第90話 インク・リヴィールと、消せない命令
!祝90話!!!!
城塞の医務室は、静かすぎて落ち着かない。
薬草の匂いは強いのに、紙の匂いがない。
代わりに石と鉄の冷たさが鼻に入ってきて、頭が冴えてしまう。
例の子ども――外套の中で眠っていた子は、薄い粥を口にしてから、少しだけ目が動くようになった。
まだ言葉は出ない。出せないというより、出す順番を忘れてるみたいな目だ。
治療師が、包帯の下の手首をそっと見せた。
黒ずんだ輪の跡。
擦ってできた汚れじゃない。皮膚の下に、墨が染みたみたいな色がある。
「……これは?」
俺が聞くと、治療師は淡々と言った。
「“墨痣”。粉と汗が傷に入った。時間が経つと熱を持つ。
ただ、薄くなる癖もある」
そう言って、治療師は小さな木片――ノーラが持ってきたのと似た、薄い木を取り出した。
木の端に水を含ませ、輪の跡に軽く当てる。
――じわ。
黒ずみが、ほんのわずかに滲む。
布に移る。皮膚から離れるみたいに。
ミリアが息を止めた。
「木で……抜ける?」
「全部じゃない。けど“嫌う”」
治療師は短く答えた。
「黒い粉は、木の成分に反応する。だから、あの子は木を触らされなかったはずだよ」
俺は、昨日の臼の部屋を思い出した。
石と鉄と粉。木がほとんど無かった。
あれは偶然じゃない。
◇
昼過ぎ、ガレスが医務室に来た。鎧は着ていないが、歩き方だけは騎士団だ。
「例の紙だ」
彼は布に包んだ書類を机に置いた。
あの眼鏡の男が持ってきた“保護の規定”。
ミリアが嫌そうに指先で端をつまむ。紙の乾いた匂いに、香油の薄さが混じっている。
「これ、燃やされる前に取れたのは大きい」
「燃やすのは簡単だが、残すのが難しい。……だから今日は、残す」
ガレスは視線を横に投げた。
ユリシアが窓辺に立っていた。眠そうな目のまま、紙を見下ろす。
「調べて。『印』が本物かどうか」
ガレスが言うと、ユリシアは頷きもしない。
「……見るだけ。触らない。触ると向こうが喜ぶ」
指を鳴らす代わりに、彼女は紙の上に小さな金属片を一枚置いた。
紙じゃないものを、紙の上に置く。
「インク・リヴィール」
派手な光は出ない。
でも――紙の角に押された“欠けた月”の印が、薄く浮いた。
浮く、というより「二重に見える」。
表の黒。
その下に、もう一枚、湿った黒が貼りついている。
ミリアが眉をひそめた。
「……二重?」
「上塗り」
ユリシアが短く言う。
「普通のインクの上に、“別の黒”を薄く乗せてる。
紙の字は綺麗。けど匂いは汚い」
ガレスが歯を噛む。
「つまり、公式の紙に――あの黒が混じってる」
「混じってるというか、混ぜてる」
ユリシアは紙をめくらずに続けた。
「印を押した人間が、“押した”だけじゃない。
“染み込ませた”。消したいものを、消せる黒で」
俺は紙の印を見た。
欠けた月の形が、俺たちが奪った印具と同じ欠け方をしている。
なのに、下の黒は別物だ。
……同じ形で、別の黒。
ミリアが小さく言った。
「印具が一つじゃない」
「か、押したあとに“黒”を足してる」
ロウが淡々と補足する。
ユリシアが、紙の端に視線を落とした。
「もう一つある」
そう言って金属片をずらすと、紙の余白に、細い線が浮いた。
欠けた月じゃない。
満ちた円に近い、薄い輪。
ミリアの目が細くなる。
「……二段構え」
ガレスが低く言った。
「封鎖の印と、命令の印……か」
俺は、嫌な予感が形になるのを感じた。
扉が二枚だった。
紙の印も二枚。
同じ段取りが、地上と地下で揃っている。
◇
「で、どうする」
ガレスが聞いた。
“どうする”の主語が、もうギルドだけじゃない。城塞が混ざってきた。
