第92話 満ちた輪の印と、噛めない黒
城塞の医務室の廊下は、妙に長く感じる。
石は冷たいのに、空気は薬草で温い。
その温さが、逆に落ち着かない。――ここは「守れている場所」の匂いだからだ。
守れている場所には、奪いに来るやつがいる。
俺が扉を押して入ると、ガレスとシルヴァが机を挟んで立っていた。
机の上には、布包みが二つ。鉄札と、石札。
それから――もう一つ。
黒い、歯。
正確には、歯みたいに小さく削られた黒い塊だった。噛み砕ける硬さ。噛める形。
「これが、あいつが噛もうとしたやつだ」
ガレスが低く言った。
昨夜、染物屋裏で捕えた監督役は、布の下で何かを割ろうとしていた。
アメリアが顎を叩いて止めた、あれ。
俺は鼻で息をした。
(……黒い粉。湿った墨。あと、甘い油)
そして、薄い、薄い薬草。
それが一番嫌だった。
“ここ”の匂いが、すでに混ざっている。
「毒?」
ミリアが杖を抱えるように持って聞くと、シルヴァが首を振った。
「毒じゃない。……“消す”ためのものだ」
「声を?」
「記憶を。口を。――場合によっては、相手ごと」
ガレスの言い方が短い。短いほど、もう答えは出ている。
ユリシアが窓辺から一歩だけ寄ってきた。眠そうな目で黒い塊を見下ろす。
「……それ、噛んだら“中”が出る」
「中?」
俺が聞くと、ユリシアは面倒くさそうに指先で空をなぞった。
「黒が走る。口の中は粘膜だからね。
噛んだ瞬間に、文字みたいに染みる。――染みたら、戻らない」
ミリアの指が少しだけ震えた。
怖い、じゃない。怒りの震えだ。
「そんなものを……子どもの近くで?」
「近くで使うから意味がある」
ユリシアが淡々と言い、金属片を机に置いた。紙じゃない。
「インク・リヴィール」
黒い塊の表面が、わずかに“照り”を変えた。
表の黒の上に、もう一枚、別の黒が乗っている。
昨日、紙で見た二重の黒と同じだ。
そして――端の方に、薄い刻印が浮いた。
満ちた輪。
欠けた月じゃない。欠けがない、丸い輪。
ミリアが息を飲んだ。
「……これが」
「“命令”の方」
シルヴァが短く言った。
「欠けた月は運ぶ。満ちた輪は揃える。……揃えるってのは、整えるってことだ」
ガレスが、机の上の鉄札を指で叩いた。
「だから、こっちは鉄だ。揃えさせないために」
俺は黒い塊を見たまま、胸の奥が冷えていくのを感じた。
満ちた輪が“揃える”なら。
あいつらは、扉だけじゃなく――人も揃える。
従わせる形に。黙らせる形に。消せる形に。
◇
医務室の奥で、子どもが小さく咳をした。
治療師が背中を撫でる。
その手の動きは、騎士団でもギルドでもない。ただの手だ。
ノーラが、肩を固定したまま立っていた。今日は顔色が前よりいい。目がちゃんと前を見ている。
「木、持ってきた」
ノーラは小さな布袋を机に置いた。中身は薄い木片。削りたての匂い。
「ヴァルターさんが削ってくれた。『紙がだめなら木で残せ』って」
ヴァルターの口調が、脳内で勝手に再生されてしまう。
治療師が木片を一枚取り、黒ずんだ手首に当てた。
じわ、と黒が滲む。薄くなる。完全には消えないが、“噛みつき”が弱まる感じ。
ミリアが小さく頷いた。
「……木は盾になる」
「盾が無くても、線は作れる」
ノーラがぽつりと言って、すぐに口を閉じた。
言い過ぎると折れるのを、自分で分かっている顔だった。
シルヴァが、ノーラの布袋を軽く持ち上げて言う。
「全員に配れ。持たせろ。握らせろ。
それだけで、向こうの“黒”は雑になる」
雑になる。
それは希望に聞こえるのに、同時に危険の匂いもする。
雑になった黒は、乱暴になる。
◇
昼過ぎ、城塞の門前が騒がしくなった。
俺の鼻が先に拾った。
乾いた紙。インク。香油。――そして、湿った墨。
来た。
ガレスが門へ向かう。シルヴァが俺たちを目で促す。
ミリアとロウとカイ、アメリアもついていく。
門前に立っていたのは、あの眼鏡の男だった。
相変わらず袖が綺麗で、相変わらず靴が濡れていない。
隣には監察の腕章。
少し後ろに、アルヴィンがいた。今日は目がこっちを見ている。逸らさない。
「再度、確認に参りました」
眼鏡の男が丁寧に頭を下げ、紙束を差し出す。
