第72話 整えられる功績
霧紺の洞の入口から戻って二日。
足元の白い粉は、まだ完全には消えていなかった。
踏むたびに靴底がきし、と鳴る。
粉の上に残った傷や跡が、あの夜の「線」を思い出させる。
洞の匂いは遠ざかったのに、鼻の奥にはまだ墨が残っている。
紙とインク。湿った黒。――それと、薄い香油。
あの匂いが、消えない。
◇
俺たちは朝、ギルドの二階に呼ばれた。
「事情聴取」という言葉は使われなかった。
でも空気は、あれだった。
扉の前で、ミリアが小さく息を吐く。
「……“整える”って言われたら、もう嫌な予感しかしないわね」
「うん」
俺は短く返した。
ミリアは怒っている。
怒っている理由は分かる。ノーラの肩も、カイの冷えも、ロウの指も――“補助”って言葉で片づけられるのが、許せないんだ。
俺は……許せない、というより、落ち着かない。
残らないのが嫌だ。
名誉のためじゃない。次に同じことが起きたとき、同じ線に立つ人が、また「なかったこと」にされるのが嫌だ。
扉が開いた。
◇
中には、シルヴァとエドガー、それから見慣れない男が座っていた。
ギルドの上の方の人間だ。服がやたら綺麗で、指輪が光っている。
机の上には紙の束。羽ペン。インク壺。
紙の匂いが濃い。
そして端っこに、昨日使った石板――じゃない。
石板はない。あるのは紙だけだ。
俺の鼻が、また嫌に鳴った。
(紙だけにする気か)
男が、丁寧な声で言った。
「君たちが現場にいたことは承知している。……まずは状況確認だ。落ち着いて答えたまえ」
落ち着け、という言い方が、もう整え始めている。
ミリアが一歩前に出る。
「状況確認、いいです。でも“功績”の部分を曖昧にしないでください」
男は軽く笑った。
「功績は、報告書が判断する。君が決めることではない」
その瞬間、ミリアの目が冷たくなった。
言い返しそうになって――エドガーが小さく首を振った。
ここでぶつかるのは、たぶん相手の思う壺だ。
シルヴァが低い声で区切る。
「質問に答えよう。誰が何を見て、何をしたか。事実だけだ」
「……はい」
俺は頷いた。
質問は細かかった。
黒い鳥が出たタイミング。
影兵が出たタイミング。
影のオーガ級の輪郭。
掲示板の「整」を削った話。
石板を刻んだ話。
俺は答えた。見た通りに。
男は途中から、露骨に「騎士団が」「Bランクが」という方向へ言葉を寄せ始めた。
「入口線の維持については、騎士団の迅速な対応が——」
「騎士団がいたのは事実です」
俺は言った。
「でも、線の上にいたのは騎士団だけじゃありません」
男の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……君は自分たちの功績を主張したいのか?」
「主張したいんじゃないです」
俺は、正直に言うしかない。
「残したいだけです。誰が線にいたか」
男が笑いかける。
「ランクは記号だ。記号に固執する必要は——」
「固執してません」
俺は短く言った。
「でも、消されるのは困ります」
室内の空気が、一段重くなった。
ミリアが、横で小さく息を吐いた。
怒りじゃない。抑え込むための呼吸だ。
◇
扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、アルヴィンだった。眼鏡の位置がいつもより高い。
手には紙束じゃない。小さな板を抱えている。
木板だ。薄い。角が欠けている。
「……これ、提出します」
アルヴィンが机の上に置いた。
木に、刃物で刻んだ文字がある。
雑な字。でも消えない字。
――救出班:レイヴァン/バルド/レオン/ミリア/ロウ/カイ
――入口線:ノーラ
――対象:ヘンリク
ミリアが目を見開いた。
「……アルヴィン、これ」
「石板が“移動”される前に、写しを作りました」
アルヴィンの声は震えていた。
でも目は逃げていない。
「紙だと……また混ざるかもしれないので。木なら、残るから」
男が眉をひそめる。
「勝手なことをするな。公文書は——」
「公文書は紙でしょ」
ミリアが静かに言った。
「紙は“封”される。昨日見たわ」
男が言い返そうとして――その前に、シルヴァが口を挟んだ。
「勝手ではない。現場の記録だ」
エドガーが続ける。
「それに、これは“主語”だ。誰がどこにいたか。消えたら困る」
男は一瞬だけ沈黙した。
指先が紙の束を撫でる。撫でる音が、やけに大きい。
そのとき、俺の鼻に香油が刺さった。
(……近い)
部屋の外。廊下の方からだ。
丁寧な匂いが、扉の隙間に立っている。
俺は目だけを動かした。
扉の向こうに影。
綺麗な外套の裾。
マルトン。
覗いているだけ。入ってこない。
でも“見てる”。
男が咳払いをして、口調を変えた。
「……分かった。記録として添付する。ただし——」
「ただし、じゃない」
低い声が割り込んだ。
ガレスだった。いつの間にか部屋に入ってきていた。槍は持っていないが、声だけで槍みたいな圧がある。
「城塞側の記録にも刻む。紙ではなく石だ」
男が目を見開く。
「それは権限が——」
「権限ならある」
ガレスが言い切った。
「昨夜、割れかけたのは入口線だ。城塞は“割れた後”に守る場所だが、昨夜は“割れる前”を守られた。なら、残す」
残す。
その言葉は、昨日の白より重かった。
シルヴァが小さく頷いた。
「……ありがとう」
ガレスは頷き返した。
「礼はいらん。次もある」
次もある。
その言い方が、嫌なほど現実だった。
◇
聴取はそれで終わった。
出るとき、アルヴィンが小さく息を吐いた。
「……怖かったです」
「怖いのに出したの?」
ミリアが聞くと、アルヴィンは苦笑した。
「出さない方が……もっと怖い気がしたので」
その答えが、変に胸に残った。
廊下の角で、俺はふっと立ち止まった。
(香油)
まだ近い。
マルトンの匂いが、紙の部屋の外側に張り付いている。
追うべきじゃない。
今追えば、“主語”がこちらになる。相手はそれを待っている気がする。
俺は足を進めた。
階段を降りる途中で、窓から入口の方角が見えた。
霧紺の洞はここから見えない。なのに、湿った墨の匂いだけが鼻に残っている。
ギルドの一階では、ノーラが椅子に座らされていた。肩は固定のまま。
でも顔は前を向いている。
カイはまだ毛布だ。悔しそうに目を閉じてる。
ロウは指の布を巻き直している。
みんな、いつも通りに見える。
でも、昨日までの「いつも通り」じゃない。
ミリアがノーラのところへ行って、屈んで言った。
「ねえ。石に刻むってさ」
ノーラが目を瞬かせる。
「……残る?」
「残る」
ノーラは、包帯の上の木片に触れて、小さく笑った。
「じゃあ、良かった。……私、声だけだったけど」
「声が一番だった」
ミリアが即答した。
俺は、そのやりとりを少し離れた場所で見て、木札を指で押さえた。
ヘンリクの名。ノーラの木片の匂い。
(残った)
残った。
紙じゃない形で、残り始めた。
でも――残るほど、消す側は面倒になる。
面倒になった相手は、次はもっと雑に、もっと強く来る。
洞の方角から、薄い湿気が流れた気がした。
そしてその湿気の奥で、紙を擦る音がする気がした。
誰かがまた、どこかで「整えて」いる。
俺は息を吸って、吐いた。
次に割れるのは、入口線じゃないかもしれない。
でも、次も線は必要だ。
だから――残す。
残して、整えさせない。
それだけを、当たり前みたいにやる。




