第78話 倉庫夜番と、削られる名
夕方、ギルドの廊下はいつもより静かだった。
表の酒場は賑やかなのに、奥へ行くほど人の声が消える。
紙の匂いが濃くなる。インクが古くなる。空気が固くなる。
呼ばれたのは、二階の奥――シルヴァの部屋だった。
「座れ。そんなにはかからん。」
シルヴァは椅子を指しただけで、用件を切り出した。
「今日、記録室の外で“紙が勝手に揃う”現象がもう一度出た。規模は小さい。だが……」
目が、机の上の革袋を見る。
昨日、木札の束を入れたやつだ。
「木札を作り始めたのを、向こうが嗅ぎつけた」
ミリアが眉を寄せる。
「嗅ぎつけたって、どうやって?」
「わからん。動きが早すぎる」
シルヴァは淡々と言った。
「今夜、倉庫街の保管庫に夜番を入れる。理由は一つだ。――木札を狙いにくる」
ロウが確認する。
「木札は、記録室の奥に置いたはずですが」
「奥の分は俺が預かった。だが、倉庫にも“写し”が残る」
シルヴァは視線を上げた。
「押収品の搬出表、失踪の一覧。どれも倉庫の現場で生まれる記録だ。
紙だけで回すと、紙だけで消える。……分かっただろ」
分かった。
紙が薄れるのは、偶然じゃない。
ミリアが口を開く。
「騎士団は?」
「動ける人間は限られている。城塞も忙しい。
それに、“規定”がある。倉庫の夜番は本来、FやEが回される」
言い方に棘はない。
ただ事実を置いただけだ。
カイが鼻で笑う。
「規定、便利だよな。いつも弱い方に仕事が落ちる」
シルヴァは反論しない。反論できない顔をした。
「……だから、今夜はお前たちに立ってもらう。
余計なことはするな。だが、見逃すな。残せ。木で」
俺は頷いた。
「はい」
その返事が正しいのか、賢いのかは分からない。
でも、目の前の線を守るなら、これしかない。
◇
倉庫街の保管庫は、夕暮れの霧に沈んでいた。
通りの灯が一本ずつ点いていく。
木箱の影が伸びる。縄が黒く見える。油の匂いが濃くなる。
「……夜番って、久しぶりだな」
カイが軽く言って、周りを見た。軽口の形で自分を落ち着かせている。
「久しぶりの割に、相手は寝てくれなさそうね」
ミリアが杖を持ち直す。
ロウは何も言わず、扉の鍵と窓の位置を確認していく。
逃げ道を潰す手つきだ。
俺は息を吸った。
木材。油。紙。金具。埃。
その中に、薄い香油。
(……来る)
来る匂いは、いつも“丁寧”だ。
丁寧すぎて、逆に浮く。
倉庫番の職員が現れた。例の目の下に隈の男。
今日はさらに疲れている。
「悪いな。こんな時間に」
「仕事でしょ」
ミリアが短く言うと、職員は苦笑した。
「……仕事だ。
で、こっちだ。中で見張れ。外は俺が見る」
職員が鍵を渡しかけて、手を止める。
「――あんたら、昨日、木札作ったんだってな」
ミリアが一瞬だけ睨みそうになり、飲み込んだ。
「誰から聞いたの」
「誰って……記録室だよ。アルヴィンがブツブツ言ってた」
職員は肩をすくめる。
「“俺が責任取らされる”って」
ロウが淡々と言った。
「責任の前に、消える方が困る」
「そうだな」
職員はそう言って、鍵を渡した。
「中の棚、右奥。紙束と、木札の写し。……それが狙いか?」
「たぶん」
俺が答えると、職員はうんざりした顔で息を吐いた。
「……子どもが消えてんだぞ。紙の心配してる場合かって、言いたくなるよな」
ミリアが即答する。
「紙の心配じゃない。
紙が消えると、子どもが消えたこと自体がなくなってしまう」
職員は黙った。
そして、黙ったまま扉を開けた。
◇
倉庫の中は、外より静かだった。
静かすぎて、音が目立つ。
靴底が板を踏む音。縄が擦れる音。呼吸。
棚の右奥。紙束と木札の箱がある。
俺は近づいて――足元で、微かな乾いた感触を踏んだ。
粉じゃない。石灰じゃない。
軽くて、尖ってる。
しゃがむ。
木屑だ。鉋屑。削り粉。
(……ここ、削られてる)
木札の箱の角。ほんの少しだけ、面が新しい。
新しい木の匂いがする。
ミリアも気づいたのか、声を落とす。
