第84話 壁の向こうと、二つ目の鍵
夜更け、倉庫街は音の質が変わる。
昼の騒がしさが消える代わりに、縄が軋む音や、遠い戸締まりの音がやけに大きく聞こえる。
灯りはあるのに、人の気配が薄い。――そういう時間だ。
「鍵は?」
シルヴァが小声で言った。
俺は掌を開いて、銅の鍵を見せる。
煤みたいな黒い粉が、まだ溝に残っている。
アメリアがそれを覗き込み、面白くもなさそうに呟いた。
「汚い鍵。好きじゃない」
「好きじゃなくても使う」
ミリアが即答する。今日は刺がある。
ロウが角を指した。通りの反対側、灯りの切れ目。
「監察の巡回が来る。今は動くな」
俺たちは、木箱の影に身を寄せた。
息を殺すというより、空気に溶ける感じで。
通りを二人の騎士が歩いていく。鎧が擦れる音が遠ざかる。
その後ろに、香りだけが遅れて残った。
(……また)
鼻の奥に薄い油が引っかかる。
近くにいる。けれど姿が見えない匂いは、たいてい厄介だ。
シルヴァが短く言う。
「今だ」
◇
袋小路の行き止まりは、相変わらず“ただの壁”の顔をしていた。
木箱をずらす。鉄の輪。鍵穴。
昨日見た手順を、同じ順番で辿る。
鍵を差し込むとき、手が少しだけ重くなる気がした。
金属の重さじゃない。ここから先が“紙にならない場所”だと、体が理解してる重さ。
――がちゃり。
音は小さいのに、腹の底に響いた。
扉が開くと、冷たい湿気が顔に当たる。
下水の臭いに、石の青い匂いが混じる。
アメリアが手鉤を構えた。
「入る?」
「入る。ただし“深追い”はしない」
シルヴァが先に言った。
命令というより、確認だ。
ミリアが杖先に小さな光を灯す。強い光じゃない。
足元が見える程度の、控えめな灯り。
俺たちは階段を下りた。
◇
地下は、思ったより“生活”の匂いがした。
灰の乾いた匂い。濡れた縄。古い木箱。
それから、薄い薬草。――子どもに塗る軟膏みたいな匂いが、遠くで揺れている。
「……当たりね」
ミリアが吐息で言った。
階段を下り切った先は小さな空間で、壁際に灰袋が積まれていた。
紙を燃やした灰だけじゃない。黒い粉が混ざってる匂いがする。
ロウがしゃがみ込み、床を指でなぞった。
「足跡が多い。運び手だけじゃない」
俺も床を見る。泥の跡が小さい。
大人の足跡に混じって、軽い足の跡がある。
……靴の跡じゃない。
裸足に近い。
喉の奥が、嫌な形で乾いた。
アメリアが、壁の隅に立てかけられた道具を持ち上げた。
木の棒。布。小さな臼みたいな石。
「これで挽くんだ」
淡々と言ったのに、声だけ少し低い。
「挽いて、混ぜて……“字を揃える墨”にする」
シルヴァが奥を見た。
「音がしない。今は作業していない時間帯か」
「時間帯を選んでる」
ロウが言う。
「監察が上で紙を焼く時間と、運びが動く時間。……段取りが綺麗すぎる」
綺麗すぎる段取り。
紙の字と同じだ。
◇
通路は二つに分かれていた。
一つは灰袋の奥へ。
もう一つは、石の壁に沿って曲がり、さらに暗くなる。
俺の体は後者を選びたがっていた。
匂いが、そっちへ続いている。
けれどミリアが肩越しに言う。
「レオン、先に“帰り道”」
ロウが頷く。
「出口を確認してからだ」
正しい。
正しいのに、焦る。
シルヴァが短く指示した。
「十歩だけ。戻れなくなるところへは行くな」
十歩。
それなら、まだ線の内側だ。
俺たちは暗い方へ十歩進んだ。
曲がり角の先――石壁に、扉があった。
ただの木の扉じゃない。
鉄で補強された古い扉。鍵穴が二つ。
そして扉の表面に、何かが“書いて”ある。
紙じゃない。
