第64話 戻らない帰還班
印章室を飛び出した瞬間、城塞の石の匂いが一気に薄まった。
代わりに来るのは、霧紺の洞の湿った空気――と、その奥に混ざる薄い黒。
角笛がもう一度鳴った。短く、切るように。
「霧紺の洞、入口で異常! 帰還班が戻ってない!」
伝令の声が、追いかけてくる。
ノーラが肩を押さえたまま早足になる。歩幅が小さい。小さいのに、無理に速い。
ロウは指を握って開いてを繰り返している。縄を投げるための確認みたいに。
ミリアが低い声で言った。
「……戻ってない、って、どこで途切れたの」
「入口の検疫線まで来てない」
伝令が答える。
「最後の合図が――搬送路の角の手前だ」
角。
また、あそこ。
でも、同じじゃない。
“戻ってこない”は、ただの異常じゃなくて人命だ。
◇
入口の柵の前は、すでに小さな戦場みたいになっていた。
荷車が止められ、列が崩れている。
帰還予定だった班の名前が叫ばれ、返事がない。
騎士団の兵が槍を立て、ギルドの調査班が机を片づけ、上位ランクが鎧を鳴らして集まっている。
その中央で、監察官マルトンが“落ち着いた顔”を作っていた。
「……未帰還は、あくまで未帰還です。遭難と決めつけるのは——」
「黙れ」
ガレスの一言が、空気を切った。
「ここは現場だ。決めつける前に拾う。拾わねば死ぬ」
マルトンは口元を引き締め、アルヴィンをちらりと見た。
アルヴィンは台帳を抱えていない。今日は紙束だけだ。胸の内側に抱えて、顔色が悪い。
バルドも来ていた。舌打ちして前へ出る。
「……ったく。帰還班は誰だ」
騎士団の兵が答える。
「Cランク混成の回収班だ。前線じゃない。入口寄りを回る役だ」
回収班が戻らない。
つまり、入口寄りがもう入口寄りじゃない。
ガレスが即断した。
「救出班を出す。規定は後だ。線は守る。……しかし今は拾う」
マルトンが口を開きかける。
「その救出の記録は——」
「生きて戻ってから書け」
シルヴァが低い声で遮った。
◇
洞へ入る。
入口の灯りが背中で遠ざかると、湿気が濃くなった。
霧紺の洞の石は、濡れているのに冷たい。
先頭はレイヴァン。半歩後ろにバルド。
その後ろに俺たち。ノーラは真ん中。倒れたらすぐ支えられる位置。
ミリアが小声で釘を刺す。
「線のこちら側。深入りしない。……でも、見捨てない」
矛盾してる。
だけど矛盾を抱えたまま進むしかない。
角が近づくにつれて、匂いが濃くなった。
血。鉄。焦げた布。
そして墨――新しい墨の匂い。
(昨日の筆……)
頭の中に、封鎖扉の前で線をなぞっていた男の背中が浮かぶ。
角を曲がった。
そこにあったのは、戦闘跡じゃなかった。
“途中で消えた”跡だった。
石灰の筋が乱れ、荷を引きずった跡が途切れている。
足跡も、ある一線で薄くなって、そこで終わっている。
バルドが低く言う。
「……持っていかれたな」
レイヴァンが壁を見た。
「壁が濡れてる。……違う。濡れ方が不自然だ。ここだけ“墨”だ」
壁の目地が、薄く黒い。
石に書いた線。消そうとしても消えていない線。
俺の鼻が、ちくりと鳴った。
(ここ、抜ける)
空気がほんの少しだけ逆向きに流れている。
洞の湿気じゃない、古い空気。
「この壁……」
俺が言い終わる前に、ノーラが一歩前へ出た。
肩を押さえたまま、壁に手を当てる。
「……人の匂い、する。近い」
近い。
壁一枚、の感覚は合ってる。
ミリアが息を吐いた。
「隠し石……じゃない。上書きされた“隠し線”」
ロウが縄を握り直す。
「開けると、来る」
「来る前に、開ける」
レイヴァンが短く言った。
バルドが石に手をかける。
力任せじゃない。目地を探して、こじる。
ぎ、と湿った音。
壁が――ほんの少し、ずれた。
その瞬間。
墨の匂いが、噴き出した。
◇
黒い“糸”が飛び出した。
細い。針みたい。
狙いは分かりやすい――足首。
「下がれ!」
レイヴァンの声が飛ぶ。
ノーラが反射で足を引く。
引くのが――遅れる。足首がまだ痛い。
墨の糸が、ノーラの靴の縁に触れた。
「っ……!」
冷たさが走る。
触れただけなのに、持っていかれる感覚。
俺は迷わなかった。
石灰を掴んで、糸に叩きつけた。
白が黒を噛むみたいに絡みつき、動きが鈍る。
その瞬間、短剣で“根”を刺す。
ぱちん、と糸が切れた。
ノーラが息を吐く。
「……ありがと」
言った声が少し震えていた。
だが、糸は一本じゃなかった。
壁の隙間から、もう二本。三本。
床を舐めるように這い、今度はロウの手元へ伸びる。
縄。
“線”を狙ってくる。
「ロウ、手を引いて!」
ミリアが叫ぶ。
ロウが歯を噛み、縄を投げるのをやめた。
