第87話 煙の裏口と、欠けた月の印
昼の焼却場は、夜より質が悪い。
明るいのに見えない。
煙が白くて、輪郭だけ溶かしていく。人の顔も、文字も、気配も――「だいたい」で揃えてしまう。
俺たちは、焼却場の裏手の路地にいた。
炉の熱が壁を温めて、石がぬるい。鼻じゃなく、肌で匂いが分かる距離だ。
ユリシアが、路地の入口に薄い金属片を三枚置いた。
いつもの手つき。迷いがない。
「サイレント・サークル」
光は出ない。
ただ、空気が“つまる”。
遠い音が薄くなって、代わりに自分の心臓がうるさくなる。
ミリアが小さく息を飲み、すぐに飲み直した。
自分の呼吸を管理できるやつは、強い。
ロウは壁際。
カイは路地の奥で、煤だらけの布袋を抱えて、完全に「作業員の顔」をしてる。
アメリアは、背中だけ見せて立っていた。
通りがかりに見たら「ただの女」。なのに近づくと、近づけないやつ。
そして俺は――煙が濃い方を、じっと見ていた。
来る。
運び屋の足音じゃない。
革靴が石を踏む音。紙束の擦れる音。香油の薄い匂い。
焼却場の扉が開いて、二人が出てくる。
一人は監察の下働き。布袋を二つ。灰袋だ。
もう一人は、箱を持っている。
小さな箱。黒い漆の表面が、煙で鈍く光る。
持ち方が丁寧すぎる。――中身が「割れると困る」か、「無くすと困る」か。
(印だ)
カイが、路地の奥でひとつだけ頷いた。
打ち合わせどおり。
箱を持つ男は、焼却場の裏へ回り、路地の入口で一度だけ足を止めた。
サイレント・サークルの境界に触れたからだ。音が変わるのを、身体が先に拾う。
けれど男は首を傾げただけで、通り過ぎた。
気づかない。
気づけないように、ユリシアが張っている。
路地に入った瞬間、煙が薄くなる。
代わりに匂いが濃くなる。
灰の乾いた焦げ。
湿った墨。
香油。
そして――薄い薬草。
薬草は「傷の手当て」の匂いだ。
子どもに塗る、安い軟膏の匂い。
喉の奥が、きしむ。
男が歩き、路地のいちばん奥――壁際の影に立つ別の人影へ箱を差し出した。
影の男はフードをかぶっている。顔が見えない。
でも手だけは見えた。
指先が黒い。煤じゃない。
粉が染みついた黒だ。
「遅い」
影の男が言った。声が低い。平たい。
「灰の袋が増えた」
「言い訳はいらない。印を寄越せ」
箱を持つ男が、鍵を回す。
蓋が開く。
中にあったのは、指輪じゃなかった。
掌に収まる、薄い金属の印具。
欠けた月の紋。縁の欠けが、わざと残されている。
あれが、扉を開ける“押しつけるもの”。
影の男が、印具を掴もうとした瞬間――
アメリアの手鉤が滑った。
音がない。
でも影の男の動きが一瞬止まる。
手鉤は手首を狙っていない。
印具の“紐”だ。
印具は箱の中で浮き、影の男の指が空を掴む。
その「空白」に、ロウの縄が入った。
縄が印具の紐に絡む。
引くんじゃない。――ずらす。
印具が、箱の縁へ寄る。
同時に、カイが路地の奥で煤袋を落とした。
どさっ、と鈍い音。
サイレント・サークルの中だから、外へは漏れない。
でも目の前には響く。
箱を持つ男が反射で顔を向けた。
「何――」
声を出しかけた瞬間、ミリアが床に釘を打った。
「ライト・ピン!」
光の釘が、男の足元に刺さる。
逃げ道を縫う。足を止める。
影の男が、遅れてこちらを見た。
……視線が鋭い。
獲物じゃなく、手順を見てくる目。
「やるな」
影の男が言い、手を上げた。
黒い糸が、指先から滲むみたいに伸びる。
狙いは縄でも釘でもない。
――箱。
