第71話 白い朝と、消える報告
夜が明けても、白い粉は雪みたいに残っていた。
踏めば靴底がきし、と鳴る。
粉の上に残る足跡が、まだ“昨日の線”のままだ。
入口の柵は軋んでいる。
荷車は横倒しのまま。
槍の先は、白くなっていた。
黒は洞の奥へ押し戻した。押し戻しただけだ。
いなくなった匂いじゃない。遠ざかった匂い。
「……カイ、どう?」
ミリアが、治療テントの前で低い声で言った。
カイは毛布にくるまって、壁にもたれていた。
顔色は戻っていない。唇が少し紫に寄っている。
「……へーき。粉屋、引退するわ……」
軽口を言おうとして、息が途中で途切れる。
治療師が首を振った。
「喋るな。熱を逃がす。
“冷え”は中に残ってる。動けば回る」
カイは悔しそうに目を逸らして、黙った。
ロウは指に布を巻き直している。血は止まっていない。
ノーラは柵の内側で座らされていた。肩の固定はそのまま。声だけはまだ残っているみたいで、近くの子どもに水を渡していた。
「……昨日、木、効いたね」
ノーラが、包帯の上の木片を見て言った。
「効いた」
俺が短く答えると、ノーラは小さく頷いた。
木は残る。
石は残る。
白は噛む。
残るものと、噛むものだけで、昨夜は線を保った。
◇
朝の光が洞の入口の縁を薄く照らした頃、奥から上位班が戻ってきた。
鎧の音が増える。
疲れた足音。
そして、少しだけ違う匂い。
焦げた札。古い湿気。金属。
――それと、湿った墨。
レイヴァンが先頭にいた。顔はいつも通り硬い。
その後ろに、見慣れないBランクの調査隊が二人。肩で息をしている。
ガレスが一歩出る。
「封印は」
「応急で押さえた」
Bランクの男が短く答えた。
「前室の“呼吸”は止めた。だが、根は深い。
入口の異常は……こちらで見るべきじゃなかったな」
その言い方が、嫌だった。
“見るべきじゃなかった”――つまり、押し付けたってことだ。
ミリアの目が細くなる。
でも今は喧嘩をする時間じゃない。
線がまだ生きている。誰も勝ってない。
シルヴァが戻ってきた上位班の顔を一度だけ見て、すぐ入口の混乱の残りを見た。
「……よく持ったね」
それだけ言って、俺たちの方を見た。
目が笑っていないのに、声は少しだけ柔らかい。
「治療が先。次に記録」
記録。
その言葉が落ちた瞬間、俺の鼻の奥がちくりと鳴った。
(紙とインク)
誰かがもう、紙を広げている匂いがする。
◇
柵の外、詰所の横に机が並べられた。
白い粉が舞わない位置に、わざわざ。
監察官マルトンが、綺麗な外套のままそこに立つ。
香油の匂いが、朝の冷えの中でも妙に強い。
アルヴィンもいた。
胸の内側に抱えていた紙束を、今は机の上に置いている。置いているだけで、落ち着かない指。
マルトンが丁寧に言う。
「状況は収束しつつあります。まずは報告書を整えましょう。
――混乱が続けば、街の不安を招きます」
“整える”。
その単語が出た瞬間、背中が少し寒くなった。
アルヴィンが紙を広げる。
羽ペンを握る手が、昨日より硬い。
紙の匂い。インクの匂い。
そこに、湿った墨がほんの少し混ざっている。
(混ぜてる……)
ミリアが机に近づく。
「報告に、入口線のこと書くのよね。こっちが持った」
マルトンは丁寧な笑みを崩さない。
「もちろん、騎士団の迅速な対応として記載します」
「“騎士団”だけ?」
ミリアの声が冷える。
アルヴィンが一瞬だけ、こちらを見た。
目が揺れている。書きたい目だ。
マルトンが続ける。
「封印再固定はBランク調査隊。入口の維持は騎士団。
ギルドの補助員――F〜Eの者は、補助として記録します」
補助。
バルドが舌打ちしかけて、飲み込む。
レイヴァンは何も言わない。何も言わないが、目だけが硬い。
ノーラの肩の固定。
カイの紫の唇。
ロウの指の布。
それを見て、“補助”。
ミリアが一歩前へ出た。
「名前、書きなさいよ。誰が線に立ってたか」
マルトンは紙を見ずに言う。
「名前は、必要な範囲で」
「必要よ」
ミリアが言い切った。
「消えたら困るのは、現場だから」
マルトンの口元がわずかに薄くなる。
丁寧な仮面の下で、感情が擦れる匂いがした。
アルヴィンが、喉を鳴らして羽ペンを動かしかけた。
