第88話 鉄の印と、臼の部屋
「夜まで待てない」
ヴァルターの厨房で、シルヴァがそう言った。
いつもみたいに落ち着いた声――じゃない。抑えてるだけの声だ。
「入れ替えた印は、今日の“次の段取り”で使われる。石に気づいたら、扉は二重に閉じる。
閉じた扉は、鍵が揃っても開かない。……だから今夜、先に中を割る」
ミリアが頷いた。口元が硬い。
「“先に”ってことは、出入りが増える前に……」
「そうだ。中の“手”が疲れてる時間帯は、向こうも荒くなる」
荒くなる。
その言葉が、今日は救いに聞こえてしまうのが嫌だった。
アメリアが、椅子の背に腕を引っかけて言った。
「で、私の武器は? 細い通路なら、引っかけ棒は邪魔だよね」
今日は手鉤じゃなかった。
彼女の腰には、伸縮式の金属棍が一本。握ると、軽い音もなく伸びるやつ。
「叩くのは得意。壊すのはもっと得意」
「壊さないでください。」
ミリアが即答すると、アメリアは肩をすくめた。
「はいはい。通す。折らない。曲げない。……難しい注文だね」
ロウは、すでに縄を短く結び直していた。
余分な布を落として、狭い場所用の“短い線”にする手つき。
ユリシアは、入口の壁にもたれて眠そうに目を伏せている。
けれど、息の乱れがない。起きてる。
「外は私が音を殺す。中はお前たちで黙れ。――以上」
それだけ言うと、彼女は先に出ていった。
◇
袋小路の行き止まりは、昼の顔に戻っていた。
木箱。壁。行き止まり。
でも、もう“ただの壁”には見えない。
ユリシアが金属片を置く。
今度は叩かない。指で滑らせて位置を決めるだけ。
「サイレント・サークル」
耳の奥の膜が、ふっと厚くなる。
遠くの物音が、輪郭を失っていく。代わりに、足元の砂利が妙に鮮明だ。
シルヴァが顎をしゃくった。
「行け」
外の見張りはバルド――“外側まで”。
規定を盾にして、ここで目を光らせる役だ。
俺たちは木箱をずらし、輪を出して、鍵を差し込む。
がちゃり。
冷たい空気が、下から押し上げてきた。
湿った石の匂いに、灰の粉っぽさが絡む。
◇
地下の一つ目の空間は、前に見たままだった。
灰袋の山。道具。臼。黒い粉の箱。
変わったのは――気配の密度だ。
(増えてる)
粉が舞った痕跡が新しい。
人の出入りが増えたときの、足の動線の匂いがする。
ロウが床を指でなぞる。
「裸足の跡、増えてる」
ミリアが小さく息を吐いた。
「急かしてる……」
俺たちは二つ目の通路へ向かった。
十歩、じゃない。もう戻る前提で、必要な分だけ。
角を曲がると、例の扉がある。
鉄で補強された古い扉。鍵穴が一つ、押し当てる面が一つ。
俺は黒鍵を差し込んだ。回す。
次に、布に包んだ本物の印具を取り出す。
欠けた月の金属。冷たいのに、指にまとわりつく黒の癖。
「ミリア、灯り」
「最小で」
彼女の杖先が、淡く光る。
明るくしない。影を増やさないための光。
俺は印具を、扉の“面”に押し当てた。
……沈む。
押し返してこない。
代わりに、扉の内側で何かが“外れる”音がした。小さく、確かに。
ロウが囁く。
「開く」
扉が、わずかにずれた。
◇
隙間から流れてきた空気は、灰より重かった。
粉っぽい。
苦い。
歯の隙間にまとわりつくような、黒い粉の匂い。
そして、薬草。
安い軟膏の匂いが、ここでは隠しようもなく濃い。
扉を開けると、狭い部屋だった。
石の臼が並んでいる。小さな臼。小さな杵。
その前に、子どもがいた。
数はすぐに数えられない。
みんな顔に粉がついていて、目だけが異様に白く見えた。
臼を回す音は小さい。
でも止まらない。止めると怒られる種類の音だ。
部屋の隅には、監督役らしい男が一人。
フードじゃない。顔は見える。目が乾いてる。
男の指先が、黒い。煤じゃない。染みた黒だ。
「……何だ」
男が言った。声は大きくない。
大きくなくても、部屋の中には刺さる。
子どもたちが一斉に肩をすくめた。
それだけで、この部屋の支配が分かる。
アメリアが、金属棍を半分だけ伸ばした。
音を立てない長さ。
「通るよ」
いつもの軽さで言って、軽さがない。
男の手が動いた。
黒い糸が、床から伸びる。
糸というより、湿った線が“生えてくる”感じだ。
狙いは俺たちじゃない。
臼を回してる子どもたちの――喉。
