第89話 保護の名目と、欠けた月の紙
朝の厨房は、夜より残酷だ。
火の匂いが「生きてる匂い」になって、眠れなかった分だけ腹が鳴る。
鍋の湯気が立つたび、昨日の地下の粉っぽさが舌の裏から剥がれていく。
ヴァルターの厨房の隅――いつもの物置に、外套をかぶせた子どもが横になっていた。
顔は見えない。見えない方が、たぶんいい。
呼吸は浅い。でも止まっていない。
それだけで、少しだけ胸の中の硬いものがほどける。
「……起きたら、最初に飯だ」
ヴァルターが、鍋の蓋を指で叩いて言った。
「言葉はいらん。噛めれば生きる」
ミリアが椅子に腰掛けたまま、小さく頷く。
俺は机の上の印具を見た。欠けた月の金属。
触ると指が冷えるのに、匂いだけが妙に重い。
黒い粉。焦げた紙の灰。薬草。
――子どもの汗。
◇
ノーラが来たのは、鍋の湯気が落ち着いた頃だった。
肩の固定具はまだ外れていない。けれど足取りは前より静かで、床板が鳴らない。
「……まだ、いるんだ」
物置の方を見て、ノーラが息を吐いた。
「うん」
俺が答えると、ノーラはポケットから小さな木片を出した。
削り跡の残る、薄い板。
「これ、昨日の……」
「違う」
ノーラは首を振った。
「私のじゃない。今日の分」
木片には、まだ何も刻まれていない。
ただ、削った木の匂いだけが新しい。
「紙だと、消される」
ノーラが小さく言う。
「だから、木。……名前、言えないなら、刻める」
俺はその木片を受け取った。軽い。軽すぎる。
でも、残るには十分だ。
ミリアが目を伏せて言った。
「ノーラ、外はどう?」
「……増えてる。声」
ノーラは一拍置いて続ける。
「『貼るな』って言われたぶん、みんな“口で”探し始めた。
でも、その声を拾える場所が限られてる。――ギルドの裏と、教会の前」
「拾える声は残す」
ミリアが頷く。
「残す声が増えると、向こうは焦る」
ノーラが、物置の方をもう一度見た。
「この子のことも……消しに来る?」
答えは、たぶん「来る」だ。
だから俺は、違う答えを探した。
「来させない」
ノーラは少しだけ笑いそうになって、やめた。
笑いにするには、まだ重い。
◇
昼前、シルヴァがヴァルターの厨房に入ってきた。
「城塞の医務室へ移す」
短い指示。迷いがない。
「ここは良い場所だが、良すぎる。匂いが残る。
“飯の匂い”は人を呼ぶ。呼ばれたら、面倒になる」
ヴァルターが鍋をかき混ぜながら言った。
「言い方が腹立つな。……でも正しい」
アメリアが、今日も違う武器を持っていた。
短い片刃の小剣。刃は細い。抜けば静かに刺さるやつ。
「運ぶのは私がやる。街の中なら得意」
「目立つなよ」
シルヴァが言うと、アメリアは肩をすくめた。
「目立たないのも得意。……たぶん」
ミリアが杖を握り直す。
「城塞に行ければ、紙で触りにくい。――でも途中が危ない」
「途中で止められる」
ロウが淡々と言った。
「“保護”って言葉で」
その言い方が、嫌なほど当たってる気がした。
◇
ギルドの裏口を出ようとしたときだった。
石畳の向こうに、先に並んでいる影が見えた。
二人、いや三人。
先頭は眼鏡の男。袖が綺麗すぎる。靴の先が濡れていない。
隣に、監察の腕章。
そして少し後ろに、アルヴィンがいた。
アルヴィンはこっちを見ない。
見ないのに、肩だけが硬い。
「おや」
眼鏡の男が、丁寧に笑った。
「ずいぶんと忙しそうですね。……Fランクの皆さん」
ミリアの目が細くなる。
アメリアは笑わない。ロウは一歩、角度を変える。
シルヴァが先に前へ出た。
「用件は」
「保護です」
眼鏡の男が、紙束を掲げる。
「昨夜、街で保護された“身元不明の未成年”について。
監察部門が引き取ります。規定ですので」
規定。
その言葉は、いつも“通すための刃”になる。
俺の舌の裏が、苦くなった。
紙の匂い。
乾いたインク。香油。――そして、湿った墨が薄く混ざっている。
(同じだ)
焼却場の匂いに似てる。
あの欠けた月の印具の匂いにも近い。
ミリアが一歩前に出る。
「規定なら、どの規定? 条項を言って」
眼鏡の男は笑みを崩さないまま言った。
「細部は書いてあります。――ここに」
紙束の一番上。
綺麗な字。揃った行。
そして、角に押された印。
俺の心臓が一段、冷える。
欠けた月。
昨日奪った印具と、同じ欠け方だ。
なのに“公的な紙”の顔をしている。
