第82話 灰袋の行き先と、地下の鍵
夜中に目が覚めた。
夢じゃない。鼻の奥に残った、あの匂いのせいだ。
紙が燃えたあとの乾いた焦げ――その下に、湿った墨と、薄い油。
そして、一瞬だけ混じった子どもの汗みたいな甘さ。
消え方が、嫌だった。
風で飛ぶみたいに、ふっと。
朝、ギルドの裏でミリアにそれを話すと、彼女は眠そうな目のまま言った。
「……気のせいにしたら、次は“整えられる”」
そのまま二人でシルヴァのところへ行った。
◇
「夜に動く」
シルヴァは窓際で短く言った。
「焼却は昼に見せる仕事だ。だが灰は、夜に運ぶ。
監察の下働きが袋をまとめて持ち出す。――そこを追う」
ロウが確認する。
「袋を追って、どこへ」
「通常なら外の廃棄場だ。だが……“外”へ出るなら騎士団の記録が残る。
残るのが嫌なら、残らないところへ行く」
ミリアの目が細くなる。
「地下」
シルヴァは頷いた。
「お前の鼻と、ロウの目が要る」
俺は返事の代わりに息を吐いた。
それがもう答えになってると、最近知った。
「……あと一人、付ける」
シルヴァが扉の方へ視線をやる。
そこにいたのはアメリアだった。
いつもの軽さで立っているのに、空気だけは妙に強い。
今日の武器は、短い槍――というより、柄の長い手鉤みたいな形だった。
「街の中なら、私の仕事でしょ」
アメリアが肩をすくめる。
◇
その日の夕方、裏庭を通るとノーラがいた。
肩はまだ完全じゃない。固定具が残っている。
でも足の置き方だけは、昨日よりずっと静かだった。
ヴァルターが言う。
「目で追うな。足で感じろ」
ノーラは頷いて、俺たちに気づくと小さく手を上げた。
「夜、行くの?」
「行く」
俺が言うと、ノーラは一瞬だけ唇を噛んだ。
悔しい顔。だけど、逃げない顔。
「……私は、裏で“声”を拾う。
張り紙、もう貼れないし。母親たち、口に出すしかなくなる」
ミリアが言った。
「それ、危ないよ」
「分かってる。でも……声が残らないと、木に刻めない」
ノーラは息を整えた。
「私、盾がなくても“線”は作れるって、昨日教わった。
なら、今はそれをやる」
ヴァルターが鼻で息をした。
「行くな。走れないやつが現場に行くと、線が増える」
線が増える、は厄介の意味だ。
ノーラは悔しそうに頷いた。
悔しそうに頷けるのは、まだ折れてない証拠だと思った。
◇
夜。
倉庫街の灯が落ち、通りが細くなる。
人の匂いが減って、油と木と石の匂いが濃くなる。
焼却場の裏手――昼に荷車が入った門の影で、俺たちは待った。
ミリアは杖を抱えるように持ち、ロウは壁の陰に溶けている。
カイは石灰袋を腰に下げたまま、無駄に喋らない。偉い。
アメリアは、逆に雑に見える位置に立った。
雑に見えるのに、影の境界だけは踏まない。
「来た」
俺が言ったとき、すでに足音がしていた。
荷車じゃない。人が担いで運ぶ音。
布袋が擦れる、鈍い音。
男が二人。監察の下働きみたいな地味な服。
肩に灰袋を担いで、無言で歩く。
近づいた瞬間、鼻の奥がひやりとした。
灰の匂い。焦げた紙。
その下に、湿った墨と、薄い香油。
そして――やっぱり、甘い汗。
(いる)
誰かが袋の“先”にいる。
袋は煙じゃなく、道になってる。
俺たちは距離を取ってついた。
曲がる回数が多い。
道を覚えさせないための曲がり方だ。
ロウが、ほとんど音を立てずに手で合図する。
「右」「止まれ」「待て」
カイが一度だけ靴を鳴らしかけて、ミリアに肩を押されて止まった。
Fの限界はこういうところに出る。慎重でも、街の暗さは経験が要る。
――なのにアメリアは、歩いてないみたいに付いてくる。
影が勝手に移動してるみたいだ。
運び手の二人が、古い区画の袋小路へ入った。
行き止まり。壁。
普通なら終わり。
でも匂いが、壁の向こうへ続いている。
壁の前に積まれた木箱。
運び手の一人が木箱をずらすと、奥から古い鉄の輪が出た。
もう一人が鍵を差し込む。
――がちゃり。
壁じゃない。扉だった。
開いた隙間から、冷たい湿気が吐き出された。
下水の匂い。土の匂い。古い石の匂い。
その奥に――黒い石みたいな匂いが、一本。
ミリアが口元だけ動かす。
「……つながってる」
俺も同じことを思った。
霧紺の洞。街の地下。古井戸。
全部が一本の線になりかけてる匂い。
灰袋が、一つずつ地下へ降ろされていく。
運び手は迷わない。慣れている。
そして最後に、扉が閉まる。
木箱が戻される。
袋小路は、ただの行き止まりに戻った。
……戻ったのに、匂いだけが戻らない。
「ねえ」
アメリアが囁く。囁きなのに、声が妙に通る。
「ここ、私が壊そうか?」
ミリアが即答した。
「最悪の主語になるからダメ」
「だよね」
アメリアは楽しそうでもなく言った。
「じゃあ、残す」
そう言って、ポケットから小さな金具を出した。
針みたいな細い留め具。木箱の隙間に、するりと差し込む。
「これ、動かしたら分かる。……あとは、あなたの鼻が当てて」
俺は頷いた。
◇
帰り道、風向きが変わった。
香油の匂いが、薄く尾を引く。
その尾の先に、ほんの一瞬だけ――子どもの声の気配みたいなものが混じった。
耳じゃなく、皮膚が拾う感じ。
ミリアも気づいたのか、歩幅が僅かに縮む。
「……今、聞こえた?」
「“聞こえた気がした”」
俺がそう答えると、ロウが淡々と言った。
「確かめるなら、確かめる手順が要る」
「うん」
ミリアが頷く。
アメリアが肩をすくめる。
「手順ってやつ、面倒だね。
でも面倒な方が、残る。……今日の学び」
カイが苦笑した。
「ギルド最強が言うと説得力あるわ」
アメリアは返さない。
返さないまま、袋小路の方角を一度だけ見た。
目が笑ってない。
◇
ギルドに戻ると、シルヴァが待っていた。
俺たちは地図の上に、袋小路の位置を印で示した。
紙じゃない。石札の裏に、刻みを増やす形だ。
シルヴァがそれを見て、短く言った。
「……地下に灰を運ぶ。
つまり、焼却は“消す”ためじゃなく、“運ぶため”の工程だ」
ミリアが目を細める。
「灰にして、袋にして、地下へ。
紙を燃やしてるんじゃない。……道を作ってる」
ロウが言った。
「地下で何をしてるかは、まだ不明」
「不明でいい」
シルヴァは言い切った。
「不明でも、“場所”が分かった。
次は、そこに入る理由を作る。――正規の理由じゃない、残る理由をな」
窓の外で、風が鳴った。
あの袋小路の、壁の向こう。
湿った石の下で、誰かが今日も“書いている”気がした。
紙じゃない何かに。
人の声じゃない何かで。
俺は掌の中で、石札の角を触った。
硬い。痛い。残る。
残る形が増えるほど、向こうの動きは雑になる。
雑になったぶん、見える。
――そう信じないと、眠れなくなりそうだった。




