第68話 白い壁と、削れた「整」
入口の灯りが揺れている。
揺れているのは火だけじゃない。
人の列も、声も、空気も――全部が揺れていた。
黒い鳥は散った。
散ったはずなのに、掲示板の紙はまだ“吐いている”気配がする。
洞の口から滲む黒い面は、槍の隙間を水みたいに抜けてくる。
抜けてくるたびに、人の足が一歩だけ乱れる。
その“一歩”がいちばん怖い。
「石灰! 入口に厚く!」
ガレスの怒号に、兵が袋を引きずってくる。
袋が裂け、白い粉が床に雪みたいに積もった。
白の上を、黒が嫌そうに這う。
嫌がっているだけで、止まらない。
「木!」
ロウが、荷車の横木を柵の隙間に噛ませた。
縄じゃない。線じゃない。板で“壁”を作る。
ミリアが杖を振る。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さる。
黒い糸が伸びた瞬間、進路を縫い止めるための“目印”になる。
止まる。止まるが、消えない。
消えないから、次の手がいる。
「白、薄く撒くな。押し込め」
俺が言うと、カイが歯を食いしばって頷いた。腹を押さえながら、袋を床へ叩きつける。
「分かったよ……。今日は俺、粉屋だな……!」
軽口の形なのに、声が硬い。
無理してる声だ。
その時――洞の奥が、またひとつ深く息をした。
黒い面が、ぬらり、と膨らむ。
膨らんだ黒が、床を越え、柵を舐め、白い粉の上で“形”を作り始めた。
影兵。
顔のない人型。
「来る!」
バルドが前に出た。剣を振りかけて、寸前で止める。
斬れば増える。
だから押す。
「っ……!」
剣を盾みたいに当て、影兵を押し返す。
押し返した影兵が崩れ、黒い面に戻る――戻った黒が、また立ち上がろうとする。
終わらない形。
レイヴァンが半歩だけ前へ出た。
大剣は抜かない。鞘で、影兵の胸を叩き潰す。
ごん。
叩き潰したところへ、白い粉が舞う。
輪郭がぼやけて、立ち上がりが遅くなる。
「遅いほうがいい!」
ミリアの声が飛ぶ。
遅いほうがいい。
その一秒が、人を逃がす。
◇
「早く逃げて!」
ノーラの声が、柵の内側から響いた。
肩は固定されている。顔色も良くない。
それでも彼女は“動線の真ん中”に立って、声だけで人を動かしていた。
盾がなくても、声で線は作れる。
――その線が、今夜は一番頼りになる。
だが、黒は線が嫌いだ。
嫌いだから、狙う。
黒い糸が、柵の隙間からにゅるりと伸びた。
狙いは足首じゃない。喉――声。
ノーラが、息を飲む。逃げない。
代わりに、包帯の上に結んでいた小さな木片を――糸の前へ突き出した。
俺が預かったのと同じ匂いのする、削った木だ。
黒が、ぴたりと止まる。
触れた瞬間だけ、嫌そうに薄くなる。
「……木、効く」
ノーラが掠れた声で言った。
声は苦しい。それでも、折れない。
ミリアが杖を振る。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さり、糸の逃げ道を縫い止めた。
糸が薄くなったところへ、カイが白を追い撒きする。
「列、切らない! そのまま!」
ノーラの声が、少しだけ揺れて、それでも線を保った。
◇
掲示板の前で、アルヴィンが青い顔をしていた。
紙束を胸の内側に抱えて、必死に守っている。
守っているのは紙じゃない。自分の“仕事”の形だ。
でも、紙は今夜――武器になっている。
掲示板の紙の端が、また滲んだ。
滲みは文字の周りから始まる。
まるで「字の形」をなぞるみたいに。
そして、紙の上に浮いた一文字が見えた。
――整。
整える。
整えて、安全に見せる。整えて、主語を消す。整えて、現場を壊す。
その字が、妙に綺麗だった。
綺麗すぎる字は、嘘だ。
マルトンが掲示板の近くにいた。
外套を汚したくないのか、白い粉を避けて立っている。
「騒ぐな。秩序を保て」
丁寧な声が、今夜は薄っぺらい。
その丁寧さの匂い――薄い香油の匂いが、俺の鼻に刺さった。
(紙の黒と、同じ匂いが混じってる)
マルトンの匂いは、黒に近い場所でだけ濃くなる。
気のせいじゃない。
掲示板の紙が、ふわりと波打った。
次の瞬間、黒い鳥が一羽、紙から剥がれた。
剥がれて――まっすぐマルトンの顔へ飛んだ。
「っ……!」
マルトンが反射で後ろへ引く。
引いた拍子に、掲示板の枠に肩が当たる。
紙が揺れる。
揺れた紙が、鳥をもう二羽“吐く”。
群衆がざわめき、列が乱れかける。
俺は舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
今やるのは、文句じゃない。
「ミリア!」
「ライト・ピン!」
光の釘が二本、床に刺さる。
鳥の進路を縫って止める。
止まった鳥が薄くなる前に、俺は短剣を抜いた。
斬らない。
