第79話 盾のない線と、お盆の盾
夜が明けても、霧は薄く残っていた。
倉庫街の通りは、朝の配達で少しずつ動き出している。
木箱を積んだ荷車が軋み、縄が擦れ、犬が吠える。
俺たちはその中を、木札の箱を抱えて歩いた。
重い。けど、紙みたいに軽くないのが、今はありがたい。
「……監察官、全部持ってった」
カイが歩きながら、悔しそうに呟く。
「残ったのは削り屑だけ。ひどい話」
「ひどいけど、想定の範囲よ」
ミリアが淡々と言った。声は落ち着いているのに、目が冷えている。
「“残る形”を狙ったら、向こうは“残らない形”に寄せてくる。
昨日のは、その最初」
ロウが箱の取っ手を持ち替える。
「最初で、あの雑さか」
「雑になったぶん、見える」
俺は息を吸う。
木の匂い。削り粉。倉庫の油。
その奥に、香油が――まだ薄く残っている。
(近い)
昨日の男の匂いじゃない。
監察官の匂いでもない。
もっと「書く」匂いだ。
けれど、今は追えない。追わない。
追えば“騒ぎを起こすF”が主語になる。
そういう仕組みは、もう見た。
◇
ギルドに戻ると、裏口はいつもより慌ただしかった。
押収品の箱が増え、帳簿が増え、運搬が増えている。
増えているのに、どれも「安全」って顔をしているのが嫌だった。
シルヴァの部屋に通されると、彼はすでに立っていた。
窓を少し開けて、外の匂いを入れている。
「……戻ったか」
短い声。目が疲れている。
俺たちが木札の箱を机に置くと、シルヴァは指で蓋を押さえた。
「持っていかれなかった分、全部ここに」
ロウが言う。
「監察官は“対象”と言ったのに、箱は残した。理由は不明」
「不明でもいい。残ったなら、こちらが動く」
シルヴァは蓋を開け、木札の列を一枚だけ見た。
刻まれた名前。年齢。場所。
たった数行の刻みなのに、空気が重くなる。
「……増えたな」
ミリアが頷く。
「貼り紙が増えたぶん。消えたぶん」
シルヴァは息を吐いた。
「監察官には、“倉庫荒らしの確保”という報告だけが上がる。
黒い墨の件は、紙で整えられる」
カイが顔をしかめる。
「じゃあ、何も言わないの?」
「言う」
シルヴァは即答した。
「だが、言い方を選ぶ。
“正面から怒鳴る”のは、相手の仕事を助けるだけだ」
視線が木札に落ちる。
「だから、これを増やす」
俺は頷いた。
「木札を二重に」
「木だけじゃない。次は“石”も欲しい」
シルヴァは言った。
「石板は城塞の管轄だが……小さな石なら作れる。
街の石工に頼む。記録じゃなく、“ただの石の札”としてな」
ただの石。
ただの木。
ただのものにしか、残らないことがある。
「それと」
シルヴァが目を細める。
「今夜から、倉庫の夜番は“規定どおり”に戻る。
お前たちは別件だ」
「別件?」
ミリアが眉を上げる。
「治療所。――ノーラの様子を見てこい」
その言葉で、やっと胸の中の冷たい部分が別の形になった。
◇
治療所は、ギルドの奥の一角にある。
薬草と消毒の匂い。湿った布。汗。
そこは「戦いのあと」の匂いがする。
ノーラは椅子に座っていた。
肩はまだ固定されている。けれど昨日より顔色はいい。
盾は傍にない。代わりに、空の手が落ち着かない。
「……帰ってきた」
ノーラが俺たちを見るなり言った。声が少しだけ硬い。
「うん」
俺が答えると、ノーラは視線を箱に落とした。
「……それ、木札?」
「そう」
ミリアが短く言う。
「紙が消される。だから木に刻む」
ノーラは唇を噛んで、小さく頷いた。
「……私、行けなかった」
それは謝罪じゃなくて、悔しさの形だった。
