第66話 木札と、角の向こう
日が落ちると、入口の灯りが急に頼りなく見えた。
治療テントの外では、焚き火の火がぱちぱち鳴っている。
助けた二人は温められ、うわ言みたいな声で同じ言葉を繰り返していた。
「……綺麗に……書いて……安全って……」
その横で、ノーラが肩を固定されて座っていた。悔しさは顔に出さないのに、指先だけが落ち着かない。
「行くんだよね」
ノーラが、俺を見上げて言った。
「……うん」
「ならこれ。持ってって」
ノーラが差し出したのは、薄い木片だった。
盾の縁に使ってた木を、治療師が削ってくれたらしい。
そこに、ノーラの名前が刻まれている。
「紙みたいに消されにくいから。……迷ったら、触って」
ノーラは笑おうとして、肩が痛んで顔をしかめた。
「私、行けないけど……私の分も、戻ってきて」
「戻るよ」
俺が言うと、ノーラは小さく頷いた。
カイが口を挟もうとして、今日はやめた。
笑いにしないほうがいい空気だと、ちゃんと分かってる顔だった。
◇
入口の詰所では、石板が用意されていた。
大きな平たい石に、タガネ(刻み具)と小槌。城塞の刻印係が手袋をしたまま待っている。
ガレスが短く言った。
「今夜の動きは、ここに刻む。紙は使わん。印も使わん。
“誰が”動いたか、消されない形で残す」
シルヴァが頷く。
「救出対象はヘンリク。未帰還一名。
……戻ったら、石板に刻む。戻らなかったら——」
言葉が途切れた。
途切れたけど、全員分かった。
刻印係が石板に最初の一行を刻み始める。
――救出班:レイヴァン/バルド/レオン/ミリア/ロウ/カイ
――対象:ヘンリク
ギ、と石を削る音がした。
紙が擦れる音じゃない。消せない音。
アルヴィンが少し離れたところで、その音を見ていた。胸の内側に抱えた紙束は、今夜は出さないらしい。
そこへ、丁寧な靴音が近づいた。
「夜間行動とは、感心しませんね」
監察官マルトンだった。
灯りの下でも外套が綺麗で、香油の匂いが鼻につく。
「危険が増す。責任が増す。規定が——」
「規定はお前の紙に書いとけ」
バルドが吐き捨てた。
マルトンの口元がわずかに歪む。
けれど声は丁寧なままだ。
「“記録に残らない英雄”になるのは、あなた方の自由です」
シルヴァが冷たく返す。
「残る。石に残る」
マルトンの視線が石板へ流れた。
その一瞬だけ、香油の匂いの奥に、湿った墨の匂いが混ざった気がした。
レイヴァンが短く言う。
「お前らもいる。無茶はさせん。……角までだ」
“角まで”。
線のこちら側。規定の範囲。
それでも今夜は、その“角”の向こうに人がいる。
ガレスが槍の柄を鳴らした。
「通すな。混ぜるな。出すな。……そして戻れ」
俺は木札――ヘンリクの名前を握り、腰に結び直した。
◇
洞へ入ると、灯りの色が変わった。
紺色の湿気が、夜の冷えと混ざって皮膚に張りつく。
先頭はレイヴァン。半歩後ろにバルド。
その後ろに俺たち。ロウとカイは左右、ミリアは中央の少し後ろ。
ノーラはいない。
いないからこそ、余計に線が細く感じる。
角へ近づくにつれて、匂いが増した。血の匂い。冷えた金属。焦げた布。
そして、湿った墨。
(……いる)
墨が“新しい”。