紙を裂けば増える。
じゃあ、どうする。
(字だ)
黒が“字”をなぞって生まれているなら、字の形を壊せばいい。
俺は掲示板へ踏み込み、紙そのものに触れないように、枠の縁から刃先を滑らせた。
狙いは「整」の字。
横線を一本。
縦線の芯を、ほんの少し。
削る。
切り裂くんじゃない。“書き順”を壊すみたいに削る。
刃先が紙を擦る音がした瞬間――
黒い鳥が、空中でふっと輪郭を失った。
羽が崩れる。
墨が「字に戻れない」みたいに、落ちる。
「……え」
アルヴィンが、信じられない顔をした。
落ちた黒が床に染みる前に、カイが白を追い撒きする。
腹を押さえたまま、必死に。
「い、いけ……白……!」
白が黒を吸って、動きが鈍る。
黒が静かになる。
掲示板の紙は、まだ滲もうとしていた。
でも「整」の字だけは、もう綺麗に書けない。
――綺麗に整えられない。
それが、効く。
マルトンがこちらを見た。
丁寧な顔を保とうとして、保てていない目。
「……な、何をしている」
「文字を壊しただけです」
俺は淡々と言った。
自分でも、変な返事だと思った。
でも、嘘は言ってない。
「字がなきゃ、出にくいみたいです」
アルヴィンが、喉を鳴らした。
「……字を……壊す……」
彼の中で、“記録”が武器にもなる現実が、やっと噛み砕かれ始めた顔だった。
◇
入口のほうが叫び声で跳ねた。
「来るぞ! 今度は――」
黒い面が、もう“平ら”じゃない。
うねって、盛り上がって、波になっている。
波が来る。
波は、受け止めきれない。
受け止めるなら、壁が必要だ。
「壁!」
ガレスが怒鳴る。
「木! 石灰! 道を一本に絞れ!」
ロウが荷車を横倒しにし、通路を狭くした。
狭くするほど、守りやすい。
だが狭くすると、逃げにくい。
矛盾を抱えたまま、守るしかない。
黒い波が、柵の前まで来た。
槍の隙間を抜ける。
抜けた黒が足首へ糸を伸ばす。
ミリアの声が飛ぶ。
「ライト・ピン!」
釘が刺さり、糸が止まる。
止まった糸が、今度は“面”へ戻ろうとする。
戻る前に、俺が白を押し込む。
白が噛む。
噛んだところに、レイヴァンの鞘が落ちる。
ごん。
黒が崩れる。
崩れて、また寄る。
終わらない。
その時、カイが膝をついた。
「……っ」
腹を押さえた手が震える。
顔色が一段悪い。
冷えが中に入っている。
さっきの狭い空間で掠ったやつが、回ってきている。
「カイ!」
ロウが声を上げて、足が一歩遅れた。
遅れた瞬間、黒い糸がロウの足元に伸びる。
狙ってる。
“半拍”を狙ってくる。
俺は、カイを引き上げるより先に動いた。
ロウの足元へ白を叩きつけ、糸を鈍らせる。
短剣の柄で叩いてずらす。
ロウの足が自由になる。
その一秒で、レイヴァンがカイの襟を掴んで引きずった。
「下がれ」
「……いや、まだ……」
「下がれ。動けなくなる前に動け」
命令みたいな口調。
でも、それが一番優しい。
カイは歯を食いしばって、後ろへ下がった。
その背中が、今夜いちばん悔しそうだった。
黒い波が、また来る。
ノーラが声で列を押す。
「退路! 退路! こっち! 走らない! 歩いて!」
声が少し掠れている。
掠れているのに止まらない。
俺は木札――ヘンリクの名前と、ノーラの名の木片の匂いを、指で確かめた。
(残れ)
残るものがある。
残るものを握って、残らせる。
◇
シルヴァが、入口線の後ろから低い声で言った。
「……上位班が、奥へ入った」
「何」
ミリアが振り返る。
「前室の封印が乱れてる。封じ直しに行った。
入口は――こっちで持て、だとさ」
“こっち”。
つまり、今ここにいる人間で。
バルドが歯ぎしりする。
「……CだBだは奥で格好つけて、こっちは――」
言いかけて、飲み込んだ。
今は毒を吐く時間も惜しい。
ガレスが槍を鳴らす。
「入口線、崩すな! この場が割れたら、街まで割れる!」
黒い波がまた来る。
でも、さっきより遅い。
掲示板の紙からの鳥が減ったせいだ。
「整」の字が壊れて、吐き出しが鈍っている。
俺は呼吸を整えた。
勝てたわけじゃない。
でも、形は崩せる。
崩せるなら、守れる。
黒い波の縁に、白を押し込む。
白が噛む。動きが鈍る。
鈍ったところに、光の釘が刺さる。
「ライト・ピン!」
止まる。
止まったところを、鞘で叩く。押し返す。
繰り返し。
地味で、泥臭くて、でも確実な繰り返し。
誰かが叫ぶ。
「また来るぞ!」
また来る。
来るのは分かってる。
だから、次の“半拍”を作らせない。
俺は短剣の柄を握り直し、白い粉の上に足を置いた。
滑らない場所に立つ。
守るための場所に立つ。
洞の奥から、紙を擦る音が――また一度だけ聞こえた気がした。
誰かがどこかで、まだ書いている。
でもこっちは、削れる。
綺麗に整えさせない。