「もう来たあと……?」
「来て、試した。噛めるかどうか」
ロウが低く言った。
カイが眉を上げる。
「試して、噛めないって分かったら――次は?」
「……削る」
ミリアが言った。
紙は整えられる。
木は整えられない。だから物理で削る。
腹の底が冷えた。
木が強いんじゃない。
木は「魔法で消せない」だけで、燃えるし、削れるし、折れる。
相手はそこへ来た。
俺は息を吸った。
香油の匂いが、薄く棚の裏へ続いている。
「入ってる」
俺が言うと、三人とも一瞬で動きが止まった。
「中?」
カイが口の形だけで聞く。
俺は頷く。
音はない。
でも匂いはある。木屑が新しい。
……削っているときだけ出る匂いが、まだ残っている。
ロウが縄を手に取った。
ミリアが杖先を床へ向ける。ライト・ピンは床に打つ魔法だ。狭い倉庫向き。
カイは石灰袋を持ったまま、息を殺した。
俺は棚の影に沿って、ゆっくり回り込む。
そのとき――
カリ、という音。
刃が木に入る音だった。
紙が揃う音じゃない。整える音でもない。
削る音だ。
(来たな)
俺は一歩、速く踏み出した。
「――そこ」
棚の陰から、影が跳ねた。
帽子。布の外套。
片手に小さな鉋。もう片手に布袋。
人間だ。
魔物じゃない。だから余計に厄介だ。
男は俺と目が合った瞬間、鉋を投げ捨てて走った。
「逃がすか!」
カイが石灰を床に撒く。白い粉が滑り止めにも、目印にもなる。
男の足が一瞬滑る。
その隙に、ロウの縄が飛んだ。
男の腕に絡む。――が、男は腕を捻ってほどく。
動きが妙に慣れている。盗賊のそれだ。
「……こいつ、ただの倉庫荒らしじゃない!」
ミリアが低く言う。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さる。一本、二本。
逃げ道を縫うように打たれて、男の足取りが制限される。
だが男は、釘の“間”だけを選んで走った。
慣れている。これも。
男が振り返りざまに、短い刃物を抜いた。
狙いはミリアじゃない。
後ろのカイ。石灰袋を持っている手。
「――っ!」
カイが反射で手を引く。間に合わない。
俺は考える前に体が動いていた。
短剣は抜かない。
刃物同士の音は目立つ。倉庫の外に響く。
だから、手首。
男の手首を、柄で叩く。
こつん、じゃない。乾いた鈍い音。
刃物が床に落ちた。
「……ッ!」
男の顔が歪む。
痛いのに声を出さない。声を出すと終わるのを知っている顔。
ロウがそこへ縄を二重に回す。
「今度はほどけない」
男は笑った。笑う余裕があるふりをした。
「……Fが何を必死になってる。
木に刻んだところで、燃やせば終わりだろ」
その台詞に、ミリアの目が細くなる。
「燃やす、って言ったわね」
男はしまった顔をした。
カイが床の石灰を蹴って、男の靴先へ白を飛ばす。
「しゃべるなよ。バレるぞ?」
男は唇を噛んだ。
そして、外套の内側から小瓶を投げた。
床に当たって割れる。
湿った墨の匂い。香油。黒い液。
液が広がって――糸になった。
糸が床を這い、光の釘の“根元”を舐めるように回り込み、ほどけた縄の端を探す。
「うわ、またそれか!」
カイが石灰を掴んで叩きつける。
白が黒を噛む。糸が鈍る。
ミリアがすぐに追い釘を打つ。
「ライト・ピン!」
糸の進路を縫って、封じる。
でも糸は薄くなって、釘の隙間を探る。
――その隙に、男が身を捻って縄を抜けようとした。
俺はため息をついた。
そして、男の肩を押さえた。
押さえただけだ。
でも男の体が床へ落ちる。
落ちた先に、石灰の白。
滑って、動けない。
「……動くな」
俺が言うと、男は苦笑した。
「……笑えるな。
上でふんぞり返ってる連中は安全なとこで札ばっか刻んで、
危ない夜番やら押収品やらは、ぜ〜んぶFに回してよ。
――お前らと俺らと何が違うんだ。」
ミリアのこめかみが動いた。
怒りの形だ。
でもその前に、ロウが男の口元へ縄を寄せた。
「しゃべるな。お前の言葉も整えられる」
男は舌打ちした。
