪を剥がせますか?」
「剥がすのはユリシアの仕事。私は――崩す」
崩す、という言い方が妙に具体的だった。
「声が出る前に潰されてる。だから、声が出る隙を作る」
アメリアはそう言って、共同井戸の方へ顎で示す。
「見て。あれ、輪の中心」
井戸の縁。白い布を敷いた台。紙束。
その角に押された丸い印――満ちた輪。
そして読み上げているのは、若い書記風の男。
少し後ろの日陰に、袖の綺麗な眼鏡の男が立っている。靴は濡れていない。目線は列全体を撫でるように動いていた。
「……安全確認のため、未成年者は一時的に“確認”を受けます。抵抗は危険ですので――」
声は柔らかい。
でもその声を“柔らかいまま通す”仕掛けが、石畳に敷かれている。
輪の中にいる母親たちが、声を飲み込んでいるのが分かった。
怒りが喉まで来ているのに、最後の一押しができない。できないようにされている。
アメリアが小さく息を吐いた。
「じゃあ行くね」
「……列に?」
カイが驚いた顔をする。
アメリアは軽く頷く。
「強い人が前に立つと、相手は“式”にしたがる。
だから今日は、普通の顔。普通の手。普通の人で行く」
普通の人。
その言い方が、なぜかしっくりきた。
アメリアは母親と子どもの列に、自然に混ざった。
威張らない。押さない。空気を変えない。
でも、列の温度がほんの少しだけ上がる。
「助けが来た」じゃなくて、「助けを呼んでいい」温度。
日陰の眼鏡の男が、視線を動かした。
香油の匂いが一瞬濃くなる。
(合図)
その合図に反応して、腕章の男が列の端から動く。
母親の肩に手を置いて、低い声で言う。
「静かに。確認が済めば終わります」
終わらせる側の声だ。
アメリアが、その手を見て、にこりと笑った。
「ねえ、確認って具体的に何するの?」
柔らかい声。
でも“逃げ道を削る質問”だった。
腕章の男が眉をひそめる。
「規定です」
「規定の番号、言える?」
言い淀み。
その一瞬で、輪の中の母親の背中が少しだけ起きる。
俺はその隙を逃さず、指先で木粉の袋を開けた。
石畳の輪の線へ、こぼれ水に混ぜるように落とす。
白い木の粉が薄く散る。
黒が、ぴくりと嫌がった。
(効く)
輪が完全に壊れるわけじゃない。
でも“揃える力”が一拍だけ乱れる。
同時に、路地の影――ユリシアが金属片を置く音がした。
「サイレント・サークル」
空気が厚くなる。
叫びが消えるんじゃない。囁きが死ぬ。
日陰の眼鏡の男が、口を動かした。
いつもなら列に“整った言葉”が滑り込むはずの瞬間。
……入ってこない。
輪が揃えようとするのに、揃えるための囁きが届かない。
輪だけが空回りする。
母親が息を吸った。
「……返して」
小さな声。
でも、声だ。
輪が濃くなる気配。石畳の黒い匂いが、じわっと立ち上がる。
声を嫌って、揃え直そうとする。
ミリアが杖先を下げた。
「ライト」
淡い光。眩しくない。
輪の中心――井戸の縁の一点が“見える”ようになる。
ユリシアが続ける。
「スクリプト・キャンセル」
輪がほどけた。
墨が水に落ちるみたいに、石畳から薄く滲んで消えていく。
場の重さが抜け、列が「それぞれの体温」に戻る。
その瞬間を待っていたみたいに、ガレスが鉄札を掲げて割って入った。
「城塞命令! 未成年者は城塞が保護する! 監察は下がれ!」
今度は通る。
通すべき声が通る。
腕章の男の目が揺れた。
揃っていた“正しさ”が崩れて、ただの人間の目になる。
その横で、日陰の眼鏡の男が一歩だけ動いた。
袖の内側が、僅かに揺れる。
(噛む黒)
匂いが来た。あの歯みたいな小粒の匂い。
だが、アメリアはもう男の横にいた。
短い棒を“支え杖”のふりをして、男の肘の内側へ差し込む。
肩から崩す。噛む角度そのものを消す。
アメリアが小さく囁いた。
「今日は噛ませないよ。」
男の目が怒りで濁った。
でも、その怒りは遅い。
騎士団が列を解体し、子どもを母親の後ろへ戻していく。
荷車が押さえられ、幌がめくられた。
革紐。小瓶。黒い粉。
“確認”の道具じゃない。“運ぶ”道具だ。
母親の一人が震える声で言った。
「……やっぱり、連れて行くつもりだったんだ……」
アメリアがその母親の隣にしゃがみ、目線を合わせた。
「うん。だから止めた。あなたの声、戻ったでしょ」
母親が、泣きそうな顔で頷く。
アメリアが立ち上がって、周囲に聞こえるくらいの声で言った。
「大丈夫。ここから先は、ちゃんと守る」
◇
後始末は早かった。
ガレスが腕章の男を拘束し、騎士団の若い兵が何度も頭を下げる。
空っぽだった目が、痛そうに揺れている。
ミリアが荷車の荷の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。
「……インクが湿ってる。新しい紙が近くにある匂い」
ロウが幌の木枠を指先で叩いた。
「ここ、木が少ない。わざと避けてる」
木を避ける。黒が嫌うから。
俺は日陰の方を見た。
眼鏡の男は――もういない。
代わりに、アメリアが袖口から一枚の紙を滑らせて、ミリアに渡した。
満ちた輪の印が押された“通達”の一枚。
「取ってきた。……紙ってほんと、軽いね」
軽いのに、人を重くする。
ミリアが紙を見つめ、匂いを確かめる。
「蝋の匂い。教会裏……写字房ね」
「俺も同じ匂いを拾ってます」
インクと蝋。紙の乾き。
そして、薄い薬草。地下の匂い。
アメリアが肩を回して言った。
「じゃ、行こ。燃やされる前に、紙の心臓を抜く」
恐れ多いのに、身近な先輩の口調だ。
それが不思議と、心を軽くした。
母親たちの声が、ようやく街の音に戻っていく。
泣き声も、怒鳴り声も、全部“生きてる音”だ。
俺たちはその音を背に、教会裏へ走った。