声が出る前に、出せなくする動き。
「ライト・ピン!」
ミリアが、床へ釘を打つ。
光の釘が二本、三本。糸の進路を縫う。
でも黒は薄くなって、釘の“間”をすり抜けようとする。
ロウが縄を投げた。糸に絡めるんじゃない。
糸が伸びる“根元”へ、短く叩きつける。
黒が一瞬だけよれる。
その一瞬で、アメリアの棍が走った。
叩かない。潰さない。
線を“弾く”だけ。
黒い糸が、壁に当たって散る。散った粉が、床に落ちる。
男が舌打ちした。
「……Fが、何しに来た」
「掃除」
アメリアが言う。冗談じゃない声で。
男の黒い糸が、今度はこっちへ伸びた。
空気を裂くみたいに速い。
カイが身を引くのが遅れた。
糸が、腕をかすめる。
「ッ……!」
痛みの声じゃない。
熱にやられた声だ。
皮膚が赤くなる。
ノーラのときの火傷に近い。
ミリアの顔が一瞬だけ歪む。
俺は袋を開けた。石灰じゃない。削り屑。
木の粉を、糸の進路へ叩きつける。
黒が縮む。嫌がるみたいに、細くなる。
芯が見えた。
(そこ)
短剣の柄で、芯だけを押し潰す。
糸が、汚れに戻って落ちた。
男の目がわずかに動いた。
“今の手順”を見てしまった目だ。
「……なるほど」
男は後ろへ退く。退き方が慣れている。
部屋の奥の石壁――小さな扉の方へ。
追えば、深いところへ誘導される。
今はそれをする日じゃない。
シルヴァが低く言った。
「子どもを出す。最短で」
◇
子どもたちは動かない。動けない、じゃない。動かない。
慣らされている。
動いた瞬間に何が来るか、知ってる目をしている。
ミリアがしゃがんで、いちばん近い子に、できるだけ柔らかい声で言った。
「大丈夫。今から出る。……痛いところ、ある?」
返事がない。
でも、子の指先が小さく震えた。
震えが向いたのは、臼じゃなく――手首。
黒い粉と汗で、輪の跡みたいな黒ずみがある。
締め付けられた痕。
(……輪じゃない。でも似てる)
同じ系統の“持ち運び方”だ。
俺は息を吸って、薬草の匂いが濃い方を見る。
部屋の端。座らされている子が一人。
臼を回していない。
回せないくらい、弱っている。
「……この子」
俺が言うと、ミリアが頷いた。迷いがない。
「連れて出る。……全員は無理でも、まず一人」
それが現実だ。
でも現実にしないと、誰も出せない。
アメリアが、金属棍を床に置いた。
そして自分の外套を脱いで、子どもに掛ける。
「顔、見えない方がいい。煙の上じゃなくても」
抱き上げる。軽い。軽すぎる。
抱き上げた瞬間、子どもの手がアメリアの袖を掴んだ。
声は出ない。
でも掴む力は残っている。
ロウが部屋の入口へ向き直った。
「戻る。今」
男の気配が、奥で動いた。
呼びに行く動き。段取りを回す動き。
ここで長居したら、“綺麗に処理される”側に回る。
◇
扉を閉めるとき、俺は一度だけ振り返った。
臼を回していた子どもたちが、こちらを見ていた。
目だけが白い。粉の中で、目だけが残る。
その足元を、小さな影が横切った気がした。
犬の形。
でも確かめる余裕はない。
地上へ戻る階段の途中で、ユリシアの結界の“厚み”がまた耳に触れた。
外の世界の音が、遠い。
バルドが入口の影で待っていた。
俺たちの抱えているものを見て、目が一瞬だけ大きくなる。
「……マジかよ」
「声を出すな」
シルヴァが低く言うと、バルドは唇を噛んで頷いた。
Cの癖に、こういうとき妙に素直だ。
ヴァルターの厨房に戻ると、火の匂いがやけに強く感じた。
ミリアがすぐに薬草を探す。
カイは腕を押さえながら、笑おうとして失敗した顔をする。
「……熱い。けど、腕があるだけマシだな」
その軽口が、今日はちゃんと場を保った。
アメリアが外套の中の子どもに言う。
「大丈夫。ここは飯がある。……飯がある場所は、簡単には消えない」
子どもは小さく息を吸った。
それだけで、部屋の空気が少し戻る。
シルヴァが、机に本物の印具を置いた。
「中は見た。外へ出した。
これで“無いこと”にはできない」
ミリアが静かに言った。
「……でも、まだ残ってる」
俺は頷いた。
あの部屋の臼の音が、耳の奥に残っている。
止めたかった音だ。
止めるには――次はもっと大きい線が要る。
その線を、紙で潰されない形で作らないといけない。