誰かが、ついさっきまでここで何かをしていた匂い。
角を曲がった。
壁の目地に、薄い黒い線が走っていた。
昨日削ったはずの線が、綺麗に整え直されている。……見せるために。
レイヴァンが壁へ手を当てる。
「綺麗すぎる。……“安全”だと言える顔だ」
バルドが舌打ちした。
「安全なら帰ってきてる」
ミリアが息を吐く。
「開ける前に確認。レオン」
俺は鼻で息をした。
壁の向こう。近い。近いのに、空気が違う。
古い空気。乾いた空気。紙みたいな乾き。
「……います。二人。近い」
「ヘンリクか」
「……分からない。でも、木の匂いがある。刻んだ木の匂い」
名前札。
“消されない形”の匂い。
ロウが短く言った。
「開けたら来る」
「来る前に開ける」
バルドが石に手をかけた。
ぎ、と音。
壁がほんの少しずれた。
その瞬間、墨の匂いが噴き出した。
◇
最初に来たのは、糸だった。
針みたいに細い墨の糸が、床を舐めるように走り――ロウの足元へ伸びた。
狙いがいやらしい。
縄を扱う人間の足。線を作る役の足。
「ロウ、退け!」
ミリアが叫ぶ。
ロウが足を引く。引くのが半拍遅れる。
指の痛みのせいじゃない。床の湿りで踏ん張りが利かない。
墨の糸が靴底に触れた。
「っ……!」
冷たさが走る。
触れただけなのに“持っていかれる”冷たさ。
俺は石灰を掴んで、糸に叩きつけた。
白が黒を噛むみたいに絡みつき、動きが鈍る。
その瞬間、短剣で根を刺す。
ぱちん、と糸が切れた。
ロウが息を吐く。
「……助かった」
「今は喋るな」
言いながら、自分の声が硬いのが分かった。
糸は一本じゃない。
壁の隙間から、二本、三本。
床を這い、今度はカイの足へ。
「ちっ、来るの早っ……!」
カイが跳ねて避ける。避けたはずなのに、糸が“影”みたいに薄くなって追ってくる。
レイヴァンが大剣を抜かず、鞘で床を叩いた。
ごん、と鈍い音。
糸が一瞬だけ揺れた。
「撒け」
短い命令。
ミリアが光を床に刺す。
「ライト・ピン!」
糸の進路が止まる。止まるが、切れない。
バルドが歯ぎしりする。
「これ、切ると増えるやつだろ……!」
「増える前に固める」
俺は石灰を、粉じゃなく“押し込む”ように床へ擦り込んだ。
糸が白に絡め取られて、動きが鈍る。
その隙に、レイヴァンが石を押し広げた。
壁が開く。
中は狭い空間だった。旧い通路の途中に作られた、溜まり場みたいな場所。
そこに――人がいた。
倒れている男が一人。
もう一人は壁にもたれて座っている。息は荒いが、生きている。
「……ヘンリク!」
座っていた男が、掠れた声で言った。
その呼び方が、木札の匂いと一致した。
倒れているのがヘンリクだ。
◇
ヘンリクの体には、墨の線が巻きついていた。縄じゃない。糸でもない。
“書かれた線”が、肉に食い込む手前で止まっている。
ミリアが膝をつき、杖先を近づけた。
「……混ざってる。冷えが深い。今、無理に引っ張ると——」
「切るな」
レイヴァンが即断した。
「切れば増える。……ほどける場所を探せ」
バルドが舌打ちしながら周囲を見る。
「筆の野郎は?」
その言葉に、空間の奥の闇が、少しだけ揺れた気がした。
俺の鼻が鳴る。
(紙……?)
