第91話 鉄札の命令と、三つ目の出口
夜が来る前に、城塞の鍛冶場へ呼ばれた。
炉の熱は、ヴァルターの厨房とは違う。
腹を満たす熱じゃない。――「決めたこと」を曲げない熱だ。
赤い鉄板の上に、騎士団の鍛冶師が鏨を当てる。
カン、と乾いた音。火花が跳ね、黒い煤が空気に舞う。
「紙は燃える。墨は染みる」
ガレスが横で、短く言った。
「だから、命令は鉄に刻む。燃やせない形で残す」
鉄板には、まだ途中の文字が並んでいた。
揃っていない。綺麗でもない。けれど、綺麗に“整え直す”には面倒すぎる文字だ。
――城塞騎士団 命令
――未成年者保護
――監察部門の介入は拒否
――現場指揮:副官ガレス
――協力:冒険者ギルド(指揮補助シルヴァ)
ミリアが、息を吐いた。
「……やっと、紙じゃない命令が来た」
「遅いくらいだ」
シルヴァはそう言ったが、顔は笑っていなかった。
遅いぶん、向こうの段取りが進んでいる。
ユリシアは鉄板を一瞥して、眠そうに言う。
「音は要る。これは残す音」
鍛冶師が最後の一打を入れる。
鉄板の文字が、熱の中で黒く沈んだ。
俺の鼻には、煤と鉄の匂いしか入らない。
それが、今夜はありがたかった。
◇
夕方、ギルドの裏口に戻ると、ノーラが待っていた。
肩の固定具はまだ残っている。盾もない。
それでも彼女は、裏庭の土を踏む足の置き方が妙に静かだった。
「三つ目」
ノーラはいきなり言った。前置きがない。線の声だ。
「出口、三つ目がある。……噂が揃った」
「どこ」
ロウが聞くと、ノーラは一息で答えた。
「東の染物屋の裏。排水の水門。
灰袋を担いだ影が、教会裏からそこへ入ったって」
ミリアが目を細める。
「袋小路、教会裏、染物屋の水門……三本線」
医務室の木片に刻まれた線と一致する。
アメリアが短く言った。
「逃げ道を三つ用意して、どれかが潰れても回る。……段取り好き」
「段取りが好きなら、段取りを折る」
シルヴァが言って、ガレスへ視線を投げた。
ガレスは頷く。
「騎士団で線を作る。袋小路と教会裏は押さえる。
染物屋裏は――バルド、お前が見ろ」
「俺かよ」
バルドが悪態をついたが、拒否はしなかった。
「Cが街の水門なんて……」
「お前、外側だけ見る役だ。深追いはするな」
シルヴァが釘を刺すと、バルドは舌打ちして腕を組む。
「規定は守る。……が、角は見る」
言い終えてから、また嫌そうな顔をした。
自分の台詞になってるのが腹立つらしい。
◇
夜。
ユリシアが、袋小路の手前に金属片を三枚置く。
指先で位置を決め、淡々と唱える。
「サイレント・サークル」
世界の耳が鈍くなる。
遠い音が薄れ、代わりに自分の血の流れがやけにうるさい。
木箱をずらし、鉄の輪を出し、黒鍵を差し込む。
がちゃり。
地下の湿気が吐き出される。
灰と石と――薬草。
俺たちは息を止めずに降りた。
止めると、逆に音になる。
最初の空間は、前より散らかっていた。
灰袋の山が崩れ、臼の周りに粉が多い。作業が急いでいる。
ロウが床を指でなぞる。
「裸足の跡……新しい。数も増えてる」
ミリアが杖先に、淡い灯りをつけた。最小の光。
影が増えない、必要な分だけ。
例の鉄扉へ。
俺は本物の印具――欠けた月を、扉の面に押し当てた。
沈む。
内側で外れる音。扉がずれる。
開く。
◇
臼の部屋は、空だった。
昨日の子どもたちの目がいた場所に、目がいない。
臼だけが並んで、杵が転がり、粉がまだ湿っている。
息の跡だけが残っていた。
ミリアが、低く言った。
「……移した」
カイが臼に触れようとして、やめた。
「温い。さっきまで回してた」
アメリアの金属棍が、半分だけ伸びる。
叩くためじゃない。距離を測るための長さ。
「どっち」
彼女が視線で示すと、部屋の奥に小さな扉があった。
昨日、監督役が退いた方だ。
俺の鼻が、そっちへ引っ張られる。
(……甘い汗)
薄い。けれど、確実に続いている。
扉の取っ手に触れた瞬間、黒い糸が床から生えた。
糸というより、濡れた線。
狙いは喉じゃない。足首。
転ばせる。音を出させる。人を呼ぶ。
地下でも地上でも、段取りは同じだ。
「ライト・ピン!」
ミリアが床へ釘を打つ。一本、二本。進路を縫う。
糸は薄くなって釘の間を探す。
ロウの縄が、糸の“根元”へ短く叩き込まれる。
黒がよれる。
その一拍で、アメリアの棍が走った。
潰さない。叩かない。
線を弾いて壁へ流す。
黒い糸が散って粉になり、床へ落ちる。
カイが石灰を撒いた。
白が黒を噛んで、粉が縮む。
俺は削り屑を重ねる。
木の粉が黒を嫌がらせる。芯が見える。
短剣の柄で、芯だけ潰す。
黒は汚れに戻った。
ミリアが短く息を吐く。
「……行ける」
◇
奥の扉を開けると、狭い通路だった。
石の湿気が強い。
下水の匂い。灰の匂い。――そして薬草が、線みたいに続く。
通路の先に、人の気配。
