第62話 引渡書と、消える印
夜のうちに封緘した木箱は、朝の冷えの中でも温度が抜けきっていなかった。
蜜蝋の匂いが、石灰の粉っぽさに混ざって鼻の奥に残る。
詰所で水を飲んでいると、シルヴァが来た。いつもより顔が硬い。
「今日から流れを変える」
昨日言っていた「流れ」が、本当に動く日だ。
「回収品、封緘物、別紙——全部、城塞側の保管庫へ回す。街中を通さない」
ミリアが眉を動かす。
「騎士団預かりを強めるってこと?」
「強めるっていうか……“紙の道”を切る」
シルヴァの言葉は短い。
説明が短い日は、だいたい面倒が増える。
「運ぶのは……俺たちですか」
カイが言うと、シルヴァは頷いた。
「お前らが一番“混ざり物”に早く気づける。……特にレオンだ」
俺は反射で鼻を鳴らした。
褒められた感じがしないのは、たぶん嫌な匂いがもう混ざっているからだ。
◇
荷車は二台。
ひとつは封緘瓶と台帳の木箱。もうひとつは回収品の木箱と封印札の束。
騎士団の兵が四人つき、ガレスが前に立つ。
そして最後尾に、眼鏡のアルヴィンがいた。台帳を抱えない代わりに、分厚い書類の束を抱えている。
「……引渡書です」
アルヴィンが、顔を上げずに言った。
「城塞側へ移す以上、記録が必要です。受領印も。紛失や改竄の——」
「改竄は、もう起きてる」
ミリアが淡々と返す。
アルヴィンの口が一瞬だけ止まる。
止まって、また動く。
「……だからこそ、規定の手順が」
シルヴァが、アルヴィンの書類束をちらりと見た。
「その紙、出来るだけ出すな。風に晒すな。……持つなら胸の内側だ」
「……?」
アルヴィンが怪訝な顔をした。
しかし反論はしない。昨日から、彼の“正しさ”は何度も黒に汚されている。
出発の前、俺は荷車の木箱に鼻を寄せた。
(……封緘は、まだ大丈夫)
蜜蝋と石灰。封印札の糊。
そして、薄い黒。薄いけど、閉じ込められている黒。
問題は別だ。
アルヴィンの抱えた紙束のほうから、乾いたインクの匂いに混ざって——昨日の封鎖扉で嗅いだ墨の匂いが、ほんの少しだけ漏れている。
俺が何か言う前に、シルヴァが小さく言った。
「……顔に出すな」
出てたらしい。
俺は黙って頷いた。
◇
城塞側の保管庫は、街の北側——門の内側にある石造りの倉庫だ。
道は短い。短いのに、今日は長く感じた。
人の目が多い。
昨日の“紙から黒が出た”騒ぎは、もう噂になっている。
口に出すのは小声でも、視線は正直だ。
「なぁ、あれ昨日のやつだろ」
「Fが止めたって……」
「いや、監察官が——」
ガレスが前を歩きながら、振り返らずに言った。
「目を合わせるな。群衆は群衆だ。今は荷を守れ」
ノーラが借り物の丸盾を抱え直す。
肩の痺れと足首の痛みが残っているせいで、動きが一拍遅れる。本人も分かっている顔だ。
ロウは縄を巻いた手を見て、指をきゅっと曲げた。
擦り傷は閉じかけているが、力を入れると痛む。
カイは、珍しく軽口を言わない。
言わないで、周囲の影を見ている。
そしてミリアは、杖を握ったまま、視線だけを動かしていた。
◇
城塞の石倉庫は、門の内側でもさらに奥まった場所にある。
入口には鉄格子。受領の机。騎士団の書記。
「引渡書を」
書記が言う。
アルヴィンが紙束を出した。
胸の内側から。風に晒さないように。
……その瞬間だった。
紙の角が、ふっと滲んだ。
インクが滲むのとは違う。
紙そのものが、黒く“染まりたがる”滲み方。
(来る)
俺の鼻が鳴る。
「止めて」
言ったが、止めるのは言葉じゃない。
滲みは紙の端から走り、受領印の欄へ伸びた。
受領印の欄だけが、黒く汚れる。
書記が顔をしかめる。
「……印が押せませんが」
「押せる。押すな」
ミリアが即断した。
アルヴィンが青い顔で言う。
「これでは受領が成立しません。記録が——」
「成立しない方が困る人がいるなら、成立させたらもっと困る」
ミリアの声は冷たい。
次の瞬間、紙の黒が“羽”になった。
薄い黒い鳥が一羽。
昨日と同じ。だけど、今回は静かだ。叫び声も出ない。
黒い鳥は、受領の机の上を滑るように飛び——押印用の印章へ向かった。