代わりに、足で踏んで固定する。正しい。……でも、きつい。
墨の糸がロウの足元へ絡み、ぐい、と引いた。
「っ……!」
ロウの体が半歩崩れる。
崩れた分だけ、壁の隙間が開く。
開いた隙間の向こうから――声がした。
「……たす、け……!」
生きてる。
近い。近いのに、壁一枚。
バルドが舌打ちする。
「救出する。今!」
レイヴァンが壁を押し広げる。
その瞬間、黒い影が“落ちてきた”。
鳥でもネズミでもない。
人の形に近い。
でも顔がない。墨を固めたみたいな“兵”だ。
影兵。
影兵は、こちらへ飛びかからず――壁の隙間を塞ぐように立った。
救出の邪魔をするために。
「……邪魔すんな!」
バルドが斬りかかる。
刃が入った。入ったのに、影兵は“裂けるだけ”で倒れない。
裂けた影が、墨の糸になって床へ散った。
「切ると増える!」
ミリアが叫ぶ。
レイヴァンが一瞬だけ動きを止め、判断を変えた。
大剣を振り下ろさない。柄で叩く。押し倒す。
「押せ。潰せ。撒け」
短い指示が飛ぶ。
カイが石灰を撒く。
白の上で、影兵の輪郭が崩れる。
ミリアの光が床に刺さる。
「ライト・ピン!」
影兵の足元が縫い止められる。
止まる。止まるが、まだ息をしている。
ノーラが丸盾を構えようとして、肩が一瞬だけ抜けたみたいに顔が歪んだ。
「っ……!」
盾が落ちかける。
その半拍を、影兵が見逃さない。
影兵の腕が伸び、ノーラの肩口へ――
俺は短剣の柄で叩いた。
叩いて、ずらす。ずらして、ノーラを後ろへ引く。
「無理すんな」
言った声が、自分でも硬かった。
「……無理してない。立ってるだけ」
ノーラは笑おうとして、やめた。
立ってるだけが、いま一番きつい。
◇
「こっちだ!」
壁の隙間の向こうから、また声。今度ははっきり。
隙間の中に、倒れている男が見えた。
鎧の肩。回収袋。血の匂い。
ロウが踏ん張る。
「開ける……今!」
足元の墨の糸を踏みつけたまま、ロウは指で石の縁を引っかけて壁をずらした。
指の傷が開く。血がにじむ。
でも止まらない。
壁が開いた。
中は、旧い通路――じゃない。
旧い通路の途中に作られた、狭い“溜まり場”みたいな空間だ。
そこに、帰還班が二人倒れていた。
一人は意識がある。もう一人は、ぐったりしている。
意識のある方が、青い顔で言った。
「……扉が……息を……。それで、こいつが……書いて……」
“書いて”。
筆の男。
ミリアが膝をついて、倒れている男の首元に手を当てた。
「生きてる。……でも冷えてる。黒が混ざってる」
レイヴァンが背中越しに言う。
「運ぶ。いまここで止めるな」
バルドが呻く。
「もう一人は?」
意識のある男が、唇を震わせた。
「……引きずられた。奥へ。……線の向こうへ……」
奥。
線の向こう。
助けた。
でも、まだ全員じゃない。
影兵が、また形を整えようとした。
石灰の白の上で、黒が寄り集まる。
(核)
俺は息を止めて、寄り集まる中心を探した。
影の中心は、壁の隙間――“書いた線”の上だ。
線が核になってる。
俺は短剣でその線を削いだ。
石の上の黒い線を、刃先で“削り取る”。
削った黒が、ふっと力を失う。
影兵の輪郭が一瞬、崩れた。
「いま!」
ミリアが光の杭を追加する。
止める。止めるだけ。倒さない。
レイヴァンとバルドが、救出した二人を抱える。
ノーラが肩を押さえながらも、出口側へ体を寄せて道を作る。
ロウは血のにじむ指で、墨の糸を踏みつけたまま離れない。
カイがそのロウの肩を叩く。
「撤収! 撤収! 英雄ごっこは後!」
軽口の形をした合図。
俺たちは“線のこちら側”へ戻るように、壁を閉じた。
閉じた瞬間――中から、かすかな笑い声が聞こえた気がした。
墨の匂いに混ざって、丁寧な匂いが一瞬だけした。
◇
入口まで戻る間、救出した男が、息を吐きながら言った。
「……あいつ……封印を……綺麗にしてた……。
綺麗にすると……“安全”って言えるから……」
ミリアの目が冷える。
「見せるための封印。見せるための安全」
ガレスが入口で待っていた。
救出者を見て、顔色が変わる。
「……生きてるか」
「二名。もう一名は奥へ引きずられた」
レイヴァンが簡潔に報告する。
ガレスの拳が、槍の柄をぎり、と握りしめた。
「奥へ……」
シルヴァが低い声で言った。
「……線の向こうだ。もう、“こちら側”だけじゃ拾えない」
その言葉が落ちた瞬間、洞の入口の湿気が――ひとつ、深く息をした気がした。
そして、誰も笑っていないのに、どこかが笑っている気がした。
俺は短剣の柄を握り直した。
守る線が割れかけている。
割れる前に、拾わなきゃいけないものが、まだ残っている。




