第86話 サイレント・サークルと、石の印
ヴァルターの厨房で夜を越すと、朝の匂いが少し違う。
火は同じ火でも、湯気に混ざるのが「昨日の疲れ」じゃなく「今日の段取り」になる。
それだけで、人は勝手に動ける気がする。
机の上には二つ。
黒鍵。布に包まれた、冷たい金属。
それと、蝋の小片。欠けた月みたいな凹みが残ったやつ。
カイが蝋を指先で持ち上げて、光に透かした。
「……これ、綺麗に残ってる」
「残ってるから狙われる」
ミリアが淡々と言う。声は落ち着いてるのに、目はずっと硬い。
シルヴァは椅子に座ったまま、短く指示した。
「今日は“印”を作る。紙にしない印だ。
扉は二枚。外は鍵で開く。内は……形と、何かが要る」
何か。
俺の鼻は、もうそれが分かってしまっている。
黒い粉の匂いが、ただの煤じゃないこと。
アメリアが手鉤を肩に担いだ。
「形は蝋。何かは黒。ってこと?」
「雑にまとめるな」
ミリアが刺すと、アメリアは肩をすくめた。
「雑な方が速い。……でも今日は丁寧にやる。丁寧にやらないと、紙にされるんだよね」
そう言って、笑わないまま外へ出る。
ヴァルターが鍋をかき混ぜながら言った。
「石工のとこへ行くなら、昼前がいい。
夕方は職人が帰る。帰り道で噂が増える」
「噂も主語になる」
ロウが頷く。
シルヴァが立ち上がった。
「俺は別線で動く。バルドは“外側”で周辺を見る。
ユリシアを一度だけ借りる。……派手な魔法は要らん。音を落とすだけだ」
ミリアが少しだけ目を上げた。
「ユリシアさん……来るんですか」
「来る。来させた」
シルヴァの言い方は、いつも通り淡々としていたが、今日は少しだけ短かった。
余裕がない。
余裕がないときほど、向こうの字は綺麗になる。
嫌な街だ。
◇
石工の区画は川沿いの冷たい風が通る。
石粉の匂いは、紙よりずっと正直だ。隠そうとしても隠れない。
俺たちが工房に入ると、あの年配の石工が顔を上げた。
「またかい。今度は何を刻む。……名前か?」
「形です」
カイが蝋を見せた。
石工は無言で受け取り、凹みを指でなぞってから、鼻で息をした。
「印章の写しだな。家紋か? それとも面倒なやつか?」
「面倒なやつです」
ミリアが即答すると、石工は笑わなかった。
「面倒は手間が金になる。……だが、手間が命にもなる。
今日は誰が見張りだ」
返事の代わりに、工房の入口に影が落ちた。
黒い外套の女――ユリシアが、眠そうな目で入ってくる。
「……音、落とす」
それだけ言って、床に薄い金属片を三枚置いた。紙じゃない。
指で軽く叩いて位置を決め、短く唱える。
「サイレント・サークル」
光は派手じゃない。
ただ、空気の厚みが変わった。
遠くの槌の音が、急に“壁の向こう”へ押しやられる。
代わりに、呼吸と石粉の擦れる音が妙に大きい。
ミリアが、ほとんど無意識に息を浅くした。
「……すごい」
ユリシアは視線も寄こさず、ぼそっと言った。
「すごくない。うるさいのが嫌いなだけ」
石工がタガネを握り直す。
「よし。なら刻む。……どの石にする」
ロウが小さな石札を二つ差し出した。
前に作った“ただの石の札”より少し厚い。叩いても割れにくい厚み。
「これに“型”を写す。凹みじゃなく、押しつける面に」
「つまり、逆彫りだ」
石工が頷き、蝋の凹みをもう一度見た。
「欠けた月……いや、欠けをわざと残してる。
綺麗にしないのが、綺麗な印だな」
カイが小さく言った。
「……欠けてる方が“本物”っぽいって、最悪だよな」
ミリアが返す。
「整えるやつほど、欠けを作るのが上手いのよ」
石工のタガネが、石に触れた。
カン。
音が小さい。
サイレント・サークルの中だと、音は消えない。ただ“外へ行かない”。
残るのは、この場の現実だけだ。
石に傷が増える。
紙みたいに薄れない、残る傷。
◇
工房の外で、足音が止まった。
俺の鼻に、薄い香油が触れる。
見なくても分かる。監察の匂いだ。
それが近いのに、サイレント・サークルの内側は静かすぎて、逆に怖い。
アメリアが入口の影に立つ。
立っているのに、壁の模様みたいに見える。
ロウが口だけ動かした。
「……来る?」
俺は小さく頷く。
香油の匂いが、工房の戸口で一度止まり――通り過ぎた。
息が落ちる。
石工がタガネを止めずに言った。
「結界があると、余計に目立つんじゃないかと思ったが……逆だな。
“音がしない”と、歩く方が勝手に遠慮する」
「遠慮じゃない」
ミリアが言う。
「気づいてないだけ。……気づかれたら終わり」
ユリシアがぼそっと追加する。
「気づかせないのも仕事。音は餌になる」
ミリアが小さく唇を噛んだ。
自分の魔法が“戦う道具”だけじゃないことを、今見せつけられている顔だった。
◇
石工の手は、正確だった。
欠けた月の“欠け”を、わざと残す。
線を揃えすぎない。
