第73話 掲示板の報告と、消えた木板
ギルドの一階は、朝から妙にざわついていた。
いつもの依頼札の前じゃない。
掲示板の――もう一枚奥、報告用の板の前に人が固まっている。
視線がこっちに刺さる。
刺さり方が二種類あった。
ひとつは、純粋な好奇心。
「昨日の入口線にいたF」っていう、噂を見る目。
もうひとつは、怖がってる目。
「近づいたら巻き込まれる」っていう、距離を取る目。
ミリアが眉を上げた。
「……見に行く?」
「うん」
俺は短く答えて、掲示板の前へ歩いた。
◇
貼られていた紙は、綺麗だった。
綺麗すぎるくらい、整っている。
見出し。
――霧紺の洞・入口異常 収束報告
内容。
封印再固定:ギルド調査隊(Bランク)
入口線維持:城塞騎士団
協力:Cランク冒険者(バルド/レイヴァンほか)
補助:F〜Eランク数名
……数名。
俺たちの名前は、そこに無い。
ノーラが肩の固定をしたまま、紙を見上げていた。
悔しそうに唇を噛む……と思ったら、違った。
ただ、目が少しだけ遠い。
“自分がそこにいなかったことにされる”感覚を、黙って飲み込んでいる目だ。
ミリアは――飲み込んでない。
「数名?」
声が低い。
「腕、焼けて。盾、ひび入って。カイは寝込んで。ロウは指が裂けて。
それで“数名”?」
俺は紙の匂いを吸った。
乾いた紙とインク。
それに、湿った墨がごく薄く混ざっている。
(……まだいる)
黒は、洞の中だけじゃない。
こういう“綺麗な場所”が好きだ。
紙の下の方に、薄く滲みかけた一画が見えた。
――封。
字が、書かれかけている。
でも昨日みたいに、はっきりじゃない。薄い。
薄いのに、嫌な匂いだけは確かだった。
「レオン」
ミリアが小声で言う。
「……あれ、見える?」
「見える」
「消す?」
「今ここでやると、騒ぎになる」
俺が言うと、ミリアは舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
騒ぎになれば、相手の思う壺だ。
“Fが暴れた”って、整えられる。
◇
「……あの」
背後から、細い声がした。
アルヴィンだった。眼鏡の奥の目が、落ち着いてない。
手には紙束じゃなく、何も持っていない。
「……木板、消えました」
ミリアが即座に振り向く。
「昨日の?」
アルヴィンは小さく頷いた。
「机の引き出しに入れて、鍵も掛けて……。
でも朝来たら、引き出しは閉まってるのに、中身だけ無いんです」
ロウが、低い声で言った。
「盗られた?」
「……たぶん」
アルヴィンが唇を噛む。
「鍵が壊れてないのが、怖いです。」
ミリアが目を細めた。
「整えた、ってことね」
アルヴィンは俯いた。
「すみません……。せっかく刻んだのに……」
「謝るな」
俺は言った。
ノーラに言ったのと同じ言葉が、また出る。
「残すのは、一枚じゃない方がいい」
アルヴィンが顔を上げる。
「……どういう」
「みんなが持てばいい」
俺は腰の袋から、細い木片を出した。
ノーラがくれた、削った木の端材の残り。
ミリアが眉を上げる。
「持つって、どうやって」
俺はアルヴィンを見た。
「刻めます?」
「……刻めます」
アルヴィンの声が、少しだけ強くなった。
俺は、近くのベンチに腰を下ろして、短剣の柄を差し出した。刃は見せない。
アルヴィンに、刃先だけを渡す。
「名前、刻んでください。俺のから」
「……いいんですか」
「残るなら、いい」
アルヴィンは深呼吸して、木片に刃を当てた。
ぎ、ぎ、と不格好な音。
上手くない。綺麗じゃない。
でも、残る音だ。
――レオン。
次に、ミリア。ロウ。カイ。ノーラ。
それぞれの名が、小さな木片に刻まれていく。
ミリアが小さく息を吐いた。
「……汚い字」
「汚い方がいい」
俺が言うと、ミリアは一瞬だけ笑いかけて、すぐ真顔に戻った。
アルヴィンが木片を渡してくる。
「これ、持ってください。
……消されにくい匂いがします。木の匂いが」
「うん」
俺は木片を受け取って、指で撫でた。
ささくれが刺さる。痛い。現実。
ミリアも自分の木片を握った。
ノーラも包帯の上から木片に触れる。
ロウが、木片を懐に入れた。
「……これで“数名”じゃなくなる」
小さく言った声は、怒りじゃない。
静かな意地だった。
◇
そこへ、靴音が近づいた。
丁寧な靴音。
白い粉を踏まない歩き方。
香油の匂い。
俺の鼻が、嫌に鳴った。
監察官マルトンが、いつもの丁寧な顔で立っていた。
「なるほど。木に刻むのですか」
ミリアが睨む。
「何か問題でも?」
「問題はありません。……ただ、混乱を招く行為は控えた方が良い」
「混乱を招いてるのは、誰よ」
ミリアの声が鋭い。
マルトンは笑みを崩さない。
「功績の主張が過熱すれば、現場が荒れます。
