第69話 刻みを削るもの
黒い波は、来るたびに少しだけ形を変える。
糸で足を取る。
鳥で声を奪う。
面で押し潰す。
そして今夜は――“削る”。
白い粉の上を這っていた黒が、ふっと進路を変えた。
槍の隙間でも、柵の隙間でもない。
もっと嫌な方へ。
入口の詰所の横。焚き火のそば。
城塞が持ち込んだ、あの石板。
救出班の名と、対象者の名を刻んだ石板。
(……そっちか)
鼻の奥が、嫌に冷たく鳴った。
◇
石板の前にいたのは、アルヴィンだった。
いつもの帳簿じゃない。
紙束でもない。
今日は、タガネ(刻み具)と小槌を握っている。
握り方が慣れていない。指が震えている。
でも、その震えは逃げたい震えじゃなかった。
「……石は残るって、言いましたよね」
アルヴィンが、誰に言うでもなく呟いた。
俺は答える前に、黒が石板へ触れる匂いを嗅いだ。
黒は石板の文字の“溝”に沿って染みていく。
まるで水が刻みを埋めるみたいに。
溝が埋まる。
埋まれば、読めない。
読めなければ――「誰が」も「誰を」も、なかったことにできる。
アルヴィンの顔色が変わった。
「……消す気だ。石まで」
ミリアが杖を握り直す。
「石なら安全、って思わせて、最後にそこを狙う。嫌なやり方」
黒い面が、石板の下から薄く盛り上がった。
面というより、ぬめる“布”みたいに。
刻んだ文字の溝へ、じわじわ入り込む。
「アルヴィン、下がって!」
ミリアが叫ぶ。
アルヴィンは下がらなかった。
代わりに、タガネを石に当てた。
「……残すなら、深くする!」
ぎん、と石を叩く音。
タガネが食い込み、文字の溝が深くなる。
黒が、その溝に入りきれずに一瞬だけ弾かれた。
「……っ!」
アルヴィンの腕が震える。
事務屋の腕だ。戦いの腕じゃない。
その震えを、黒は見逃さない。
黒い糸が一本、石板からにゅるりと伸びた。
狙いはタガネを握る指先。
「アルヴィン!」
俺が動くより早く、ミリアが杖を振った。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さり、糸の進路を縫い止める。
止まる。止まるが、消えない。
消えないまま、糸が薄くなって釘の隙間を抜けようとする。
俺は石灰をひとつかみ、糸へ叩きつけた。
白が噛む。糸が鈍る。
その一瞬で、短剣の柄で叩いて“ずらす”。
糸が石板から外れた。
「……ありが、」
アルヴィンが言いかけて、口を噛んだ。
礼を言う余裕を、自分で切り捨てた顔。
代わりに、石を叩く。
ぎん、ぎん。
刻みが深くなる。
黒が“埋める”より早く、溝が“逃げる”。
(……こいつ、意地だな)
意地でも残す。
残る形にする。
その意地が、今夜は頼もしかった。
◇
だが、黒は一手で終わらない。
黒い面が、石板の表面を撫でるように広がった。
文字の溝を埋めるんじゃない。
“整える”みたいに、表面ごと薄く削ろうとしている。
削れば、溝の深さも意味がない。
「……磨く気だ」
ロウが低く言った。
指はまだ痛そうなのに、目だけは冷えている。
カイは少し離れたところで膝をついていた。
腹を押さえた手が震える。顔色が戻らない。
「……やべぇな。石まで消すとか、性格悪すぎる……」
軽口の形にしようとして、できてない声。
レイヴァンが半歩前へ出た。
「押し返す。……石は壊すな」
壊すな。
でも守るには“壊す”が必要な時がある。
俺は短剣を握り直した。
(字と同じだ)
黒が“綺麗に”整えられる形を作ろうとするなら、
綺麗にさせないのが正解だ。
俺は石板の端に膝をついて、刃先を当てた。
狙いは、刻まれた名前の溝じゃない。
溝の“縁”。
縁を、ほんの少しだけ荒らす。
削るというより、ざらつかせる。
石に引っかき傷が増える。
綺麗じゃなくなる。
均一じゃなくなる。
黒い面が、ぴたりと動きを止めた。
嫌がっている。
