第63話 印章室と、黒い線
城塞の石倉庫を出たあとも、鼻の奥の嫌な感じが抜けなかった。
受領印の匂い。紙の匂い。そこに混ざる墨の匂い。
嫌な匂いほど、残る。
詰所に戻って、水を飲もうとしたところで――
「来い。城塞側だ。印章室」
騎士団の伝令は、息が上がっていた。
走ってきた匂いがする。焦りの汗の匂い。
「……印章室?」
ミリアが眉を動かす。
「受領の印章が汚れた。あれが“動いた”」
伝令が言った。
動いた、という言い方がもう嫌だった。
◇
印章室は、城塞の内側でもさらに奥まった場所にあった。
石の壁、鉄の扉、鍵が二つ。見張りが二人。中は紙と蝋の匂いが濃い。
入った瞬間、空気が違った。
洞の湿気じゃない。室内の乾き。
それに――湿った墨の匂い。
(新しい)
今日、ここで“書いた”匂いだ。
ガレスが室内の机を指した。
「これだ」
机の上には、印章が載っていた。
丸い金属の印。持ち手の部分に城塞の紋。
……表面に、黒い筋が一本。
筋は傷じゃない。
墨みたいに、薄く光っている。
書記が青い顔で言った。
「さっきから、勝手に“滲む”んです。拭いても、拭いても」
「拭かないで」
ミリアが即断した。
「拭いたら広がる」
ロウが、手袋の上から指を曲げる。
縄を扱う指が、まだ痛むのが分かる。
ノーラは肩を押さえたまま、机の前に立った。
丸盾を持ってきていない。ここは狭すぎるからだ。
カイが、空気を吸って顔をしかめる。
「……紙の匂い、濃いな。ここ」
「当たり前だ。ここは“押す場所”だからな」
ガレスが言う。
押す場所。
印を押して、紙を“成立させる”場所。
成立させる場所が汚れたら――全部が止まる。
止まれば誰かが困る。
困る誰かが、必死になる。
俺は印章に鼻を近づけすぎないように、息をした。
(黒い石の残り香……少し)
洞の黒と、同じ系統。
でも洞よりも薄い。紙と墨に混ぜた種類の薄さ。
「レオン」
ガレスが俺を見た。
「これ、危険か」
「……危険です」
俺が言った瞬間、印章の黒い筋が、ふっと震えた。
筋が“動く”というより、筋の下で何かが息をした。
書記が小さく声を漏らす。
「ひっ……」
◇
黒い筋が、印章の表面から剥がれた。
剥がれた黒は、紙みたいに薄く広がり、形を持つ。
鳥じゃない。糸でもない。
――細い“蛇”みたいな形。
黒い線の蛇が、机の上を這った。
印章から、紙へ。紙から、蝋へ。
まるで「線」を探しているみたいに。
「動くな!」
ガレスが怒鳴るが、蛇は音に反応しない。
反応するのは“匂い”と“線”だ。
ミリアが杖を上げる。
「ライト・ピン」
光の杭が机の縁に刺さり、蛇の進路を縫い止める。
止まる。止まるが――消えない。
蛇は、杭の手前で身体を薄くし、机の木目に沿って“抜け道”を探した。
「っ……!」
ロウが反射で縄を投げかけて、途中で止めた。
縄は“線”だ。ここで絡ませたら、逆に食われる。
カイが石灰袋を構える。
「撒く?」
「撒け!」
ミリアが言うより先に、俺が言っていた。
カイが机の上へ、白い粉を薄く撒く。
蛇の輪郭が一瞬だけ浮いた。
黒の中心が、少し濃い。
(核、ある)
墨の線にも核がある。
昨日、紙から鳥が出たときと同じだ。
俺は短剣を抜いた。今度は抜く必要がある。
柄で叩くより、刺したほうが早い。
蛇の頭――濃い部分へ、真っ直ぐ刺す。
刺さった感触は、冷たい布。
次の瞬間、蛇がびく、と跳ねた。
跳ねた先が悪かった。
蛇は机の端から落ち、床に落ちる――と思ったのに、落ちない。
床に敷いてあった書類束の角に、ぴたりと貼りついた。
紙の角。
受領印の欄。
書記の見習いが反射で手を伸ばした。
「だ、だめ! それ、触――」
ノーラが声を上げたときには遅かった。
見習いの指先に、黒い線がすっと絡んだ。
「っ……冷たい!」
見習いが膝をつく。
指先が白くなりかけている。血の気が引く白さ。
ノーラが一歩出る。出るのが遅れる。肩が痛むから。
その遅れを埋めるように、ミリアが杖を振った。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さり、黒い線の蛇を“固定”する。
固定はできた。だが、見習いの指にはまだ絡んでいる。
俺は迷わず、石灰を掴んで指先へ擦り込んだ。
粉を撒くんじゃない。塗りつける。
黒が白に吸われるみたいに、動きが鈍る。
その鈍った瞬間、短剣の先で“黒い濃いところ”だけを削いだ。
ぺり、と剥がれる。
見習いが息を吐いた。
「……う、動く。指、動く……」
指先は真っ赤に腫れていた。
火傷じゃない。冷えで焼かれたみたいな腫れ方。
ガレスが歯を食いしばる。
