第74話 封鎖札と、木の裏
夕方の霧は、昼より重い。
霧紺の洞の入口は、赤い空を背にして口を開けていた。
押し戻したはずの黒は見えない。けれど――匂いだけは、まだ“いる”。
湿った墨。乾いた紙。
それに、薄い香油。
(嫌な混ざり方だ)
入口の前には人が集まっていた。
騎士団の兵が柵の内外に立ち、ギルドの職員が机を置き、
その中央に「札」を持った男がいる。
封鎖札。
綺麗な紙。綺麗な文字。綺麗な印。
綺麗すぎるものは、嘘になりやすい。
シルヴァが、俺たちにだけ聞こえる声で言った。
「手を出すな。……まず嗅げ」
「はい」
ミリアもロウも、短く頷いた。
カイはいない。治療テントで寝かされている。今日ここに立ってる線は、昨日より細い。
ノーラは柵の内側。肩を固定したまま、列の端を見ている。
声は出せる。でも、長くは持たない顔色だ。
少し離れた“外側”に、レイヴァンがいた。
規定を守る位置。なのに、目は角の向こうまで測っている。
バルドは入口線の近くで腕を組み、機嫌悪そうに見張っていた。
そして――
(香油)
白い粉を踏まない場所に、監察官マルトンが立っている。
綺麗な外套。丁寧な顔。丁寧すぎる距離。
見るだけ。入らない。
でも、匂いは近い。
◇
「霧紺の洞入口、封鎖を宣言する――」
封鎖札の男が声を張る。
紙が風に揺れ、そのたびインクの匂いが広がる。
そのインクの奥に、墨が混ざる。
昨日の“字”の匂いだ。
紙の下の方、封蝋の横。
黒が、うっすら滲みかけた。
――封。
今度は“書かれかけ”じゃない。
最初から、そこに居座るつもりの濃さ。
ミリアが息を吸った。
「……来る」
俺は小さく頷いた。
封鎖札の男が、入口の柱へ札を貼ろうと一歩踏み出す。
その瞬間だった。
紙の端が、ふっと波打った。
風じゃない。紙が勝手に呼吸した。
黒い滲みが、字の形に沿って動く。
「封」が、綺麗に整い始める。
(整える気だ。ここで)
札が貼られたら、紙の上では“終わる”。
終わってないのに、終わったことにされる。
――その瞬間が一番危ない。
「待ってください」
俺の声が、思ったより硬かった。
封鎖札の男が振り向く。
「何だ、Fか。今、忙しい。早く終わらせるんだ」
バルドが舌打ちした。
「終わってねぇから騒いでんだろ」
男が眉をひそめる。
「封鎖札を貼れば終わる。規定だ」
規定。
紙。
整えるにはちょうどいい言葉。
シルヴァが一歩だけ前へ出た。
「札を貼る前に確認する。昨日、紙に混ざった。今日も匂いがある」
男が苛立つ。
「匂い匂い……。時間が――」
「時間がないなら、なおさら」
ミリアが鋭く返した。
「紙は湿気で剥がれるし、破れたら混乱が増える。木板に貼ってから固定した方が早い」
男が一瞬、言い返しかけて止まった。
確かに合理的だ。
その背後で、マルトンの香油が、ほんの少し濃くなる。
(嫌がった?)
