第75話 封鎖完了と、口止め
封鎖札の板の裏。
木の縁に指をかけたまま、俺はもう一度だけ息をした。
湿った墨――黒い石の匂いに近い、あの嫌な混ざり。
そして、壁の向こうの空洞。
(……扉だ)
石の継ぎ目がある。
自然な目地じゃない。作った目地。
黒がそこを薄く撫でて、“無かったこと”にしようとしている。
けれど板が木だから、綺麗に整いきれない。むしろ目地が浮く。
シルヴァが、板の裏に視線を落としたまま言った。
「触るな。……開けるな」
「はい」
俺が答えると、ミリアが横で唇を噛んだ。
「でも……見つけたなら、言うべきでしょ。上に」
「言う」
シルヴァは短く頷いた。
「言う。ただし、順番がある。
“扉を見つけました”って叫んだ瞬間、紙が先に動く」
紙が先に動く。
嫌なほど、分かる。
ロウが低い声で言った。
「……封鎖札が貼られた。紙の上では終わった。
なら次は、“終わったことにする”ための口止めだな」
シルヴァは答えない。
答えない代わりに、板の縁へ指を滑らせた。
木の欠け。昨日のささくれ。
そこを爪でこすり、目地の位置を確かめる。
「位置は頭に入れた。……これで十分だ」
十分、って言葉が重い。
十分なはずがないのに、十分と言わないと進めない現実の重さ。
その時、背後で靴音がした。
白い粉を踏まない歩き方。
香油の匂い。
ミリアが振り返るより早く、シルヴァが口を開いた。
「監察官。ここは封鎖だ。近づくな」
マルトンが丁寧に頭を下げる。
「承知しています。封鎖の確認に来ただけです。
……板で固定したのですね。賢明です」
賢明。
丁寧な褒め言葉の形で、線を引く。
ミリアが冷たく言った。
「紙の“封”が混ざってた。だから板にしただけ」
マルトンは微笑みを崩さない。
「“封”などという言葉は、街の不安を招きます。
封鎖は完了しました。――余計な推測は控えるべきです」
余計。
その言葉が、匂いより刺さる。
シルヴァが低い声で言った。
「推測じゃない。混ざり物は現場に出た。
そして俺は、現場の報告を上に上げる」
「上が判断します」
マルトンは丁寧に言って、一歩引いた。
引いたのに、匂いはまだ近い。
近さだけが、やけに正直だ。
俺は息を吸って、吐いた。
マルトンの香油の奥に、湿った墨が薄く混じっている。
(……やっぱり、混ざってる)
でもここで言えば、口実を与える。
“Fが監察官を侮辱した”――整えやすい主語になる。
ノーラの掠れた声が、柵の内側から飛んだ。
「……終わったことにするなら、ちゃんと終わらせてからにして」
ノーラの言い方は柔らかい。
でも、芯がある。
マルトンがノーラを見る。
丁寧な目。丁寧すぎる目。
「治療を優先してください。あなたはもう、線に立つ必要はありません」
「必要あるよ」
ノーラが即答した。
「線が割れたら、私が痛いだけじゃ済まない。街が割れる」
マルトンはそれ以上は言わなかった。
言わないまま、踵を返す。
白い粉を踏まない歩き方で。
香油が遠ざかる。
遠ざかるはずなのに、匂いはまだ残っている気がした。
◇
ギルドに戻ると、二階に呼ばれた。
まただ。
でも今度は、空気が違う。
“確認”じゃない。“整理”だ。
部屋には、エドガーとシルヴァ、それから――指輪の男。
前にいた、あの上の人間。
そして、マルトンもいた。
部屋の端。紙束の陰。丁寧に座っている。
机の上には地図。
霧紺の洞の入口。封鎖の印。補修予定。――綺麗に整った線。
指輪の男が口を開いた。
「封鎖札は貼った。入口は封鎖。これで一件落着だ」
ミリアが反射で言い返しかけて、エドガーが目で止めた。
怒りは武器になる。ここでは相手の武器になる。
シルヴァが淡々と言う。
「入口の板の裏に、作りの目地があった。空洞もある。
扉の可能性が高い」
指輪の男が眉を動かす。
「扉?」
「旧い排水扉だろう」
マルトンが丁寧に言った。
「古い施設にはよくある。危険なら封鎖すればよい。
扉があるかどうかを騒ぎ立てる必要はありません」
騒ぎ立てる必要はない。
