第83話 灰袋の運び屋と、黒い鍵
朝の裏庭で、ノーラが「立つ」練習をしていた。
盾はまだ戻っていない。肩の固定具も外れていない。
それでも彼女は、足の裏だけで地面を掴むみたいに立っている。
「重心を上げるな。腰を落とせじゃない。――“抜け道”を作るな」
ヴァルターが言って、竹箒の柄を床に軽く当てた。
叩くというより、触れてズラす。厄介なズラし方。
ノーラの足が半歩だけ流れた。
そこで止まった。流れ切らずに戻した。
ほんの少しだけ、顔が変わる。
悔しさじゃなく、「分かったかもしれない」顔。
俺はそのまま通り過ぎた。
声をかけると、線が乱れる気がしたからだ。
乱れるのは、向こうが得意だ。
◇
「動いた」
昼前、袋小路の行き止まりでアメリアが言った。
木箱の隙間に差し込んだ小さな金具が、ほんの僅かにねじれている。
気づくのが難しい程度の違和感を、彼女は見逃さない。
「昨夜以外にも開いてる。……朝方かな」
ミリアが壁を見た。
ただの行き止まり。
でも俺の鼻は、もう騙されない。
古い石の湿気に混じって、燃えた紙の灰の匂い。
その奥に、あの甘い油と湿った墨の気配が、薄く残っている。
「運びが増えてる」
ロウが淡々と言った。
「頻度が上がると、雑になる」
「雑になったら、掴める」
カイが小声で言って、唇を噛む。
シルヴァは俺たちを一瞥した。
「今夜、もう一度ここを見る。
開ける理由はまだ作れていない。だが――“鍵”が手に入るなら話は変わる」
鍵。
扉を壊して入れば、主語を渡す。
正面から殴れば、向こうが紙で整える。
だから、鍵だ。
◇
夜。街の灯が落ち、倉庫街の影が伸びる頃。
袋小路の手前で、俺たちは息を殺して待った。
近すぎると匂いで気づかれる。遠すぎると見失う。
アメリアは不思議な位置に立った。
見えるのに、見えない場所。影の端っこだけを歩いてるみたいな立ち方。
「来るよ」
俺が言ったのは、足音より前だった。
布が擦れる、鈍い音。
灰袋を担ぐときの音は、軽いのに重い。
男が二人。昨日の下働きと同じ格好。
無言で木箱をずらし、鉄の輪を露出させる。
鍵穴に、何かが差し込まれた。
がちゃり。
壁が割れたみたいに、隙間が開く。
吐き出された空気が冷たい。下水の匂いが強い。
その瞬間――甘い汗の匂いが、一筋だけ混じった。
(下に、いる)
俺の喉の奥がざらついた。
ロウが、ほとんど音を立てずに手で合図する。
“今”。
捕まえるなら、扉の外だ。下へ逃げられたら終わる。
ミリアが杖を握り、カイが石灰袋の口を緩めた。
アメリアが、手鉤をくるりと回した。
音がしない。金属が擦れるはずなのに、空気だけが動く。
男が灰袋を一つ、地下へ下ろした瞬間だった。
アメリアの手鉤が伸びた。
引っかけたのは喉じゃない。足首でもない。
腰の革帯だ。
男の体が、意地悪な角度で引き戻される。
「――っ!」
声が出かける。出させない。
ロウの縄が、男の肘に絡んだ。
関節を折らない位置。けれど動けない位置。
もう一人が反射で振り向き、懐から小瓶を投げた。
床に落ちて割れる。
湿った匂いが広がり、黒い糸がにゅるりと走った。
狙いは俺じゃない。ミリアでもない。
――喉だ。声を封じる糸。
「ライト・ピン!」
ミリアが短く唱えた。
光の釘が石畳に刺さり、糸を縫い止める。
糸は止まる。止まったまま、薄くなって隙間を探る。
カイが石灰を叩きつけた。
白が黒を噛んで、糸が一瞬だけ鈍る。
その隙に、もう一人の男が扉へ飛び込もうとした。
俺の体が勝手に前へ出る。
短剣は抜かない。
抜けば金属音が響く。響けば人が集まる。
だから足。
男の踏み込み脚の膝裏を、踵で蹴る。
派手じゃない。倒すというより、落とす。
男の体が崩れたところへ、アメリアの手鉤が“首の手前”で止まった。
見せるだけ。刺さない。
「行きたいの、下?」
アメリアが笑わずに言った。
男は歯を食いしばった。
「……離せ」
「黙って。声、残るから」
アメリアの言い方は軽いのに、男の肩が震えた。
怖がってるのが分かる震え。
ミリアが追い釘を打つ。
「ライト・ピン!」
糸の逃げ道が塞がる。
黒が薄くなりながら、地面に貼りつくみたいに萎む。
ロウが男の手首を押さえた。
「鍵」
男の指が握っていたのは、小さな銅の鍵だった。