Fランクが不用意に目立つのは、街の治安にも――」
「治安?」
ロウが低く言った。
「昨日の治安は、紙で守れたのか」
マルトンの目が、ほんの少しだけ細くなった。
丁寧な顔の下で、感情が擦れる匂いがする。
アルヴィンが、無意識に一歩下がった。
それを見て、マルトンはアルヴィンへも丁寧に言う。
「君も。勝手な記録は職務を逸脱する。
次は慎むように」
アルヴィンは頷こうとして――止まった。
頷いたら、また消される。
そういう顔だった。
俺は息を吸った。
香油の匂いの奥に、湿った墨がある。
薄い。けれど、確かに混ざっている。
(近すぎる)
マルトンの匂いは、いつも“綺麗”だ。
綺麗すぎる匂いは、嘘だ。
「……監察官」
俺は丁寧に言った。丁寧に言わないと、整えられるから。
「混乱を招きたくないなら、紙の方をどうにかした方がいいです」
マルトンが眉を動かす。
「紙?」
「掲示板の報告。下の方」
俺が言うと、マルトンは一瞬だけ掲示板へ視線をやった。
その一瞬、香油の匂いが――ほんの少し濃くなる。
マルトンは丁寧に笑った。
「……君は嗅覚が鋭い。しかし、根拠のない不安を煽るのは――」
「根拠ならある」
ミリアが言い切った。
「昨日、紙に“封”が混ざった。今朝も混ざりかけてる。
見えないふりはやめて」
マルトンは言葉を切り替えた。
「……では、対策は上で検討します」
上。
その言い方が、また嫌だった。
マルトンは一歩引いて、最後に俺たちを見た。
「余計な行動は控えなさい。
Fランクの皆さんには、分からない範囲のこともある」
丁寧な嫌味。
ミリアが一歩出そうとして、ノーラが包帯の腕でミリアの袖を掴んだ。
「今は、やめよ」
ノーラの声は掠れている。
でも止める力がある。
ミリアは舌打ちを飲み込んで、息を吐いた。
マルトンは踵を返した。
白い粉を踏まない歩き方で。
その背中に、黒い犬の影が一瞬だけ重なった気がした。
――見間違いだろう。
そう思ったのに、鼻の奥の墨の匂いが一瞬薄くなった。
◇
昼過ぎ、シルヴァが俺たちを呼んだ。
場所は二階じゃない。倉庫の奥。紙の匂いが少ない場所。
シルヴァは低い声で言った。
「入口線、今日中に“封鎖完了”の扱いになる」
ミリアが眉を吊り上げる。
「完了? 完了してないじゃない。まだ匂いが残ってる」
「匂いは残ってる」
シルヴァは頷いた。
「でも、紙の上では完了する。
“封鎖したことにする”ってやつだ」
俺は、あの掲示板の滲みかけた「封」を思い出した。
字が先で、現場が後。
現場が後から“整う”。
「……何でそんなことを」
ロウが言う。
シルヴァは一瞬だけ黙ってから、言った。
「扉を見つけられたくないんだろう」
ミリアが目を細めた。
「扉の存在を、消したい?」
「たぶんね」
シルヴァは淡々と言う。
「洞と街の地下が繋がってる可能性がある。
それを“無かったこと”にできれば、面倒が減る」
面倒が減る。
誰の面倒だろう。
シルヴァは続けた。
「今日の夕方、入口に封鎖札が貼られる。
紙でな」
ミリアが唇を噛む。
「また紙……」
「だから、俺は紙が嫌いなんだ」
シルヴァが珍しく笑わない声で言った。
「……レオン。鼻を貸してくれ」
「はい」
「封鎖札を貼る人間の中に、“混ざり物”がいるかもしれない」
混ざり物。
黒い石の匂い。湿った墨。香油。
俺の鼻が、また嫌に鳴った。
(夕方……来る)
洞の呼吸とは別の、もっと人間くさい匂いがする。
◇
夕方、俺たちは入口へ向かった。
空が赤い。
霧紺の洞の入口は、昼より暗く見える。
入口の前には、既に人が集まっていた。
騎士団の兵。ギルドの職員。
そして、綺麗な紙束を持った誰か。
封鎖札。
紙は風で揺れている。
揺れるたびに、インクの匂いが鼻を刺す。
その輪の外側に、香油の匂いが立っていた。
白い粉を踏まない位置で。
(……いる)
俺は息を吸って、吐いた。
洞の湿気の匂いの奥に、湿った墨。
紙の匂いの奥に、香油。
嫌な混ざり方だった。
封鎖札を持った男が、洞の前へ進み、声を上げる。
「霧紺の洞入口、封鎖を宣言する。――封鎖札を貼る」
「封鎖」という言葉が落ちた瞬間、紙の端がほんの少し滲んだ気がした。
ミリアが小さく息を吸う。
「……来る」
俺も同じ匂いを嗅いだ。
紙の上に、字が書かれたがっている。
――封。
今度は薄くない。
濃く、綺麗に。
綺麗すぎる字は、嘘だ。
俺は木片を握った。
ささくれが刺さる痛みで、現実を引き戻す。
この札が貼られたら、紙の上では終わる。
でも匂いは、終わっていない。
終わっていないのに終わったことにされる――その瞬間が、いちばん危ない。
洞の奥で、また深く息をする音がした気がした。
そしてどこかで、紙を擦る音がした。
誰かが、綺麗に整えようとしている。