その言葉で、全部を包めると思っている声。
ミリアが、抑えた声で言った。
「“扉があるかどうか”で、危険の種類が変わる。
ただの洞の異常じゃなく、街の地下と繋がる可能性が――」
「可能性」
指輪の男が言葉を切った。
「可能性で街を揺らすな。
上が動くまで、現場は静かにしておけ」
静かに。
その意味はひとつだ。
口を閉じろ。
エドガーが、静かに言った。
「上が動くなら、調査班の編成を。
入口封鎖の“完了”は時期尚早だ」
「完了とする」
指輪の男は言い切った。
「“封鎖完了”で記録を整える。街の不安を抑える。
調査は上層部で進める。――君たちは関与するな」
関与するな。
ミリアの拳が握られる。
俺の腹の奥も、少しだけ冷える。
シルヴァが一拍置いて言った。
「……現場を知ってる人間を外すのは、危険だ」
「危険は上が引き受ける」
指輪の男が言った。
引き受ける。
引き受けると言って、現場から遠ざける。
マルトンが丁寧に続ける。
「Fランクが不用意に動けば混乱が増えます。
彼らは――適切な範囲で働かせるべきです」
働かせる。
言い方が、嫌に具体的だ。
ロウが低い声で言った。
「適切な範囲、ってなんだ」
マルトンは笑っていない笑みで答えた。
「規定の範囲です。線のこちら側。
……無用な深入りをさせない」
深入り。
それは、洞じゃない。
“真相”への深入りだ。
俺は息をした。
香油の匂いが、少しだけ濃い。
(嫌がってる)
扉を話題にされるのが嫌なんだ。
“無かったこと”にしたいのに、言葉が残るのが嫌なんだ。
だから整える。
だから封鎖完了にする。
だから俺たちを外す。
シルヴァが、低い声で言った。
「……分かった。関与しない。
だが、現場の安全だけは保証しろ。封鎖札で終わったことにするなら、終わるまで面倒を見る」
指輪の男が頷く。
「当然だ。騎士団と調査隊で管理する。
君たちFは――別の仕事に回せ」
別の仕事。
その言葉が、何より不穏だった。
◇
部屋を出た廊下で、ミリアが噛み殺した声を漏らした。
「……外された。分かりやすいくらいに」
「うん」
俺は短く答えた。
外された理由は、たぶん二つある。
ひとつは、邪魔だから。
もうひとつは、便利だから。
邪魔なら遠ざける。
便利なら使う。
その両方を同時にやるのが、組織だ。
階段を降りる途中で、エドガーが追いついてきた。
「レオン」
「はい」
「……今日の話は、ここだけの話にしておけ」
「口止めですか」
俺が言うと、エドガーは苦い顔で頷いた。
「そうなる。
だが、これは“守るため”でもある。君たちが矢面に立つ必要はない」
守るため。
守るためと言いながら、どこかで“都合”も守る。
それでもエドガーが味方側なのは、分かる。
だから俺は、短く言った。
「……分かりました」
エドガーは一瞬だけ目を伏せて、言った。
「それと――木片は持ってろ。
紙に書かれない名前は、手元に残せ」
俺は袋の中の木片に指を当てた。
ささくれが刺さる痛み。
残る痛み。
◇
夜。
宿へ戻る途中、ふと思ってギルドの裏手を回った。
理由ははっきりしない。
鼻の奥が、うるさかっただけだ。
紙とインクの匂いが、風に混ざっている。
香油も、薄く。
倉庫の陰に、人影があった。
綺麗な靴。白い粉を踏まない立ち位置。
――マルトン、に似ている。
でも顔は見えない。
見えるのは、手元の紙だけ。
紙が擦れる音。
筆先が走る音。
その音に合わせるみたいに、どこかで小さな鳴き声がした気がした。
「……ワン」
次の瞬間、風が向きを変え、匂いが散った。
人影も、いつの間にかいなくなっていた。
見間違いだろう。
そう思えるほど、世界は親切じゃない気がした。
俺は木片を握った。
痛みで、現実に戻る。
封鎖完了。
口止め。
別の仕事。
紙の上では終わった。
でも、扉はある。
そして、匂いはまだ残っている。
だから――次も、線が必要になる。
そういう予感だけが、妙に確かな重さで腹に残った。
長らくかかりましたが3章終了です。次回から新章に入ります。




