第67話 安全札の黒
角の向こうの闇が、ぬらりと光った。
糸でも鳥でもない。
“面”だ。
墨をひっくり返したみたいな黒が、床を舐めて、壁を伝って、こっちへ滲んでくる。
音はしないのに、鼻の奥だけがうるさい。
(来る。でかいのが)
「撤収」
レイヴァンの声が短い。
「前を向け。走る」
バルドがヘンリクを抱え直し、歯を食いしばった。
「くそ……重い……!」
重いのは体だけじゃない。
黒が、空気ごと重くする。
ミリアが息を詰めて言う。
「レオン、背中」
振り返る暇はない。
背中の匂いで分かる。
黒い面は、追ってきているんじゃない。
“押し出している”。この通路を、入口へ向けて。
「……押されてる」
俺が言うと、カイが腹を押さえて唸った。
「最悪だな……。入口に人、いっぱいいんのに……」
ロウが、血のにじむ指を握って開いて、また握った。
縄は投げられない。今投げたら“線”を食われる。
「名前」
ミリアが低く言った。
さっきの空間で効いたやつ。
意識が薄くなるとき、名前を口に出すと戻る。
「レオン」
「レオンだ」
「ミリア」
「ミリア」
「ロウ」
「ロウ……!」
「カイ」
「カイ。くそ、カイだ」
「レイヴァン」
「レイヴァン」
「バルド」
「バルドだ!」
名前を吐くと、霧が少し薄くなる。
黒が勝手に“消そうとしてくるもの”に、抵抗できる。
その瞬間――壁の目地が、また光った。
黒い面が、通路の端から“枝”を伸ばす。
細い糸が、逃げ道を探すみたいに這う。
「踏むな!」
俺が叫ぶ。
カイが跳ねて避けた。避けた足元に、糸が追いすがる。
俺は石灰袋の口を裂いた。
撒くんじゃない。床へ叩きつけて、白を“置く”。
白が黒を噛むみたいに絡み、糸が一瞬だけ鈍る。
その瞬間を、レイヴァンが逃さない。
大剣の鞘で床を叩く。
ごん。
糸がほどけるみたいに散った。
「走れ」
短い声。
走るしかない。
◇
入口の灯りが見えたとき、胸の奥が一瞬だけ緩んだ――緩んで、すぐ凍った。
人が多い。
柵の前。荷車。帰還者。検疫の机。見物の冒険者。
そして、掲示板。
昼に“安全”を掲げようとした紙が、まだ貼られていた。
紙は、綺麗に整えられている。綺麗すぎる。
その紙の端が――黒く滲んでいた。
(最悪だ)
「戻ったぞ!」
ガレスの声が飛ぶ。
「救出、一名! 担架を回せ!」
バルドがヘンリクを渡そうとした、その瞬間。
掲示板の紙が、ふっと波打った。
インクが滲む。
普通の滲みじゃない。“広がりたがる”滲み。
そして、紙から黒い羽が剥がれた。
一羽。二羽。十羽。
黒い鳥が、群衆に向けて飛んだ。
「下がれ!」
騎士団の兵が槍を立てる。
でも槍は、鳥に当たらない。鳥は薄い。
薄いくせに、狙いはいやらしい。
顔、喉、手――“声”と“文字”を奪う場所へ。
「こっち!」
叫んだ声があった。
ノーラだ。
治療テントの前にいるはずのノーラが、柵の内側で腕を張って立っていた。
肩は固定されている。腕は震えている。
それでも、動線の真ん中に立って、逃げ道を作っている。
「列を切らない! 子どもから!」
声が強い。
盾じゃなく、声で“線”を作ってる。
黒い鳥がノーラの肩へ向かった。
「ノーラ!」
俺が叫ぶより早く、ミリアが杖を振った。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さり、鳥の進路を縫う。
焼かない。飛べなくする。止める。
でも鳥は、釘の隙間を抜ける。
「っ、数が多い……!」
ミリアの声に焦りが混じる。
ロウが反射で縄を握りかけて、止めた。
縄は線。線は食われる。
カイが腹を押さえながら石灰袋を掴んだ。
「撒くぞ!」
「薄く! 吸わせろ!」
俺が言う。
白い粉が舞う。
黒い鳥の輪郭が、白の中でぼやける。
そこへ、短剣の柄。
斬らない。叩く。落とす。
落ちた黒が床に染みる前に、追い白。
それでも、鳥は止まらない。
掲示板の紙が、まだ“吐いている”。
紙の上の文字――「安全」が、黒い滲みで読めなくなっていく。