ガレスが槍の柄を鳴らした。
「木板でいい。昨夜、木と石灰で線を保った。今日も同じでいい」
封鎖札の男が舌打ちし、渋々頷く。
「……分かった。板を持ってこい」
◇
板はすぐ来た。
荷車の補修用の薄い板を一枚。昨日の名残で、端に石灰が白く残っている。
男が紙を板に当てる。
その瞬間――紙の「封」の字が、ぴたりと止まった。
綺麗に整いかけていた黒が、嫌そうに薄くなる。
薄くなって、逃げ道を探すみたいに――紙の外へ滲み出た。
にゅるり。
黒い糸が一本、紙の端から伸びて、男の指へ向かう。
「っ……!」
男が反射で手を引く。
引いた拍子に紙が揺れ、黒がさらに“整おう”とする。
ミリアが即座に杖を振った。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さり、糸の進路を縫い止める。
止まる。止まるが、糸は薄くなって抜けようとする。
抜ける前に、俺が石灰をひとつかみ叩きつけた。
白が黒を噛む。
噛まれた黒が、動きを鈍らせる。
――でも、紙の上の「封」は、まだ“整おう”としている。
(字だ。字を壊せばいい)
けれど、ここで紙を切ったら、間違いなく騒ぎになる。
「Fが封鎖札を破った」――それだけで整えられる。
俺は短剣を抜かず、板の角を指で探った。
木のささくれ。
昨日から残った、小さな欠け。
その欠けで、紙の上の「封」の――縦の芯を、ほんの少しだけ“擦った”。
切らない。裂かない。
ただ、綺麗に書けないようにする。
ざり、と紙が鳴る。
次の瞬間、黒い「封」がふっと輪郭を失った。
綺麗だった線が、綺麗じゃなくなる。
整えられなくなった黒が、行き場を失って、紙の端へ逃げる。
「……っ、なんだ今の!」
封鎖札の男が青い顔で叫ぶ。
バルドが男の腕を掴んで、乱暴に後ろへ引いた。
「動くな。余計なことすんな」
男は何か言い返そうとして、喉がひくついた。
指先が白くなっている。冷えが触れている。
ロウが板を支える。
ミリアが「ライト・ピン」を一本増やし、糸の逃げ道を潰す。
そして――
「……ワン」
短い鳴き声。
黒い犬の影が、板の下にすっと現れた。
紙の端から滲んだ黒へ鼻を寄せ、一舐め。
黒が、すうっと薄くなる。
糸は鳥になり損ねたまま、犬の口へ吸い込まれるみたいに消えた。
犬は尻尾を一度だけ振って、影ごと消えた。
残ったのは、板に貼られた封鎖札。
そして――綺麗に整え損ねた「封」の字の、薄い汚れ。
◇
「……何が起きた」
封鎖札の男が震える声で言った。
ガレスが短く答える。
「紙に混ざり物がいた。板に貼ったのは正解だ」
ミリアが冷たい声で言う。
「そのまま紙で貼ってたら、もっと増えてた」
男は唇を噛み、渋々頷いた。
震える手で釘を打ち、板ごと柱へ固定する。
封鎖札は、貼られた。
“封鎖完了”の形が、入口に出来上がる。
周りの人間が、ほっとした顔をする。
ほっとするのが、早すぎる。
紙に書かれたら終わり――そんなわけがないのに、紙がそう思わせる。
その外側で、マルトンが小さく口を開いた。
「……無用な騒ぎでしたね。封鎖は完了した」
丁寧な声。
でも香油が、また少し濃い。
ミリアが睨み返す。
「完了? 匂いは残ってる」
「匂いは主観です」
マルトンは笑みを崩さない。
「街の秩序のために、これ以上の混乱は――」
「混乱を招いてるのは、誰ですか」
ミリアの声が鋭い。
マルトンは答えず、ただ視線だけを板へ向けた。
整え損ねた「封」の汚れを、見ている。
見ているのに、見えないふりをする目。
そして、踵を返す。
白い粉を踏まない歩き方で。
香油が遠ざかる――はずなのに、匂いはまだ残る。
残る匂いの方向は、入口じゃない。
(……裏だ)
◇
封鎖札の板が固定された後、人が散り始めた。
ほっとする声。
もう大丈夫だ、という声。
でも、俺の鼻は逆にうるさくなる。
板の裏。
柱と板の間。
湿った墨が、そこに溜まっている。
溜まっているだけじゃない。薄く広がって、何かを“隠す”形を作っている。
俺は板の縁へ指を伸ばした。
木のささくれが指先に刺さる。
痛みが現実を引っ張る。
板の裏の石に、指が触れた。
――冷たい。
洞の湿気と違う冷たさ。
石の冷たさの奥に、もう一枚、違う冷たさがある。
空洞。
壁の向こうの空洞の匂い。
(……扉だ)
俺は息を殺して、もう一度触れた。
石の継ぎ目が、ある。
自然な目地じゃない。作った目地。
その目地の上を、黒が薄く撫でて“無かったこと”にしようとしている。
だが、板が木だから、黒は綺麗に整えきれない。
薄い汚れが、逆に目地を浮かせている。
「……シルヴァさん」
俺は小さく呼んだ。
シルヴァが近づき、板の裏に視線を落とす。
「見つけたか」
「あります」
俺が言うと、シルヴァは一度だけ頷いた。
その頷きは、嬉しさじゃない。
“面倒が確定した”頷きだった。
ミリアが横から覗き込む。
「……扉。ほんとに?」
「匂いが、壁の向こうに繋がってる」
ロウが低い声で言った。
「……封鎖札、逆に目印になったな」
その瞬間、洞の奥が――深く呼吸した気がした。
入口は封鎖された。
紙の上では終わった。
でも、扉はここにある。
そして――香油の匂いは、まだ完全には消えない。
俺は木板の縁を指で押さえた。
残る形にしたせいで、見えたものがある。
見えたせいで、次が来る。
そういう匂いが、足元から上がってきていた。