「肩が固定されてるのに、勝手に立って、声出して……
“線”作ったつもりだったけど」
指先が膝を掴む。
落ち着かない手。
「結局、何も止められてない」
カイが言いかけて、止めた。
軽口じゃ足りない空気だと分かった顔。
ロウが淡々と言う。
「止めた。声で人を動かした。
あれがなかったら、もっと怪我人が出た」
「でも……盾がなかった」
ノーラはぽつりと呟く。
「盾があったら、私は止められたのにって、ずっと思ってる」
その言葉の裏に、別の言葉が隠れているのが分かった。
――盾があっても、止められなかったらどうしよう。
また割れたらどうしよう。
自分が“線”ごと折れたらどうしよう。
俺は息を吸って、吐いた。
「盾、修理は?」
ノーラが一瞬だけ顔を上げた。
「……今、工房に出してる。
でも、直っても……同じことになる気がする」
ミリアが目を細める。
「同じにしなければいい」
「分かってる。分かってるんだけど……」
ノーラは言葉を切った。
悔しさを顔に出さない癖が、今日は邪魔だった。
治療師が遠くで咳払いをして、ノーラに目配せした。
“無理するな”って合図。
ノーラは小さく手を上げて、やり過ごした。
「……私さ、引退って言葉、昨日初めて頭に浮かんだ」
その瞬間、空気が一段冷えた。
引退。
まだ若いのに、それを考えるほど怖かったってことだ。
ミリアが何か言いかけたけど、飲み込んだ。
正論は、今いちばん刺さる。
俺はただ言った。
「やめないで」
ノーラが目を瞬いた。
「……え」
「線が変わる」
俺が言うと、ノーラは苦笑しかけて、やめた。
「レオン、そういうとこ……」
言いかけて、言葉を止めた。
今日は、それを笑いにしない。
◇
治療所を出たときだった。
廊下の向こうで、声が上がった。
「だから、待てって言ってるだろ!」
「待ってられるか! 捜し人が増えてるんだぞ!」
男の声と、女の声。
そして、硬い足音。
ギルドの食堂――裏の休憩所の方だ。
ミリアが眉を寄せる。
「……揉めてる」
「見に行く」
ロウが言い、俺たちは足を向けた。
ノーラは一瞬迷って、椅子から立った。
「私も……行く。歩ける。走れないけど」
治療師が何か言おうとしたが、ノーラは先に頭を下げた。
「無理はしない。見るだけ」
その目は、少しだけ生きていた。
◇
食堂は、朝の仕込みで皿の音が響いていた。
そこで揉めていたのは、冒険者と、記録係っぽい男だった。
紙束を抱えて、顔が青い。
「だから規定が――」
「規定、規定って! 子どもが消えてんだぞ!」
冒険者が机を叩いた。
酒は入っていない。だから余計に危ない。
隣の席で、誰かが立ち上がった。
「やめろよ。ここは飯の場所だろ」
その声が届く前に、冒険者が手を払った。
机の上の木皿が飛ぶ。
皿だけじゃない。木の盆――お盆も、宙を舞った。
――当たれば怪我だ。
ノーラが反射で前へ出ようとして、肩が痛んで止まった。
「っ……!」
その一瞬。
厨房の端にいた、白髪混じりの男が動いた。
エプロン。腕は太い。
でも動きが軽い。
男は飛んできたお盆を、手のひらで受けた――ように見えて、違った。
受けるんじゃない。
“面”で受けて、“角度”で逃がした。
お盆がくるりと回り、床に落ちる。
音は小さい。誰も怪我しない落ち方。
男はそのまま、お盆を盾みたいに構えた。
盾じゃない。
でも、線ができた。
「……ここは飯の場所だ」
低い声。怒鳴らない。
なのに、空気が止まる。
冒険者が固まった。
「……なんだよ、じじい」
「じじいでいい。飯を作るじじいだ」
男はお盆を少しだけ傾けた。