読めなくなるだけならいい。
黒は、次の文字を書こうとしている。
アルヴィンが掲示板の前で青い顔をしていた。
胸の内側に抱えた紙束を、必死に押さえている。
「触るな!」
俺が叫んだ。
アルヴィンの指が止まる。
止まったが、もう遅い。
紙の端から、細い黒い“糸”が伸びた。
糸はアルヴィンの紙束へ向かう。
紙を通って、増えるつもりだ。
「ミリア!」
「分かってる!」
「ライト・ピン!」
ミリアが連打する。
光の釘が、糸の進路を縫い止める。
止まる――止まるが、消えない。
レイヴァンが、そこへ半歩。
大剣は抜かない。
鞘で、掲示板の枠を叩いた。
ごん。
掲示板が震え、紙の端がふわっと浮く。
その一瞬、犬の鳴き声がした気がした。
「……ワン」
黒い犬の影が、掲示板の裏にすっと現れた。
紙の滲みへ鼻を寄せ――一舐め。
黒が、すうっと薄くなる。
鳥の数が、一瞬だけ減った。
「……回収、してる……」
カイが呟いた。
犬は尻尾を一度だけ振って、影ごと消えた。
助かった。
でも、助けられたのは“いま”だけだ。
◇
黒い鳥の群れは散り、代わりに“面”が来た。
入口の洞穴の奥――闇が、波みたいにうねった。
黒い面が、柵の外まで滲み出す。
「下がれ! 線を保て!」
ガレスが怒鳴る。
兵が槍を並べ、上位ランクが前に出る。
でも、黒い面は槍の先にぶつからない。
槍の“隙間”を、液体みたいに抜けてくる。
「くそっ!」
バルドが前に出て、剣を振る――振るのを止めた。
斬れば増える。
さっきの影兵で学んだ。
だから、押す。
剣を盾みたいにして、面を押し返す。
押し返しても、面は崩れない。形を変えて、また来る。
「レオン!」
シルヴァの声が飛ぶ。
「入口線、守れ! “混ぜるな”!」
混ぜるな。
血に混ざる。紙に混ざる。人に混ざる。
ノーラが、柵の内側で叫ぶ。
「子ども! こっち! 線から出ない!」
声が少し震えている。
肩の痛みじゃない。“怖さ”の震えだ。
怖いのに立ってる。
それが一番、強い。
黒い面の端が、柵を舐めた。
そこから細い糸が伸び、逃げる人の足首へ向かう。
――狙いがはっきりしてきた。
パニックを作る。
線を崩す。混ぜる。
「ミリア、ピン!」
「ライト・ピン!」
光の釘で糸を縫う。
縫っても、糸はじわじわ動く。
ロウが歯を食いしばった。
「……線を作れないなら、壁を作る」
ロウが荷車の横木を引きずり、柵の隙間に差し込む。
縄じゃない。木だ。線じゃなく“板”で塞ぐ。
カイが白い粉を面の端へ押しつける。
腹を押さえたまま、片手で。
「白、効け……!」
効く。
でも遅い。
面が広い。
入口は逃げない。逃げないぶん、逃げ場もない。
そのとき、掲示板の紙が、もう一度滲んだ。
“安全”の文字が、黒に飲まれて消える。
代わりに、別の文字が浮いた。
――整。
整える。
記録を整える。主語を整える。線を整える。
そして現場を、整えて壊す。
俺の鼻が、きし、と鳴った。
(来る。次はもっと雑に)
ガレスが槍を鳴らして叫ぶ。
「全員、退路を確保しろ! 入口線、二重に張れ!」
二重に張る。
でも“線”は食われる。
だから――白と木で張る。
「石灰、全部出せ!」
俺が叫び、袋を裂く。
白い粉が舞う。
黒い面の縁が、少しだけ鈍る。
その鈍った一瞬に、レイヴァンが鞘で叩き、バルドが押し返す。
ミリアの光の釘が、進路を縫う。
ロウとカイが木と石灰で壁を作る。
ノーラが声で人を動かす。
――ぎりぎり、守れている。
守れているのに、足が震える。
この“ぎりぎり”が、相手の狙いだ。
黒い面の奥から、ふっと紙を擦る音がした。
筆先が走る音。
誰かが、どこかで、また“整えて”いる。
その瞬間、洞の奥がもう一度、深く呼吸した。
入口の灯りが、わずかに揺れた。
これはまだ、前口上だ。
そういう匂いがした。
俺は木札――ヘンリクの名前と、ノーラの刻んだ木片を、指でぎゅっと挟んだ。
消されないものを握って、
消される前に、もう一つ守るために。