箱ごと「整える」気だ。
中身が見えない形にする。
「くそっ……!」
カイが石灰を投げた。
白が糸に当たり、糸が一拍だけ鈍る。
その一拍で、俺が動いた。
剣は抜かない。
短剣も抜かない。
箱の縁に指を入れて、印具を――取らない。
取ったら“無くなった”が主語になる。
代わりに、入れ替える。
懐から、石の印を出した。
冷たい石。欠けた月。黒い粉と削り屑を薄く擦った面。
箱の中へ押し込み、同時に本物の印具を掌に落とす。
落とす瞬間、印具が指に粘った。
汗じゃない粘り。墨の粘りだ。
でも木の粉を混ぜた面を触らせたせいか、粘りは短い。
嫌がるみたいに、すぐに引いた。
(……よし)
箱を持つ男が、視線を戻す前に、俺は蓋を閉めた。
ロウの縄がすっと外れる。まるで最初から絡んでいなかったみたいに。
影の男の黒い糸が、箱の表面を撫でた。
撫でた、だけで終わる。
中身が石に変わったのを、触感が誤魔化す。
影の男は舌打ちもしない。
ただ、ほんの一瞬だけ首を傾げた。
その一瞬で、アメリアが半歩だけ位置を変えた。
――影の男の視界から、俺たちの“線”が消える角度。
影の男の視線が宙を滑る。
滑った先には、煙と壁しかない。
「……行け」
影の男が、箱を持つ男に言った。
箱を持つ男は何が起きたか分からない顔で、でも命令に従って箱を抱え直し、焼却場へ戻っていった。
影の男は、印具を受け取ったつもりで頷き、灰袋を担いだ下働きに顎をしゃくる。
「地下へ」
灰袋が動き出す。
“問題ない形”。
その形のまま、今日の段取りが続いていく。
――石の印で。
◇
影の男が路地から出ていく瞬間、黒い糸が一筋だけこちらへ伸びた。
狙いは喉じゃない。目でもない。
俺の掌――奪った本物の印具。
触れたら“印”が向こうのものになる。
俺は息を吐いて、掌を裏返した。
印具を落とす――のは最悪。
落ちたら拾われる。主語になる。
だから、ずらす。
短剣の柄で、印具を掌の奥へ押し込む。
糸の先を外す角度に。
糸が外れた瞬間、ミリアの釘が一本増えた。
「ライト・ピン!」
光が床を縫って、糸の“戻り道”を塞ぐ。
糸は薄くなり、痩せて、霧みたいに消えた。
影の男は振り返らない。
振り返らないのが、いちばん怖い。
アメリアが小さく言った。
「今の、見えてたよね」
「見えてる」
ユリシアが路地の入口で淡々と言った。
「でも、追わない。追うと音が出る」
サイレント・サークルは、まだ生きている。
静けさが、逃げ道になっている。
◇
路地を抜け、倉庫街の影に混ざったところで、カイがやっと息を吐いた。
「……入れ替え、成功?」
俺は掌を開き、布に包んだ本物の印具を見せた。
欠けた月。
金属の冷たさ。黒い粉の匂い。――そして薬草。
ミリアが目を細める。
「これ、ずっと子どもが触ってた匂いがする」
俺は頷いた。
「手当ての匂いが付いてる。……作業で擦れた手の匂いも」
ロウが短く言った。
「“手”だ」
ユリシアが一度だけこちらを見た。
「助けるなら、早い方がいい。
段取りが崩れる前に」
その言い方は優しさじゃない。
時間の読みだ。上の人間の読み。
アメリアが手鉤を肩に担ぎ直した。
「じゃあ、夜。扉、開ける?」
ミリアが頷く。
「開ける。……鍵と印が揃った」
俺は布の上から印具を握った。
冷たさが掌に残る。
焼却場の煙は、今日も上がっている。
でも今日は、煙の下で“本物”をひとつ奪った。
紙じゃなく、石でもなく、金属の印。
それが扉を開ける。
扉の向こうの息を、止めるために。