「喧嘩は外。ここではやるな」
冒険者が唇を噛む。
でも足が動かない。
理由は分かる。
踏み込んだ瞬間に“止められる”距離と角度に立たされている。
ノーラが、息を呑む音がした。
「……盾じゃないのに」
その声は、悔しさじゃなくて驚きだった。
男がちらりとノーラを見る。
「肩、やったのか」
「……はい」
ノーラが小さく答える。
「盾は?」
「修理中です」
男はお盆を下ろして、鼻で息をした。
「修理で戻るのは形だけだ。
中身を変えないなら、また同じところで割れる」
ノーラの指先が止まった。
刺されたみたいな顔。
でも、逃げない顔。
「……中身って、どうやって」
男は言いかけて、止めた。
その瞬間、食堂の奥からシルヴァが現れた。
いつからいたのか分からない顔で。
「ヴァルター」
シルヴァが言った。
男――ヴァルターが軽く顎を引く。
「呼び戻したのはお前か」
「街が、少し危ない」
シルヴァの言い方は淡々としていたが、目は冗談を言っていない。
「引退した盾にまで声をかける程度にか」
ヴァルターはお盆をひとつ叩いて、笑いもしないで言った。
「……面倒な街になったな」
ノーラが一歩、前に出た。
肩が痛むはずなのに、足が勝手に出たみたいな動き。
「弟子にしてください」
食堂の空気が、また止まった。
ヴァルターが目を細める。
「何を言っている。俺は引退している。弟子は取らん」
「でも、今の……」
ノーラは言葉を探し、悔しそうに飲み込んだ。
「盾がなくても線が作れるって、初めて分かった。
……私、盾がないと何もできないって思ってた」
ヴァルターは一拍置いて、ノーラの肩の固定具を見る。
「その肩で言うか」
「言います」
ノーラの声は震えていた。
でも、逃げる震えじゃない。
ヴァルターはため息をついた。
「……明日、朝。裏庭」
「え」
「立ち方だけ見てやる。
それで嫌なら帰れ。……俺も面倒が減る」
ノーラの顔が、一瞬だけ明るくなった。
すぐに引き締めて、深く頭を下げる。
「お願いします!」
ヴァルターはお盆を厨房に戻しながら、ぼそっと言った。
「礼はいい。飯をちゃんと食え。
線は腹から作る」
ノーラが小さく笑った。痛みで顔をしかめながら。
ミリアが、俺の横で小さく息を吐いた。
「……良かったじゃない」
「うん」
◇
食堂を出ると、掲示板の前がざわついていた。
依頼札じゃない。
新しい通達の紙が貼られている。
――捜索に関する張り紙は混乱を招くため、以後禁止。
――情報提供は監察部門へ。
――違反した紙は撤去する。
綺麗な字。揃った行。丁寧な言い回し。
“問題ない形”。
ミリアの目が冷たくなる。
「……禁止?」
カイが唇を噛む。
「つまり、探すなってこと?」
ロウは紙を見ずに言った。
「紙を貼ると、主語が生まれる。
主語が生まれると、困る」
俺は息を吸った。
乾いたインク。
その奥に、湿った墨。香油。
(書いてる)
同じ匂いが、紙の上に乗っている。
俺は何も言わず、木札の箱に手を置いた。
木の角が掌に当たる。
痛い。
でもその痛さは、残る痛さだ。
紙が消えても、木は消えにくい。
木が削られても、削り屑は残る。
残る形を増やすしかない。
通達の紙が、風でふわりと揺れた。
その揺れの向こうで――一瞬だけ、倉庫の角の暗さみたいなものが見えた気がした。
犬の影かもしれない。
ただの見間違いかもしれない。
分からないまま、線だけが増える。
でも今日は、一つだけ増えた線がある。
盾じゃないお盆で作られた線。
ノーラが、そこに立とうとしている線。
俺は木札の箱を抱え直して、霧の残る通りへ出た。