足音が複数。軽い。裸足に近い足音。
その周りを、革靴の音が囲っている。
子どもたちを運んでいる。
「止める」
シルヴァが低く言った。
「音は出すな。声も出すな。最短で切る」
ロウが先に出る。縄を短く、低く。
カイは壁際に貼り付く。
ミリアは杖を握り、アメリアは棍を縮めた。狭いからだ。
角を曲がると、列が見えた。
子どもが五、六人。縄で繋がれてはいない。
でも、歩き方が揃っている。揃えられている。
その後ろに、監督役。昨日の男じゃない。別の男。
欠けた月の印を持つ手が見える。指輪じゃない。印具だ。
「……予定より早い」
監督役がぼそりと漏らす。
その瞬間、アメリアが動いた。
棍が伸びる。音が出ない。
伸びた先が、監督役の手首の“少し先”を叩いた。
叩いたというより、ずらした。
印具が落ちる。
落ちる音が出る前に、ロウの縄が印具を拾う形で巻き取った。
綺麗な手順。音が残らない。
監督役が目を見開き――黒い線を床へ走らせた。
今度は糸じゃない。輪だ。薄い輪。
輪が床を舐め、足元を撫で、子どもの足を止める。
「動くな」
監督役の声が、子どもたちに刺さる。
子どもたちの肩が一斉にすくむ。
命令が染みついている。
ミリアが、いつもより低い声で唱えた。
「ライト・ピン!」
釘が輪の縁を縫う。輪が一瞬だけ揺れる。
でも輪は薄くなって、釘の隙間から抜けようとする。
命令は、抜け道を探すのが上手い。
カイが石灰を叩きつける。白が黒を噛む。輪が鈍る。
俺が削り屑を重ねる。
木の粉が、輪の“輪郭”を嫌がらせる。
輪の芯が見えた。
(そこだ)
短剣は抜かない。
足で踏み込んで、柄で押し潰す。
輪がほどける。床の黒が、ただの汚れになって落ちた。
監督役の目が、俺に向く。
「……鼻のやつか」
名前じゃない。役割で呼ぶ。
役割に押し込めば、紙にしやすい。
アメリアが、監督役の視線を横から切った。
「見てる場合じゃないよ」
棍が再び走る。今度は腕じゃない。膝。
倒すんじゃない。立てなくする。
監督役がよろけた瞬間、ロウの縄が手首を取る。関節じゃない位置で。
声が出る前に、口元へカイの布が当たった。
汚い布だ。灰の匂いがする。
監督役の目が、さらに見開く。
嫌がる匂いを嗅がされてる目だ。
ミリアが子どもたちへ言った。柔らかくしようとした声。
「歩ける? ――歩ける子は、前へ」
返事がない。
でも一人、指が震えて、薬草の匂いの方向を指した。
通路の先。水の匂い。
水門だ。
「染物屋裏へ繋がってる」
ロウが短く言う。
ここで止めないと、地上の出口へ流される。
シルヴァが低く言った。
「前へ。子どもを挟むな。左右で守れ」
俺たちは子どもたちの前後へ入った。
盾はいない。ノーラはいない。だから“体で線を作る”。
そのとき、背後の暗がりで、影が一つ動いた。
犬みたいな影。
でも確かめる暇はない。
水の音が近づく。
湿った空気が濃くなる。
――そして、通路の先が明るくなった。
上からの灯り。地上が近い。
バルドの声が、低く響いた。
「止まれ!」
染物屋裏の水門の向こう。
外側の線が、ちゃんと引かれていた。
子どもたちが、そこで初めて動きを止めた。
止められたんじゃない。止まった。
線があると、人は止まれる。
監督役が呻き、口元の布の下で何かを噛んだ。
黒い匂いが強くなる。
――自分の歯で、何かを割る匂い。
(まずい)
俺が息を吸った瞬間、アメリアが棍の先で監督役の顎を軽く叩いた。
強くない。折らない。
でも噛めない角度にするには十分だった。
監督役の目が、憎しみで滲む。
その目の奥に、焦りがあった。
「……扉は、もう一つあるぞ」
布の下で、かすれた声。
「欠けた月だけじゃない。満ちた輪が――」
そこまで言って、言葉が途切れた。
通路の隅で、小さな影が並んだ気がした。
犬の影が、落ちた黒い汚れに鼻を寄せた、気がした。
そして次の瞬間には、何もいなかった。
◇
地上へ出ると、夜の空気がやけに軽かった。
子どもたちは騎士団の毛布に包まれ、城塞へ運ばれていく。
誰も声を出さない。出せない子もいる。けれど足は動いている。
ミリアが、息を吐いた。
「……出せた」
「出せた“分”はな」
シルヴァの声は低いままだ。
まだ奥がある。
まだ臼の音が残っている場所がある。
バルドが、子どもたちの列を一瞬だけ見て、顔をしかめた。
「……クソ。こんな仕事、Fに回して平気な顔してる連中がいるのかよ」
言い終えて、舌打ちした。自分の言葉に腹が立ったみたいに。
俺は、掌の中の欠けた月の印具を握り直した。
冷たい。重い。
そして、薬草の匂いがまだ薄く残っている。
今夜、止められた線が一つ。
でも監督役の言葉が残した線も一つ。
欠けた月だけじゃない。
満ちた輪。
紙の上に浮いた、もう一つの印。
地下の扉は、まだ終わっていない。