壁に貼りついたように、薄い紙が何枚も重なっている匂い。
ここに紙を持ち込むのは、わざとだ。
カイが小声で言った。
「……気分悪い。ここ、頭がぼやける」
ロウも眉を寄せる。
「俺たち……何でここに……」
その“抜け方”が、嫌だった。
疲れじゃない。意識が削られる抜け方。
ミリアが歯を噛む。
「……名前。呼んで。自分の名前」
俺は腰の木札を掴み、指で撫でた。
レオン。
木に刻んだ“残る形”。
「レオンだ」
声に出すと、頭の霧が少しだけ晴れた。
「ミリア」
「ミリアよ」
「ロウ」
「ロウ……」
「カイ」
「カイだ、くそ……!」
レイヴァンは短く言った。
「レイヴァン」
バルドも吐き捨てる。
「バルドだ」
名前を口に出すだけで、空間が少しだけ現実に戻る。
……“消されるもの”に対抗できるのが、こんな原始的なことなのが腹立つ。
「ヘンリク」
俺は倒れている男の木札を探し、胸元で見つけた。
黒い線がその木札だけ避けているのが、はっきり分かった。
「……木、嫌いなんだな」
カイが苦笑して、でも笑いきれない顔をした。
◇
ほどける場所は、あった。
墨の線は、ヘンリクの腕じゃなく“床の線”に繋がっている。
床に書かれた細い円。そこから線が伸びている。
(核)
匂いが濃い。中心がそこだ。
「ミリア。床の円、見える?」
「見える」
「そこ削れば、線が弱くなる」
「削る? 石を?」
バルドが眉を上げた。
「やるしかない」
俺が言った瞬間、闇の奥から声がした。
「……まだ早い」
低い声。丁寧で無感情。
昨日、扉の前で聞いたのと同じ種類の声。
闇から、墨を固めたみたいな“兵”が立ち上がった。
影兵。顔がない。数が多い。
今度は入口じゃない。狭い場所だ。逃げ道が細い。
「押す。潰す。撒け」
レイヴァンの短い指示。
バルドが前に出て、斬らずに“ぶつけた”。
刃で裂くと増える。だから盾みたいに剣を使って押し倒す。
ミリアの光が床に刺さる。
「ライト・ピン!」
影兵の足元が縫い止められ、動きが鈍る。
ロウは縄を投げない。投げられない。
代わりに、壁際の木片を蹴って“道を塞ぐ”。線じゃなく障害物で止める。
カイが石灰を撒く。
白が舞い、影兵の輪郭が崩れる。
その隙に、俺は床の円へ短剣を当てた。
刃先で“削る”。石の上の黒い線を削り取る。
削った瞬間、ヘンリクの腕の線が、びく、と緩んだ。
「いま!」
ミリアが叫ぶ。
バルドがヘンリクを抱え上げる。
レイヴァンが前に出て、影兵を鞘で叩き落として道を作る。
だが――影兵の一体が、カイの脇腹へ滑り込んだ。
「っ……!」
カイが息を詰める。
浅い。浅いのに、冷たい痺れが腹の奥へ入ろうとする。
ミリアが顔色を変える。
「カイ!」
「平気……じゃねぇけど、立てる!」
立てる。
でも、声が少し震えていた。
レイヴァンがカイの肩を掴み、乱暴に引き戻した。
「立つな。動け」
それが一番優しい言い方だと、この人は知ってる。
◇
撤収。
狭い空間から、角へ戻る。
壁を閉じる前に、俺は一度だけ振り返った。
闇の奥で、筆の先みたいな細い光が揺れた気がした。
紙を擦るような音。書く音。
「……整えれば、全部“安全”になる」
低い声が、遠くで笑った気がした。
次の瞬間、壁の隙間が勝手に“綺麗に”閉じた。
俺たちが閉じたんじゃない。
向こうが閉じた。
「……っ」
ロウが石に手を当てる。
「これ、開かない……」
バルドが舌打ちした。
「ふざけんな。戻る道——」
「戻る道はこっちだ」
レイヴァンが、角の反対側――搬送路の奥を指した。
匂いが、動いている。
墨が、空間の外へ滲み出している。
“出口”を塞いで、別の方へ押し出す。
そういう形に、上書きされた。
ミリアが唇を噛む。
「……入口へ波が来る」
その言葉が落ちた瞬間、洞の奥で――深く息をする音がした。
霧紺の洞が、ひとつ大きく呼吸したみたいに。
そして、搬送路の先の闇が、ぬらりと光った。
小型じゃない。
糸でも鳥でもない。
“面”で来る匂い。
俺は短剣の柄を握り直した。
救えた。
救えたのに、終わってない。
終わってないどころか――ここからが、本当に割れる。