石の表面が“整わない”のが嫌なんだ。
ミリアが息を吐く。
「……整えることに意味がある。逆に言えば、整えられなきゃ弱い」
「字と同じだ」
俺が言うと、ミリアは短く頷いた。
アルヴィンが、目を見開いたまま言う。
「……じゃあ、私は……」
「深く刻め」
シルヴァの声が背後から飛んだ。
シルヴァが来ていた。
目が笑っていない。今夜ずっと“守り”の目だ。
「深く刻め。荒く削れ。……“綺麗な記録”にするな」
アルヴィンが、少しだけ笑った。
泣きそうな笑いだ。
でも、笑った。
「……最悪ですね、それ」
「最悪でいい」
シルヴァが短く言う。
「残るほうが大事だ」
◇
石板の周りで押し返している間に、入口の黒い波がまた膨らんだ。
槍の線が揺れる。
木の壁が軋む。
ガレスの怒号が飛ぶ。
「入口線、持て! 後ろへ押すな! 街へ出すな!」
だが現実は、理想ほど綺麗に整わない。
黒い波が、柵の足元を舐めた。
糸が伸びる。今度は二本、三本。
“同時に”来る。
誰かの半拍を狙って、連鎖で崩す。
ミリアが叫ぶ。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さる。
糸を止める。止めるが、数が多い。
ロウが歯を食いしばり、荷車の板を引きずって塞ぐ。
縄じゃなく木で塞ぐ。
でも足が一歩遅れる。
遅れた。
黒い糸がロウの足首に触れた。
「っ……!」
ロウの体が半歩崩れる。
その崩れに、黒い波が合わせてくる。
――連鎖。
俺は石板から跳ねた。
白い粉をロウの足元へ叩きつける。
糸が鈍る。
短剣の柄で叩いてずらす。
ロウの足が自由になる。
その瞬間、レイヴァンの鞘が落ちた。
ごん。
黒い波の縁が崩れる。
崩れた黒が、また寄ろうとする前に、バルドが剣を盾みたいに当てて押す。
「押せ! 押し返せ!」
押す。
押すしかない。
その背後で、カイがふらりと立ち上がろうとして――また膝をついた。
「……っ、くそ……手が冷てぇ……」
冷えが回っている。
もう“根性”でどうにかなる段階じゃない。
俺が目を向けた瞬間、レイヴァンがカイの襟を掴んだ。
「後ろ」
「……まだ……」
「もう下がれ。」
命令みたいで、でも一番優しいやつ。
カイが唇を噛んで、後退した。
悔しそうな背中が、今夜ずっと刺さる。
◇
黒い波が一瞬だけ引いた。
引いた、というより――息を整えた。
洞の奥で、紙を擦る音がした。
筆先が走る音。
誰かがどこかで、また“整えて”いる。
その気配が、今ははっきりする。
そして、掲示板の方を見た。
「整」の字を削った紙。
そこに、別の文字が滲みかけていた。
――封。
封じる。
封じたことにする。封じて見せる。封じて閉じ込める。
嫌な字だ。
アルヴィンが、息を飲んだ。
「……また書いてる」
「書かせるな」
ミリアが低い声で言う。
俺は、掲示板の紙を見た。
紙に触るのは危ない。裂けば増える。
でも、字は壊せる。
壊せるのは分かった。
問題は――次だ。
洞の口が、また深く呼吸した。
黒い波の奥が、盛り上がっている。
影兵じゃない。糸でも鳥でもない。
もっと大きい形。
白い粉の上に、黒が“輪郭だけ”立ち上がった。
肩が広い。腕が太い。頭が高い。
――オーガ級の影。
バルドが、喉の奥で笑うみたいな音を出した。
「……やっと“それっぽい”のが来たな」
レイヴァンは笑わない。
ただ、鞘を握り直した。
「倒すな。崩せ。……通すな」
倒すより、通さない。
それが今夜の戦い方だ。
俺は息を吸った。
オーガ級の影の匂いの奥に、ほんの少しだけ――香油の匂いが混ざっている。
上品な匂い。昼の監察官が纏っていた匂いに似ている。
気のせいにしたくない匂い。
黒いオーガが一歩、前へ出た。
白い粉が、きし、と音を立てた気がした。
入口線が、次で割れる。
そういう“手触り”が、足元から上がってきた。




