第81話 灰の匂いと、石の札
焼却場の煙は、朝になっても細く残っていた。
遠くから見れば、ただの生活の煙。
けれど鼻で嗅げば分かる。紙が燃えた匂いと、焦げたインクの匂い――その奥に、湿った墨と香油が混ざっている。
俺の布袋の中には、昨夜拾った灰と、削り屑がある。
小さすぎる証拠。弱すぎる証拠。
でも、紙じゃない。
◇
シルヴァの部屋は窓が少し開いていた。
風が入るせいで、部屋の中の紙の匂いが薄い。――それだけで助かる。
「焼却場の場所は押さえた。見張りも確認。監察の腕章もいた」
ロウが淡々と報告する。
ミリアが続けた。
「張り紙を燃やしてる。通達で“貼るな”って言いながら、回収して焼く。
……やりたいのは、紙じゃない。“探す声”を終わらせたい」
シルヴァは頷いた。
頷き方が、疲れている。
「分かっている。だが、正面から噛みつくな」
「噛みついたら、“騒いだF”が主語になる」
カイが吐き捨てる。
「そして紙で整えられる、ってやつ」
シルヴァは反論しなかった。
机の上に、俺は布袋を置いた。
口をほどいて、中身を少しだけ見せる。
黒い灰。木の削り屑。石灰の白。
「これ、残します。木に刻むだけじゃなく」
シルヴァは目を細めた。
「……石も欲しい」
俺が言うと、ミリアが頷く。
「木は削られる。燃やされる。
だから“削り屑”を残した。次は“石”よね」
シルヴァは短く息を吐いた。
「石板は城塞の管轄だ。だが、街の石工なら小さな札くらいは作れる。
記録じゃない顔で、ただの石の札としてな」
ただの石。
ただの札。
ただのものにしか、残らないことがある。
「それと――」
シルヴァの視線が、机の隅の木札の束に落ちる。
「“糸屋のリサ”の件だが」
ミリアが一瞬だけ眉を動かした。
受付のリサと同じ名前だからだ。
「別人だ。東区の糸屋の娘。八歳。……母親の声は、ノーラが拾った」
「ノーラが?」
俺が言うと、シルヴァは頷く。
「声で線を作ったそうだ。――ヴァルターの前でな」
カイが少しだけ笑いそうになって、やめた。
「ノーラ、やるじゃん」
「やるからこそ、折れる前に立ち方を変える必要がある」
シルヴァは淡々と言って、机を指で叩いた。
「石の札を作ってこい。刻むのは“失踪の一覧”じゃなくていい。
場所と日付。焼却場の位置。……紙の外側に残る形で」
「分かりました」
俺たちは部屋を出た。
◇
石工の区画は川沿いにあった。
叩く音が多い。
金属じゃない音。石が石を叩く音。乾いた粉の匂い。
木工の匂いとは違う、冷たい匂い。
「……こういう音、落ち着くな」
カイが小さく言った。
「整えられない音だから?」
ミリアが返すと、カイは肩をすくめた。
「そう。紙みたいに“綺麗にしすぎる”感じがない」
店先に出てきたのは、年配の石工だった。
白い髭。大きな手。目は細いのに、動きは速い。
「札かい」
石工は俺たちを見て、短く言った。
「重いもんは嫌われるぞ。紙の方が楽だ」
「楽なのが困るんです」
ミリアが言うと、石工は鼻で笑った。
「……なるほどな。面倒を買いに来た顔だ」
俺は袋から、丸い小石をいくつか出した。
川で拾える程度のやつ。重すぎない。
「これに、刻めますか」
「刻める」
石工は即答して、机に並べた。
「何を刻む」
「場所と日付」
ロウが淡々と言う。
「焼却場の位置。……それと、拾った灰がここで出たということ」
石工が目を細める。
「灰を札にするのか。変わった」
変わってるのは自覚がある。
でも変わらないと、消される。
石工がタガネを当てた。
カン、と乾いた音が鳴る。
石に傷がつく。
紙みたいに薄れない傷。
――そのとき、俺の鼻がぴり、と鳴った。
石粉の匂いの中に、湿った墨。