ミリアの声が低くなる。
「……それ、どこで押したの」
「必要なところで」
眼鏡の男が、さらっと言う。
アメリアの小剣が、鞘の中でわずかに鳴った。
抜かない。鳴らしただけで、十分だ。
ロウがアルヴィンを見た。
「アルヴィン。お前、これ知ってるのか」
アルヴィンが、やっと顔を上げた。
目が疲れてる。怒ってるのか、怯えてるのか、どっちとも取れる目だ。
「……俺は、運んだだけだ」
その言い方が、運び屋と同じだった。
シルヴァが淡々と言う。
「保護は城塞が行う。子どもは医務室へ。これは騎士団の案件だ」
「おやおや」
眼鏡の男は首を傾げる。
「冒険者ギルドが“城塞案件”を勝手に――」
言い終える前に、通りの奥から足音が来た。
硬い靴音。鎧の擦れる音。
ガレス――騎士団の副官が、二人の兵を連れて現れた。
「勝手に、とは?」
ガレスの声は短い。
短い声ほど、逃げ道がない。
眼鏡の男の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「いえ。規定の確認です」
「確認なら、こちらがする」
ガレスが紙束を取り、さらっと一枚めくった。
そして、眉間に皺。
「この印……いつから監察の紙は“欠けた月”になった」
空気が止まった。
眼鏡の男の口角が、ほんの僅かに下がる。
その表情だけで、「触れてほしくない」と分かる。
ミリアが、杖先を紙の端に近づけた。
「ライト」
小さな光。派手じゃない。
でも紙の上のインクが――わずかに泡立った。
黒い墨の匂いが、一瞬だけ濃くなる。
眼鏡の男は、やっと息を吐いた。
「……今日は引きます」
柔らかい声のまま、柔らかくない言葉を置く。
「ただし、城塞に移したことは記録に残ります。
残れば――後で整えられますから」
脅しに聞こえるのに、事実でもあるのが嫌だった。
眼鏡の男が踵を返す。
監察の腕章が後に続き、アルヴィンだけが一瞬遅れた。
すれ違いざま、アルヴィンが小さく言った。
「……気をつけろ。上が、焦ってる」
それだけ言って、目を逸らした。
◇
城塞の医務室は、匂いが違う。
紙じゃない。鉄と石と薬草。
そして、人の手の匂いがする。働く手の匂い。
子どもは温い粥を数口、口に入れた。
飲み込むたび、肩がほんの少しだけ落ち着く。
ノーラの木片を、俺はそっと差し出した。
「……これ。刻める?」
子どもはしばらく見ていた。
怖がってる目じゃない。――迷ってる目だ。
それから、ゆっくり頷いて、爪で木片を引っかいた。
ギ…ギ…と、弱い音。
木は削れる。紙みたいに消えない。
出来上がったのは、下手な線。
でも線は線だった。
――欠けた月。
ミリアが息を止めた。
「……同じ印を、見たのね」
子どもは小さく頷いた。
そして、もう一つ。臼みたいな丸を描いて、真ん中に黒い点を落とす。
臼。黒い粉。
それから、指で自分の手首を押さえた。
手首には黒ずんだ輪の跡があった。
輪、というより“締め付け”の痕。
俺は思わず、木片の端でその痕に触れた。
――じわり。
黒ずみが、ほんの少しだけ薄くなる。
ミリアが目を細めた。
「木……効く」
俺は頷いた。
「木は、黒に嫌われる」
子どもは、少しだけ息を吐いた。
吐いた息が、ちゃんと震えていた。
震えがある。
震えてるなら、まだ戻れる。
◇
医務室を出るとき、ガレスがシルヴァに言った。
「監察の紙に、あの印が混じるのはまずい。
城塞でも調べる。……ただ、動きすぎるな」
「動かないと、消される」
シルヴァが返す。
ガレスは口を引き結んで、視線だけで頷いた。
外に出ると、焼却場の方角に薄い煙が上がっていた。
今日は昼なのに、煙が黒い。
紙じゃないものが燃えている色だ。
ミリアが呟いた。
「……整える速度が上がってる」
アメリアが小剣の柄を軽く叩く。
「じゃあ、こっちも上げる。
扉の向こう、まだ残ってるんだよね」
俺は、医務室の窓を一度だけ見上げた。
木片に刻まれた欠けた月。
小さな線だけど、消えない線。
あの臼の音を止めるには、次は“奪った鍵”だけじゃ足りない。
城塞の線。ギルドの線。街の声の線。
線を増やすたび、向こうはもっと乱暴になる。
乱暴になれば、見えるものも増える。
――その前に、消されるものも増える。
だから、早く。
でも、派手にやらない。
そんな面倒なやり方が、今は一番正しい気がした。