「昨夜“保護”された未成年者は、監察で引き取ります。規定ですので」
ガレスは紙束を受け取らなかった。
代わりに、鍛冶場で作った鉄札を一枚、前へ出した。
刻まれた文字が、昼の光を鈍く跳ね返す。
「城塞命令だ。未成年者は城塞が保護する。監察の介入は拒否」
眼鏡の男の笑みが、ほんの少しだけ固まる。
「鉄札の命令は存じておりますが――」
男は、もう一枚の紙を出した。
さっきのより新しい紙。乾ききっていない墨の匂い。
そして、角に押された印。
満ちた輪。
昨日見た“二段目”の印が、堂々と表に出ていた。
ミリアが目を細めた。
「……出したわね」
眼鏡の男は穏やかに言う。
「これは“上位の確認”です。命令の整合性を取るために――」
「整合性、ね」
アメリアが笑わずに言った。
「綺麗な言葉。好きじゃない」
ロウが小さく一歩、前へ出た。
足元の位置だけで「この先は通さない」と言う、いつもの線。
カイがぼそっと言う。
「満ちてる方が偉い、って感じ?」
「偉いんじゃない」
ユリシアがいつの間にか門の影に立っていて、眠そうな目で紙を見ていた。
「……強い。命令の黒だ。紙を“勝たせる”ための黒」
ガレスが低く言う。
「紙は勝てない。鉄札がある」
眼鏡の男は笑みを戻そうとして、戻らなかった。
戻せないときの顔は、やっぱり人間だった。
「……では、“現場確認”を」
男が一歩踏み出す。
その瞬間、俺の鼻が嫌な匂いを拾った。
紙束の奥。
さっきの黒い塊と同じ匂い――噛む黒。
(持ってる)
俺の声が出る前に、アメリアが動いた。
小剣は抜かない。
鞘のまま、男の袖口を“ちょん”と叩いた。
叩いた位置が、的確すぎた。
袖の内側から、黒い小粒がひとつ落ちる。
カツ、と石に当たって止まる。
噛む形。歯の形。
眼鏡の男の目が、一瞬だけ冷えた。
「……何の真似です?」
「落とし物」
アメリアが平然と言う。
「拾ったら? 口で」
男が手を伸ばすより先に、カイが靴の裏で小粒を踏んだ。
踏み潰さない。動かせない位置に固定するだけ。
ミリアが杖先を向ける。
「ライト・ピン」
光の釘が小粒の横に刺さって、転がる余地が消えた。
ガレスの声が、一段低くなる。
「監察が、城塞門前で“噛む黒”を持ち歩く理由を聞こうか」
眼鏡の男の喉が動いた。
答えは出せない。出せば紙が剥がれる。
アルヴィンが、後ろで小さく息を吐いた。
その息に、悔しさの匂いが混じっていた。昨日より濃い。
眼鏡の男は、やっと笑みを捨てた。
「……今日は引きます」
同じ言葉でも、今日は温度が違う。
「ただし、満ちた輪は“通達”です。
街は、もう動いています。――あなた方が何を残しても」
捨て台詞にしては、妙に具体的だった。
男は踵を返し、監察の腕章が続く。
アルヴィンだけが半歩遅れて、こちらを見た。
「……鉄札、良い手だ」
小さな声。
褒め言葉に聞こえたのが、むしろ怖い。
「でも……満ちた輪は、“閉める”ための印じゃない」
それだけ言って、アルヴィンは目を逸らした。
ガレスが眉をひそめる。
「閉めるためじゃない?」
ミリアが、静かに言った。
「……“開ける”ため」
俺は喉の奥の苦さを飲み込んだ。
扉が二枚だったように、印も二つ。
欠けた月で運び、満ちた輪で――開ける。
開けるのは扉だけじゃない。
人の口も、記録も、街の隙間も。
◇
医務室へ戻る途中、窓の外に薄い煙が見えた。
焼却場の煙じゃない。
染物屋の方角から上がる、湿った煙。
ユリシアが、窓に目も向けずに言った。
「……動いたね。段取りを変えた」
シルヴァが頷いた。
「三つ目の出口が割れた。だから別の線を引く」
ミリアが杖を握り直す。
「次は“扉の向こう”じゃなく、“街の中”で来る」
アメリアが小剣の柄を軽く叩いた。
「じゃあ、街の中で折る」
俺は医務室の扉の前で立ち止まった。
中には、木片を握った子どもがいる。
木が盾になるなら、まだ間に合う。
満ちた輪が開けるなら。
こっちは、鉄と木で“閉じない”を作るしかない。
――次に来るのは、紙じゃないかもしれない。
噛む黒。
あれを、街のどこで使うつもりだ。
考えた瞬間、鼻の奥がまた嫌な予感を出した。