塗り込めた黒い墨が、乾いたまま残っている。
ミリアが目を細めた。
「……文字?」
「文字というより、印だ」
シルヴァが小声で言う。
「“封鎖完了”の類を、石と鉄に書いている」
俺は息を吸った。
灰と薬草と湿気の奥に、子どもの汗みたいな甘さが濃くなる。
この扉の向こうだ。
ロウが扉の鍵穴を覗き込んだ。
「鍵穴が違う。俺たちの鍵は外側用だな」
「二つ目が要る」
ミリアが言う。声が尖らないように抑えている。
そのとき、扉の向こうから、微かな音がした。
――こつ。こつ。
石に何かを擦る音。臼の音に似ている。
息を呑む音も混じった。小さい。小さすぎる。
アメリアの指が、手鉤の柄をきゅっと握った。
「開ける?」
「今は開けない」
シルヴァが即答した。迷いがない。
「ここで扉を壊したら、戻る道ごと塞がれる。
それに……中で何が起きても、俺たちが“説明できない”」
説明できない、は“紙にされる”と同じ意味だ。
ミリアが悔しそうに唇を噛む。
「……でも、いる」
「いる。だから、鍵を作る」
シルヴァは扉の黒い印を見た。
「刻み方が雑だ。急いでる。……隠したいのは、扉じゃない。中身だ」
俺は扉の前にしゃがみ込んで、鍵穴の匂いを嗅いだ。
金属の匂い。油。煤。――そして、黒い粉。
昨日手に入れた鍵と同じ匂いが、ほんの少しだけ混じっている。
「……鍵、ここにもある」
「確信?」
ロウが聞く。
「ある匂いがする」
俺が言うと、アメリアが短く息を吐いた。
「あなたの鼻、便利」
「便利にされたくないときほど便利になる」
俺が言うと、ミリアが小さく笑いそうになって、やめた。
◇
戻るとき、ミリアが一度だけ足を止めた。
灰袋の山の横。壁際に小さな木箱があった。
蓋が半分開いていて、中に――黒い粉が入っている。
「持って帰る?」
カイが小声で言う。
シルヴァは首を振った。
「全部は危険だ。だが、欠片は要る。紙じゃない証拠として」
ロウが布を裂き、ほんの少しだけ粉を包んだ。
俺はその上に、削り屑をひとつまみ落とした。
黒が、嫌がるみたいにわずかに動く。
生き物じゃないのに、そう見える。
ミリアが目を細める。
「……木、効くわね」
「効く。だから、使う」
俺が言うと、シルヴァが頷いた。
「今夜はここまで。扉の位置、作業場、灰の搬入ルート。
全部、紙にせずに残す。――石で」
アメリアが通路の角を見た。
「犬、来ないね」
誰も返事をしなかった。
来ない方がいいのに、来ないと不安になる。そういう存在だ。
◇
地上へ戻った瞬間、空気が軽く感じた。
湿気が減っただけだ。
なのに、肺が広がる。
袋小路を元に戻し、木箱を寄せた。
行き止まりの顔に戻す。
最後に俺は、壁に掌を当てた。
冷たい石の向こうで、小さな臼の音がまだ続いている気がしたから。
扉は二つ。
外の扉の鍵は手に入れた。
中の扉の鍵は、まだ向こう側にある。
そしてその向こうに、戻ってこない子どもたちがいる。
ミリアが小さく言った。
「……明日から、動き方を変える」
「どう変える」
カイが聞くと、ミリアは答えた。
「“探す”んじゃなくて、“鍵を拾う”」
ロウが頷く。
「鍵は落ちる。急いでるなら、必ず落ちる」
アメリアが手鉤を肩に担ぐ。
「落としたら、私が拾う」
シルヴァは前を見たまま言った。
「拾った鍵で、次は扉を開ける。
扉の向こうを“見た”という事実を、紙にされない形で持ち帰る」
俺は無言で頷いた。
喉の奥に残った甘い匂いが、消えない。
消えないのは良い。――忘れない。
忘れなければ、紙にされても戻ってこれる。
戻るために、鍵が要る。