「……ここでこんなものが出るのか」
「出る、じゃない」
ミリアが低い声で言った。
「出してる。線を通って」
◇
黒い線は、石灰と光で固められたまま動かなくなった。
でも床の紙は、汚れた。
受領印の欄が、黒く滲んでいる。
書記が震える声で言う。
「……これでは、今日の引渡が全部止まります」
「止めろ」
ガレスが即答した。
「止めなきゃ、城塞の中で出る。人の多い場所で出たら終わる」
書記が青い顔で頷いた。
城塞の人間は、守りの判断が早い。
アルヴィンが、壁際に立っていた。
今日は“丁寧な顔”をしていない。眼鏡の奥の目が、疲れている。
「……印章も紙も、汚されるなら」
アルヴィンが呟いた。
「“成立”そのものを壊す気ですね」
ミリアが一度だけアルヴィンを見る。
「やっと同じ景色が見えた?」
アルヴィンは返事をしなかった。
返事の代わりに、喉が小さく鳴った。
悔しいのか、怖いのか、分からない音。
俺は床に固まった黒い塊を見た。
石灰に吸われて、動かない。
でも、匂いは残る。
墨の匂い。
そして――ほんの少しだけ、香油の匂い。
(……上品なやつ)
昨日も今日も、同じ種類が混ざる。
ガレスが言った。
「この部屋の“墨壺”と“印章”を全部隔離する。
今日から、印は代替に切り替える。書類も最低限だ」
書記が青い顔で頷き、別の棚を開けた。
その棚の奥――小さな陶器の墨壺が並んでいる。
そこから、嫌な匂いが一本、細く伸びていた。
「……あれ」
俺が言うと、全員の視線が墨壺へ向いた。
ミリアが、杖先で指す。
「レオン、どれ?」
「右から……二つ目」
鼻がそう言ってる。
黒い石の残り香が、そこだけ強い。
ガレスが兵に命じた。
「触るな。布ごと包め。箱ごと封緘しろ」
兵が布を持ってくる。
その瞬間、墨壺の口から、ふっと黒い線が立ち上がった。
さっきの蛇ほど大きくない。もっと細い。針みたいな線。
線は、まっすぐ“印章”へ向かった。
戻る。
戻って、“もう一度書く”。
「来る!」
俺が叫ぶより早く、ミリアの光が床に刺さる。
「ライト・ピン!」
杭が線の進路を止めた。
止まって、線がふっと揺れる。
揺れた線が、アルヴィンの足元へ落ちた。
アルヴィンが反射で一歩引いた。
引いた拍子に、抱えていた書類束が床へ落ちた。
紙が散る。
紙が散る――その音が、嫌に大きい。
黒い線が、散った紙の上を走った。
そして――文字の間を縫うように、“主語”の位置へ伸びた。
「っ……!」
アルヴィンが顔色を変える。
「やめろ……!」
言った声は、丁寧じゃなかった。
本気の声だ。
俺は短剣を投げなかった。投げたら紙が裂ける。
紙が裂けたら、黒が広がる。
だから、白。
石灰をひとつかみ、紙の上へ落とした。
黒い線が白に吸われて、動きが鈍る。
その一瞬で、指先で紙を“はじく”。
黒の線が乗っている紙だけを、床から跳ね上げて離す。
紙が宙を舞った。
そこへ、ノーラが――遅れてでも、盾の代わりに身体を寄せた。
「……こっち!」
肩が痛いのが顔に出る。
でも、それでも紙を受ける。
紙がノーラの腕に当たった瞬間、黒い線が腕へ移ろうとした。
「ノーラ!」
俺は石灰を腕に擦り込んだ。
黒が白に吸われ、移る前に止まる。
ノーラが息を吐いた。
「……大丈夫。まだ、いける」
でも、腕が震えていた。
肩の痛みが、もう限界に近い震え方。
ミリアが唇を噛む。
「……これ、狙ってる。遅れたところを」
ロウが低く言った。
「狙って、主語を消す」
アルヴィンが床に散った紙を拾おうとして、手が止まった。
自分の紙が怖い、という顔だった。
◇
墨壺は封緘された。印章も隔離された。
印章室は半ば封鎖になった。
でも、勝った匂いはしなかった。
ガレスが低い声で言う。
「……城塞の中でここまでやれるなら、次はもっと雑に来る」
「雑に?」
カイが聞く。
「人の多いところで出す。止めにくい場所で出す。
入口の“宣言”みたいにな」
ミリアが杖を握り直す。
「つまり、次は……」
ガレスは頷いた。
「入口だ。洞だ。
――“線のこちら側”が、もう安全じゃない」
その言葉が落ちた瞬間、遠くで角笛が鳴った。
城塞の合図。
嫌な合図。
伝令が駆け込んでくる。
「霧紺の洞、入口で異常! 帰還班が――戻ってない!」
空気が一気に張る。
ノーラが肩を押さえたまま立ち上がった。
「……行く」
ミリアが一瞬だけノーラを見る。止めない。止められない。
俺は鼻で息をした。
洞の湿気の匂いの向こうから、薄い黒い匂いが――もう、こっちへ来ている。
紙の中だけじゃない。
印の中だけじゃない。
“線”が、割れかけている。