「……ちっ。だから嫌なんだよ。
“残す”とか言い出す連中は」
その言い方は、敵の言い方だった。
敵なのに――どこか“仕事が増えて困る”みたいな愚痴の匂いが混じっている。
(攫いも、上書きも、作業なんだ)
ふと頭の片隅で、嫌な形が固まる。
◇
外で足音がした。
倉庫番の職員じゃない。重い足音。鎧の擦れる音。
扉が開く。
「何事だ!」
騎士団の小隊が入ってきた。先頭に、昼間に見たことのある監察官の服。
香油の匂いが、はっきりする。
監察官は男を見るなり、顔色ひとつ変えずに言った。
「……確保できたのですね。ご苦労」
言葉が丁寧すぎる。
丁寧すぎて、冷たい。
ミリアが一歩出る。
「待って。こいつ――木札を燃やすって言った。
それに黒い墨を――」
「調査は監察の管轄です」
監察官は遮った。
「あなた方は規定どおり、現場の安全確保だけしていればよい。
証拠品はすべてこちらで引き取ります」
“証拠品”。
男だけじゃない。
床の割れた小瓶の欠片。残った黒い液。鉋。削り屑。全部。
ロウが低い声で言う。
「……木札の箱もですか」
「箱? ああ、それも対象でしょう」
監察官はさらりと言った。
ミリアの目が燃えかける。
でも今ここで燃えたら、“騒いだF”が主語になる。
俺は息を吸った。
香油。湿った墨。紙。
そして、監察官の指先の匂いがやけに綺麗だ。
(整える手だ)
監察官の後ろの騎士が、男の縄を外し、引き立てた。
男はこっちを見て、口の端だけで笑った。
「……ほらな。残らねえよ」
それだけ言って、連れていかれた。
扉が閉まる。
倉庫の中に、静けさだけが戻った。
◇
床には、石灰の白と、削り屑の木の粉が混ざっていた。
監察官が持っていったせいで、黒い液の痕跡も、小瓶の欠片も、綺麗に消えた。
消えたというより――持っていかれた。
残ったのは、削り屑だけ。
木は、整えられない。
だから削る。だから燃やす。
ミリアが歯を食いしばって言った。
「……見ての通りね。
紙を消せないなら、木を消す。
やり口が“雑”になってきてる」
「雑になった分、尻尾が出る」
ロウが言う。
カイが、削り屑を指でつまんで呟いた。
「でも肝心の証拠は、全部“上”が持ってった」
俺は棚の奥を見た。
木札の箱は残っている。
監察官が「対象でしょう」と言ったのに、持っていかれなかった。
不自然だ。
わざと残したのか。運ぶ手が足りなかったのか。
それとも――
(残しても問題ない形にするつもりか)
ミリアが俺の顔を見た。
言葉にしなくても同じことを考えている目だ。
「……移す」
ミリアが言った。
「今夜中に、別の場所に。木札の写しも、二重に」
ロウが頷く。
「別の“残し方”も必要だな。木だけじゃなく」
石。
傷。
声。
俺は息を吐いた。
「……木の削り屑、拾います」
「それ、証拠になる?」
カイが聞く。
「なる。燃やすって言った。削ったって言った。
削り屑は残る。……残る方にしか残せない」
ミリアが小さく頷いた。
「紙じゃない証拠。いいわね」
俺たちは削り屑を布袋に集めた。
小さすぎる証拠。弱すぎる証拠。
でも、“消しにくい”証拠だ。
◇
倉庫の外へ出ると、霧が少し濃くなっていた。
街灯の光がぼやける。
人の足音が遠い。
俺は一度だけ振り返った。
白い粉の上に、誰かの足跡がある。
監察官の足跡。騎士の足跡。――男の足跡。
そして、そのどれとも違う、小さな足跡が一つだけ混じっている気がした。
犬。
見上げても、どこにもいない。
ただ、湿った墨の匂いが――倉庫の角で、ほんの少しだけ薄くなっていた。
(回収したのか)
誰が。
何のために。
分からないまま、線だけが増える。
ミリアが小さく言った。
「……今日、子どもは戻ってこなかった」
「うん」
俺は短く答えた。
戻ってこない。
だから探す。
探す紙が消えるなら、残す形を増やす。
俺たちは木札の箱を抱えて、霧の中を歩き出した。
今夜の仕事は終わっていない。
ただ――相手が“木を消しに来た”ことだけは、はっきり残った。