表面に黒い煤みたいなものが薄く付いている。
シルヴァが言った「鍵」が、こんな形で手に入るとは思わなかった。
もう一人は縄で縛られて、呻きながらこちらを睨んだ。
「……Fのくせに、目立ちたがりか」
声が出た瞬間、俺は少しだけ安心した。
喉が無事なら、まだ“消されてない”。
ミリアが冷たく返す。
「目立ちたいのはそっちでしょ。紙で整えて、煙で消して」
男は鼻で笑った。笑い方が乾いている。
「紙? 煙? そんなの、ただの段取りだろ」
「段取り?」
カイが聞き返すと、男は口の端を歪めた。
「上が書くために、下が混ぜる。
俺らは運ぶだけ。……灰も、墨も、手もな」
その言葉の最後だけ、ほんの少しだけ低くなった。
――手。
俺の喉の奥が、またざらつく。
「手って何」
ミリアが詰めると、男は黙った。
黙ったまま、扉の隙間を見た。
下に逃げたい目。
下で守られていると思っている目。
シルヴァが短く言った。
「十分だ」
その声には「これ以上しゃべらせるな」が混じっていた。
今ここで騒げば、監察が来る。
監察が来れば、男も鍵も“問題ない形”で回収される。
だから、ここで終える。
ロウが縄を締め直し、カイが割れた瓶の欠片を布で包んだ。
紙じゃない。石とガラスは残る。
俺は鍵を掌に乗せた。冷たい金属。
煤の奥に、湿った匂い。
そして――ほんの一瞬だけ、甘い汗が鍵から立った。
(……近い)
さっき感じた匂いと、同じ種類だ。
◇
帰り道は遠回りした。
ギルドへまっすぐ戻ると、見られる。
見られたら紙になる。
シルヴァは言った。
「今夜はギルドに連れていかない」
「どこへ?」
ミリアが問うと、シルヴァは一瞬だけ躊躇して、答えた。
「ヴァルターのところだ。
“飯の場所”は、記録より残る」
アメリアが肩をすくめる。
「引退盾の台所、便利だね」
「便利にするために、あいつは引退したわけじゃないだろうが」
シルヴァの声が少しだけ尖った。
それでも決めたなら、迷わない。
迷ったら、向こうの仕事が進む。
◇
ヴァルターの厨房は、夜でもあったかい匂いがした。
火の匂い。湯気の匂い。塩の匂い。
紙の匂いがしない。だから息がしやすい。
縛った男を隅に座らせると、ヴァルターが眉をひそめた。
「……面倒を持ち込むな」
「面倒じゃない。戻ってこない子が増える」
ミリアが言うと、ヴァルターは鼻で息をした。
「飯が不味くなる話だな」
そして、男に目を向ける。
「喋れ。喋らないなら、水だけ出す。飯は出さない」
脅しなのに妙に現実的で、男が一瞬だけ笑った。
笑って、すぐに顔を戻した。
アメリアが手鉤を机に置く。
音が、軽い。
「ねえ。下には誰がいるの。
子ども? それとも、ただの灰置き場?」
男は顔を背けた。
ミリアが息を吐く。
「……レオン」
呼ばれて、俺は頷いた。
俺は男の近くにしゃがみ、鍵を鼻の高さまで上げた。
鍵の匂いを、もう一度確かめる。
煤。湿った墨。甘い汗。
それと、薄い薬草の匂い――子どもに塗る軟膏みたいな匂いが、ほんの少し。
「……下、病人がいる」
言った瞬間、男の呼吸が変わった。
ロウが淡々と言う。
「反応した。嘘じゃない」
男が舌打ちした。
「……知らねえよ。俺は運びだ。
袋を落とすな、鍵をなくすな、それだけだ」
「袋の中身は?」
ミリアが詰める。
「灰。紙の灰。あと……黒い粉。混ぜて使う」
「何に」
男は黙る。
黙ったまま、厨房の火を見た。
ヴァルターが言った。
「火は好きか。燃えるのは早いぞ。紙も、人も」
男の喉が動いた。
「……字だよ」
絞り出すみたいな声だった。
「上が“字を揃える”ための墨。
……その墨を挽く手が、要る」
ミリアの目が細くなる。
「その“手”が、子ども?」
男は答えなかった。
答えないのが答えだった。
シルヴァが椅子の背を叩いた。
「鍵は残す。男も残す。
紙にしない場所で、紙にされない形で」
俺は掌の中で鍵を握り直した。
冷たいのに、汗の匂いが残る。
誰かの汗が、下の石の湿気の中に閉じ込められている匂いだ。
扉は、ただの扉じゃない。
下には、灰を運ぶ理由がある。
墨を作る理由がある。
そして――子どもを攫う理由が、もう輪郭だけ見えてしまった。
その輪郭が、嫌なほどはっきりしているのに。
俺は、まだ鍵を回していない。