その瞬間。
紙の上に、黒い滲みがふっと現れた。
ほんの一画。
でも“字”の形だ。
――封。
紙の上に「封」の字が書かれかけている。
アルヴィンの手が止まる。
「……っ」
ミリアが気づいて、目を細めた。
「また……」
俺は机の縁に手をついて、紙に触れない距離で息をした。
紙は裂けない。
裂けば増える。
でも字なら――壊せる。
「ミリア」
「分かってる」
ミリアが杖を振る。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さり、机の脚の影に伸びかけた黒い糸の逃げ道を縫い止めた。
止まる。止まるが、紙の上の「封」は消えない。
マルトンが丁寧に言う。
「……何をしているのですか」
「紙に混ざってる」
ミリアが低い声で言った。
「見えないふりしないで」
マルトンは、丁寧なまま視線を逸らした。
紙じゃなく、人を見ている。誰が強いか、誰が弱いかを測る目。
俺は短剣を抜かなかった。
抜いたら“攻撃”になる。
だから、削るのは紙じゃない。
言葉だ。
「紙、やめた方がいいです」
俺が言うと、マルトンが初めて俺を見た。
香油の匂いが、少し濃くなる。
「……代替案は」
「石」
俺が言った瞬間、アルヴィンが息を呑んだ。
シルヴァが机の横へ来て、淡々と言う。
「石に刻む。城塞の刻印係を呼べ。
それなら“封”されにくい」
“されにくい”。
言い切らないのが、現場の言葉だった。
◇
石板が運ばれてきた。
昨日と同じ、重い平たい石。
刻印係がタガネと小槌を置く。
ぎ、と石を削る音がする。
紙の擦れる音より、ずっと落ち着く音。
アルヴィンがその前に立った。
手が震える。腕が頼りない。けれど、目だけは逃げない。
「……書きます」
言い方が、今日は丁寧じゃなかった。
意地の声だった。
刻印係が一度だけ頷く。
「名を言え」
ミリアが先に言った。
「レオン。ミリア。ロウ。カイ。ノーラ。
――それと、レイヴァン。バルド。ガレス」
アルヴィンがタガネを当てる。
ぎん、と叩く。
石に字が刻まれていく。
黒い滲みが、石板の縁にふっと寄ってきた気配がした。
寄ってきて、溝へ入りたがる匂い。
アルヴィンが歯を食いしばる。
「……深くする」
ぎん、ぎん。
溝が深くなる。
深い溝は、簡単には埋まらない。
マルトンが口を開く。
「そこまでして残す必要が——」
「必要だ」
ガレスが遮った。
「昨夜、ここで線が割れたら街は死んでた。
残す必要はある。残さねば、また割れる」
その言葉が、机の上の紙よりずっと重かった。
マルトンは黙った。
黙ったまま、綺麗な靴の位置を少しだけずらす。白い粉を踏まない位置へ。
白が嫌いなのか。
木が嫌いなのか。
それとも――偶然か。
俺は偶然にしたくない匂いを、覚えた。
◇
刻みが終わると、石板の文字は不格好だった。
筆みたいに綺麗じゃない。曲がっている。深さも揃っていない。
でも、それでいい。
綺麗に整えない。
整えさせない。
アルヴィンが石板を見下ろして、小さく言った。
「……残った」
勝った声じゃない。
生き残った声だった。
ミリアは石板を一度だけ見て、すぐ紙の方へ目を戻した。
紙の上の「封」は、いつの間にか薄くなっている。
薄くなって――無かったことにされる前の薄さ。
「……やっぱり、紙はダメね」
ミリアが呟く。
シルヴァが低い声で言った。
「紙は便利だ。便利なものは、狙われる。
だから残る形を持つ」
残る形。
木札。
石板。
白い粉。
残るものを増やせば、消す側は面倒になる。
だけど――面倒なだけで、止まるとは限らない。
洞の入口から、湿った墨の匂いがまだ薄く漂っている。
完全には引いていない。
そして、香油の匂いは、相変わらずこの近くに残っている。
ノーラが柵の内側からこちらを見た。
包帯の上の木片に触れて、口だけで笑う。
「……戻ったんでしょ?」
「戻った」
俺が言うと、ノーラは小さく頷いた。
「なら、次も戻る」
その言葉が、今朝の一番強い札だった。
俺は短剣の柄を握り直して、洞の暗い入口を見た。
黒はまだ書いている。
でも、こっちは刻める。
刻んで残して、整えさせない。
――そういう戦い方があると、昨夜と今朝が教えていた。