シルヴァが言った。
「今日のうちに動く。地下の“作業場”は確認済み。扉も開けられる。
問題は、動く理由と、残す記録だ」
「記録は残す」
ガレスは即答した。
「ただし紙は危険だ。――今見た通り」
ユリシアがぼそっと言う。
「紙は燃える。墨は走る。……だから石か鉄」
ミリアが頷いた。
「石札」
俺たちは、互いに顔を見た。
ギルドで始めたやり方。
“紙の外”に残すやり方。
ガレスが顎を引く。
「よし。城塞の命令は鉄札に刻む。
石工にも回す。二重で残せば、向こうは整えにくい」
シルヴァが短く息を吐く。
「……助かる。だが、向こうも焦る」
「焦らせたのは俺たちだ」
ガレスはそう言って、医務室の奥――眠る子どもの方角を一度だけ見た。
「焦って雑になった瞬間を、掴む」
“雑”は、ここまで来ると希望みたいな言葉だ。
◇
その頃、ノーラはギルドの裏で“声”を拾っていた。
夕方、医務室に顔を出したノーラは、疲れた顔で、それでも背中がまっすぐだった。
「増えてる」
第一声がそれだった。
「張り紙が無いから、母親たちが――名前を、口で言う。
でも言う場所が決まってきた。教会の前と、井戸の近く。……人が集まるから」
「井戸?」
ミリアが眉を上げる。
ノーラは頷いた。
「古井戸じゃない。街の共同井戸。
水汲みの列って、声が混ざるの。……聞いてる人も混ざる」
“混ざる”。
その言葉が、嫌なほど今の街に合う。
ノーラは続けた。
「それと、噂。灰袋を運ぶ影が、袋小路だけじゃなくて、教会の裏でも見えたって」
ロウがすぐに反応する。
「出入口が複数ある」
「うん。袋小路が塞がれても動けるようにしてる。……段取りがいい」
ノーラは悔しそうに、でも誇らしげに言った。
「でもね。段取りがいいほど、“見張る場所”も増える。
私は……そこだけは、できる」
ヴァルターの教えが入っている顔だった。
盾がなくても、線を引ける顔。
◇
医務室の窓が、かすかに鳴った。
誰かが外を通っただけの音。
でも俺の鼻が、先に拾った。
香油。乾いた紙。――薄い墨。
(来てる)
ユリシアが面倒くさそうに言った。
「……この部屋、今“聞かれてる”」
ミリアが息を止める。
「え、盗聴?」
「術じゃない。人」
ユリシアは窓の外を見ずに言う。
「耳を置く人間がいる。だから――」
金属片を指先で弾いた。
「サイレント・サークル」
空気がまた、少し厚くなる。
外の気配が、遠のく。
ユリシアがようやく窓の方を見て、短く吐き捨てた。
「……今日は“紙”じゃなくて、“人”で来た。焦ってるね」
焦っている。
焦って雑になっている。
ガレスが立ち上がった。
「今夜、動く。鉄札と石札を二重で残す。
地下へ入る班は――ギルドの動ける者。城塞は地上の線を作る」
シルヴァが頷く。
「レオン、ミリア、ロウ、カイ、アメリア。
ノーラは残って声を拾え。――“残す役”は必要だ」
ノーラは悔しそうに頷いた。
悔しいのに折れないのが、今は頼もしい。
ミリアが医務室のベッド脇の木片を見た。
子どもが爪で刻んだ欠けた月。臼の丸。黒い点。
そして、さっき新しく刻まれたものが一つ。
――三本線。
道を示すみたいな、三つの筋。
「これ……」
ミリアが呟く。
「出口が一つじゃない。三つあるって言ってる」
ロウが頷いた。
「教会裏、袋小路、あと一つ。……まだ掴めてない場所だ」
俺は木片を手に取った。
木の匂いが、薬草の匂いに混ざる。
木は嫌われる。
だから残る。だから、見える。
外で煙が上がっている。
今夜もきっと、紙が燃える。
でも今夜は、紙じゃなく――鉄と石と木で、命令と証拠を残してから、扉を開ける。
扉の向こうの臼の音を、今度こそ止めるために。




