第65話 消える名前
救出した二人は、入口の治療テントに運び込まれた。
意識のある男は、担架の上でまだ唇を震わせている。
もう一人は、呼吸はしているのに目が開かない。皮膚の色が悪く、体温が低い。
「……黒が混ざってる」
治療師が眉を寄せた。
「火傷じゃない。冷えが、内側に残ってる。
今は温める。急に熱を入れると、逆に回る」
ノーラが肩を押さえたまま、横で立っていた。顔色は平気そうに見えるのに、指先が少し白い。
「ノーラも座れ」
治療師が言う。
「肩、もう一回やってる。今度は“戻る”だけじゃ済まない」
「……立てる」
ノーラは言った。立ってるだけで頑張ってる声だ。
ミリアが短く息を吐いて、ノーラの肘を掴む。
「座って。立つのはあとでいくらでもできる」
ノーラは小さく笑おうとして、やめた。
◇
治療テントの外では、騎士団とギルドの人間が集まっていた。
ガレス、シルヴァ、レイヴァン、バルド。――そして監察官マルトンと、眼鏡のアルヴィン。
マルトンは口を開いた瞬間から、丁寧だった。
「未帰還は遺憾です。ですが、救出はすでに行われた。
これ以上、現場が混乱すれば——」
「混乱してるのは現場じゃない」
ガレスが遮った。
「“戻るはずの班が戻らない”のが混乱だ。
救ったから終わり、にはならん」
マルトンは薄く笑った。
「人員を増やすなら、責任が増えます。規定上——」
「規定上、助けを待つ人間は死んでいいのか」
バルドが吐き捨てた。
マルトンの視線が一瞬だけ、バルドから外れた。
言葉を選んだ目だ。
「……優先順位という話です」
その言い方に、ミリアが目を細める。
「優先順位って、誰が決めるの?」
答えは返ってこなかった。返さないのが答えみたいな沈黙。
シルヴァが低い声で言った。
「未帰還が一名いる。救出班は出す。城塞も同意してる」
ガレスが頷く。
「出す。今夜だ」
今夜、という言葉が落ちた瞬間、アルヴィンの喉が小さく鳴った。
怖いのか、悔しいのか、分からない音。
俺は鼻で息をした。
(……墨が濃い)
洞の湿気じゃない。紙とインクの匂いの奥に、湿った墨。
それがこの輪の中心に、じわっといる。
◇
「で、未帰還者の名前は?」
ガレスが言った。
治療テントの中から、意識のある男が弱い声で答えた。
「……ヘン……。ヘン、リ……」
そこで詰まった。
男は自分の喉を掴むみたいにして、必死に続けようとする。
「ヘンリ……く……っ」
出ない。
ミリアが顔色を変える。
「ショックで言葉が——」
「違う」
男が首を振った。青い顔のまま。
「……言えるはずなんだ。ずっと一緒だった。
なのに、ここだけ……引っかかる……」
バルドが舌打ちした。
「ふざけんな。名前だぞ」
俺の鼻が、ちくりと鳴った。
男が名前を言おうとするたびに、墨の匂いが一段濃くなる。
(消してる……?)
シルヴァがアルヴィンを見た。
「紙」
アルヴィンが反射で、胸の内側の書類束を出しかけて、止めた。
昨日から、学んだ動き。
「……砂板、あります」
城塞の書記が、机の上に小さな板を出した。砂を薄く敷いた、書くための板。
「これなら紙じゃない。刻めます」
アルヴィンが震える指で、砂板の上に木の棒を走らせた。
ヘン――
そこまで書いたところで、砂の上の溝が、すうっと崩れた。
風が吹いたわけじゃない。
砂が勝手に“埋まる”みたいに戻る。
アルヴィンの顔が、はっきり青くなった。
「……消える」
ガレスが歯を食いしばる。
「文字そのものを——」
ミリアが低い声で言った。
「“成立”を壊す気ね。名前が残らなきゃ、未帰還も“なかったこと”にできる」
マルトンが、丁寧に咳払いをした。
「……過度な推測は——」
「推測じゃない」
シルヴァが言い切った。
「今、目の前で消えた」
マルトンは口を閉じた。閉じたまま、視線だけを動かす。
まるで「誰が見ているか」を測るみたいに。
その仕草が、嫌に“室内っぽい匂い”と合っていた。
◇
俺は一歩前へ出て、息を吸った。
(……木)
湿気と鉄と血の匂いの奥に、乾いた木の匂いが一筋ある。
古い。削れた。握りしめられた匂い。
「……あります」
俺が言うと、全員がこちらを見た。
「名前、残ってるやつ。紙じゃない。砂じゃない。
……木に、刻んだ匂いがします」
「どこだ」
レイヴァンが短く言った。
俺は治療テントの方を指した。
担架の横、荷袋の口。そこに小さな木片がぶら下がっている。
兵が慎重にそれを外し、こちらへ持ってきた。
木札。
薄い木に、刃物で刻んだ文字。
——ヘンリク。
刻みだから、滲まない。
消すなら削るしかない。
意識のある男が、それを見て息を吐いた。
「……そうだ。ヘンリク。
……俺、言えなかった……」
その声が、泣きそうで、腹が痛くなった。
ミリアが唇を噛む。
「木に刻んだの、正解だったわね……」
アルヴィンが木札を見つめたまま、小さく言った。
「……紙より、強い」
その言葉は、妙に重かった。
◇
「救出班を出す」
ガレスが宣言した。
「未帰還者――ヘンリクを回収する。生死は問わない。
ただし、見捨てない」
マルトンが口を開く。
「規定上、Fは——」
「お前らが一緒だからな」
レイヴァンが、マルトンを見ずに言った。声は低い。
「無茶はしない。……角までだ」
短い言葉に、余計な反論を挟む隙がなかった。
バルドが続ける。
「俺が前に出る。レイヴァンもいる。
Fは線の運用。……ただし、レオンの鼻は要る」
俺の鼻のことを、俺以上に当たり前に言うのが腹立つ。
でも、止められないのも分かってる。
シルヴァが頷いた。
「紙は使うな。名前は木札に刻め。記録は“別紙”じゃなく“刻印”で残す」
「刻印……?」
アルヴィンが目を上げた。
「印章は汚れました」
「なら、石に刻め」
シルヴァは淡々と言った。
「遅い? 遅い方がいい。
消されないなら、それでいい」
ガレスが兵に命じる。
「石板とタガネ(刻み具)を持ってこい。
今夜の動きは、城塞が“刻んで残す”」
その命令で、ようやく空気が“守り”の方向に揃った。
マルトンだけが、丁寧な顔のまま、ほんの少し唇を薄くした。
「整える」余地が減った顔だ。
◇
準備が始まった。
石灰袋が追加され、封印札は紙じゃなく布に縫い付けたものが出てくる。
縄は使いどころを選ぶため、短く切って束にする。
ノーラは治療師に肩を押さえられて、歯を食いしばった。
「……行けないの?」
「ダメだ」
治療師が言い切った。
「次は腕が落ちる。お前が守りたいものが守れなくなる」
ノーラは悔しそうに笑って、でも頷いた。
「……分かった。じゃあ、ここを守る」
その言葉が、いちばん強かった。
俺は木札――ヘンリクの名前を握った。
指に木のささくれが刺さる。
でも、その痛みが現実で、少しだけ落ち着く。
洞の入口を見た。
湿気がゆっくり息をしている。
その息の中に、墨の匂いが混ざっている。
それでも、木の匂いは残っている。
消せないものも、まだある。