それと、薄い香油。
(来る)
「ミリア」
「分かってる」
ミリアが杖を握る。
ロウは縄を手に取った。カイは石灰袋を構える。
石工は、まだ気づいていない。
タガネを打つ手が止まらない。
次の瞬間、石工の足元の水桶が――ぬらりと光った。
黒いものが、桶の縁から這い上がる。
糸じゃない。虫みたいな塊。墨喰い。
墨喰いは最初、石に向かった。
刻みかけの文字へ。
だが石に触れた瞬間、動きが止まる。
嫌がるみたいに、薄くなる。
薄くなって、石の縁を避け――今度は石工の指へ跳ねた。
「っ!」
石工が短く息を呑んだ。
指先に黒が触れた瞬間、じゅ、と嫌な音がして皮膚が赤くなる。
「動くな!」
ロウが即座に縄を飛ばす。
縄が墨喰いを床へ叩きつけ、絡め取る。
墨喰いがじたばたと薄くなり、縄の隙間から抜けようとする。
「ライト・ピン!」
ミリアの光の釘が床に刺さる。
縄ごと縫い止める。
止まった。……止まっただけ。
薄くなった黒が、釘の隙間を探し始める。
そして狙いを変える。
石じゃない。
石工の口元――声。
(声を消す)
昨日と同じだ。線が嫌いだ。嫌いだから狙う。
「――っ!」
石工が声を出しかけた瞬間、黒が跳ねた。
俺は袋を開けた。
中身は石灰じゃない。削り屑だ。
木の粉を、黒に叩きつける。
黒が、びく、と縮んだ。
嫌がるみたいに、薄く引っ込む。
(効く)
木は噛めない。
木は整えられない。だから嫌う。
その一瞬で、核が見えた。
小さな黒い粒。
紙の繊維じゃなく、灰と混ざったみたいな硬い芯。
短剣は抜かない。
柄でいい。
こつん、と押し潰す。
黒が、ふっとただの汚れになった。
「……なんだ、今の」
石工が指を押さえながら言った。
驚きより先に、怒りが顔に出ている。
「墨だ」
ミリアが短く言う。
「紙だけじゃなく、人の声も消す。……石まで狙いに来た」
石工は指先の赤みを見て、舌打ちした。
「紙の時代に、石を刻む理由ができたわけだ」
そして、何事もなかったみたいにタガネを握り直す。
「続けるぞ。どこまで刻む」
ロウが言った。
「全部」
石工は笑わなかった。
ただ、カン、と音を鳴らし続けた。
◇
刻み終えた石札は、小さいのに重かった。
重いのがいい。
重いと運べない。運べないと勝手に動かせない。動かせないと整えにくい。
俺が石札を布に包んでいると、足元の影がすっと伸びた。
「……ワン」
小さな鳴き声。
黒い犬の影が、石工の床の隅に現れていた。
さっきの黒い汚れに鼻を寄せ、ひと舐め。
汚れが、吸い取られるみたいに薄くなる。
犬は俺たちを見ない。
石札も見ない。
ただ黒だけを回収して、影ごと消えた。
石工が、ぽつりと言った。
「……あれ、犬か?」
「見間違いです」
カイが即答した。
言い切り方が雑なのに、目だけ真剣だ。
ミリアが小さく息を吐く。
「見間違いってことにしないと、紙にされる」
俺は布を結び直した。
石札の重みが、掌に残る。
◇
ギルドへ戻る途中、遠くでまた煙が上がっているのが見えた。
焼却場だ。
昼前のはずなのに、早い。
俺の鼻の奥に、湿った墨と香油が刺さる。
そして――一瞬だけ、別の匂いが混じった。
汗。
子どもの汗に近い、薄い甘さ。
俺は足を止めた。
「レオン?」
ミリアが呼ぶ。
「……今」
言葉にする前に、匂いが風に切られて消えた。
残るのは、紙が燃える匂いだけ。
(気のせいか)
でも、気のせいにするには、近すぎた。
俺は歩き出す。
今は飛び込まない。主語を渡さない。
代わりに、残る形を増やす。
木札。削り屑。灰。
そして――石。
布の中の石札が、重く背中を押した。
紙が燃えても、名前を削っても、声を消そうとしても。
残る形が一つ増えた。