でも、押した瞬間に「同じ」と分かるだけの角度は揃える。
最後に、石工が細い刃で縁を整えた。
「できた」
差し出された石の印は、小さいのに重かった。
重いのがありがたい。運べば運ぶほど残る。
カイが蝋の小片に、石印をそっと押し当てた。
ぎゅ、と押す。
剥がすと――欠けた月が、同じ欠け方でそこに残った。
「……合ってる」
カイが息を吐いた。
ミリアが石印を受け取り、指で縁をなぞる。
「形はこれでいい。……問題は“何か”よね」
俺は石印を鼻の近くに持っていった。
石の匂い。石工の粉。
当然、黒い粉の匂いはしない。
これをそのまま押しても、扉は“形”しか認めないかもしれない。
形だけなら、閉じたままでも「封鎖完了」のままにできる。
だから、向こうは形を許す。
許して、閉める。
「……黒い粉、少しだけ塗る」
俺が言うと、ミリアが頷いた。
「塗る、じゃなく“混ぜる”ね。
触れたら噛まれる可能性があるから、木を噛ませてから」
ロウが、布包みから黒い粉の欠片をほんの少しだけ出した。
それに削り屑をひとつまみ落とす。
黒が、嫌がるみたいに微かに動く。
生き物じゃないのに、そう見えるのが一番嫌だ。
ミリアが石印の面に、その混ぜ物を薄く擦りつけた。
「これで“匂い”は乗る」
ユリシアが一度だけミリアを見た。
「……雑にやるな。
雑にやると、向こうが喜ぶ」
「分かってます」
ミリアの返事は、珍しく素直だった。
サイレント・サークルがほどける。
外の音が戻ってきて、工房の空気が急に薄く感じた。
◇
帰り道、バルドが角の陰から出てきた。
「……終わったか」
悪態っぽい声。
でも目はちゃんと周りを見ている。
「巡回、二回通った。監察の匂いが薄い。
気づいてないんじゃなく、急いでるんだろ」
「急いでる」
俺が言うと、バルドが眉をひそめた。
「なんで分かる」
「匂いが雑」
俺が答えると、バルドは一瞬だけ黙って、舌打ちした。
「……便利な鼻だな。腹立つくらい」
腹立つ、が褒め言葉になってるのが、この人の分かりやすいところだ。
アメリアが手鉤を回しながら言った。
「ねえ、バルド。今日も“外側”だけ?」
「規定は守る。……が、角は見る」
バルドが同じ言い方をして、すぐ自分で嫌そうな顔をした。
「うつるなよ。言い回しが」
「うつるよ。近くにいるから」
アメリアが平然と言い、バルドがもう一度舌打ちした。
◇
ヴァルターの厨房に戻ると、運び屋がまだ隅に座っていた。
黙っている。
でも黙り方が、さっきより固い。
俺が鼻で息をすると、空気の端に黒い湿った匂いが残っている。
ほんの少し。消えかけ。――だからこそ危ない。
「……来たな」
ロウが低く言った。
ヴァルターがまな板を持ち上げた。
飯の道具なのに、構えが盾だ。
「厨房で喧嘩するなって言ったはずだ」
その瞬間、壁の隙間――排水の穴から、黒い糸がにゅるりと伸びた。
狙いは運び屋の喉。
声を出せなくするためじゃない。
“残さないため”だ。
「ライト・ピン!」
ミリアの光の釘が床に刺さり、糸の進路を縫う。
だが糸は薄くなって、釘の隙間を探る。
探って、喉へ――
ヴァルターのまな板が、そこに滑り込んだ。
受けるんじゃない。逃がす角度。
糸が板の縁に当たって、流れる。
「……っ!」
運び屋が息を呑んだ。その息が残ったのが、今は救いだった。
カイが石灰を叩きつけ、俺が削り屑を重ねる。
黒が縮む。核が見える。
短剣の柄で、押し潰す。
黒はただの汚れになって落ちた。
ヴァルターがまな板を下ろして言う。
「飯の場所で、飯の邪魔をするな」
運び屋が震えながら笑った。
「……お前ら、何なんだよ……」
「残す側」
ミリアが短く言った。
運び屋の顔が歪む。
そして、ぽつりと吐いた。
「……次は、印が要る。印が無いと開かない。
でも印を持ってるやつは――」
そこまで言って、口を閉じた。
閉じた理由は、怖さじゃない。
“名前を言うと整えられる”と知ってる目だった。
シルヴァが言う。
「名前は要らん。動線だ」
運び屋は唇を噛んで、やっと言った。
「……昼。焼却場の奥。
印を預ける時間がある。上が“綺麗な紙”を作る前に、下が印を受け取る」
昼。
焼却場。
紙の煙の場所に、印が来る。
俺は石の印を掌に乗せた。
重い。冷たい。黒い粉の匂いが薄く乗っている。
次にやることが、はっきりした。
扉を開ける前に――
扉を開ける「本物」を、ひとつだけ奪う。
そうしないと、形だけではまた“封鎖完了”にされる。
ミリアが、息を吐いて言った。
「……昼の焼却場。
今度は“見る”じゃなく、“拾う”じゃ足りないわね」
アメリアが手鉤を軽く回す。
「奪う?」
「奪う」
シルヴァが短く答えた。
俺の中で、あの甘い汗の匂いがまた濃くなる。
子どもたちは、まだ向こうの扉の向こうだ。
でも“印”は、今日、地上に出てくる。
地上なら――俺たちの線が届く。