「……っ!」
アルヴィンが反射で手を伸ばしかける。
伸ばしかけて、止めた。
止めた隙が、危ない。
黒い鳥が印章に触れた瞬間、印章の表面に黒い筋が走る。
“印”が汚れる匂いがした。
ガレスが怒鳴る。
「下がれ! 印章に触れるな!」
騎士が槍を構える。
だが槍は紙を突けない。突けば破片が飛ぶ。
ノーラが丸盾で机の前に立とうとして——一歩が遅れた。
黒い鳥が、盾の縁をすり抜けてノーラの顔へ向かう。
「ノーラ!」
石灰袋を掴んで、机の脚に叩きつける。
袋が裂け、白い粉が舞う。
白の中で黒が輪郭を失い、鳥がふらついた。
その一瞬で、短剣の柄で“叩く”。
黒が紙みたいに折れて、床に落ちた。
落ちた黒が石の床に染みる前に、カイが追い撒きする。
「白いのは正義だ、白いのは……!」
口調は軽いのに、声が硬い。
場を保つための声。
ロウが縄を投げた。
鳥の残り滓に縄が絡む。絡んだ瞬間、縄の繊維が黒く染まりかける。
「っ……!」
ロウが手を引いて離した。
指の傷が開いて、血がにじむ。
黒がその血の匂いに反応して、床の点が少しだけ動いた。
(まずい)
ミリアが杖を床へ向ける。
「ライト・ピン」
光の杭が床に刺さり、黒い点の動線を止めた。
止めただけで、消えない。
消えないから、怖い。
◇
騒ぎの中で、荷車の前輪が——ぎし、と鳴った。
音が嫌だ。
木が軋む音じゃない。細い糸が切れる音だ。
次の瞬間、荷車の車軸の下から黒い“糸”が伸びた。
墨の糸。封鎖扉の前で見た、あれ。
糸は車軸に絡み、くい、と引いた。
荷車が傾く。
「うわっ!」
兵が反射で支えようとして、間に合わない。
荷車は重い。木箱は固定してあるが、傾いた瞬間に“中身の気配”が動く。
封緘瓶の木箱が落ちる。
落ちたら終わる。割れたら、黒が外に出る。
ノーラが、丸盾を捨ててでも荷車に飛びついた。
「っ……!」
肩で受ける。
痛みが顔に出た。遅れた分、無理をした分が一気に来た顔。
でも、荷車は止まらない。
ロウが縄を投げようとして、指が言うことをきかない。
血が手のひらで滑って、縄が抜ける。
カイが荷車の反対側に回り込むが、人の多さで足が止まる。
避けないと、巻き込む。
俺は息を止めた。
(墨、濃いところ)
車軸の下。糸が出ている“根”の匂いが濃い。
短剣で切っても、糸は薄くなって逃げる。
だから、先に“白”で固める。
俺は石灰を、車軸の下に叩き込んだ。
粉を撒くんじゃない。押し込む。
墨の糸が、びく、と縮む。
白に絡め取られるみたいに動きが鈍る。
その瞬間、短剣を“刺す”。
糸の根元へ。
刺した感触は、布でも石でもない。
冷たい紙を貫いたみたいな、嫌な抵抗。
次の瞬間、墨の糸がぱちん、と切れた。
荷車の傾きが、止まった。
「……っ、止まった!」
ガレスが叫ぶ。
兵が一気に荷車を支える。
ノーラが荷車に肩を当てたまま、息を吐いた。
「……まだ、いける」
声は強がりじゃない。
でも、腕が震えていた。
その震えが、俺には痛いほど分かった。
俺が動かなければ、ここで割れていた。
割れていたら、何が出たか分からない。
それが分かるから、余計に息が重い。
◇
騎士団の書記が、汚れた印章を見て顔をしかめた。
「印が……」
「印は替えろ」
ガレスが即答した。
「この印章は隔離。机ごとだ」
書記が青い顔で頷く。
城塞の人間は、決断が早い。紙より早い。
アルヴィンは、汚れた引渡書を見て呟いた。
「……受領が、成立しない」
「成立しない方が、今はいい」
シルヴァが言った。
「成立したことにされて、あとで“誰が運んだか”だけ消される」
ミリアが静かに息を吐く。
「……主語が消えるの、紙だけじゃない。印まで消しに来る」
書記が震える声で言った。
「これでは、保管庫が機能しません……」
「機能させる」
ガレスが言い切った。
「機能しないなら、守れない。守れないなら城塞が落ちる」
その一言で、周囲の空気が変わった。
噂や体裁じゃない。守りの言葉になる。
シルヴァが俺たちを見る。
「今日の黒、封緘する。……“紙から出た黒”と、“車軸の糸”だ」
ミリアが小瓶を出す。蜜蝋を温める手が、少しだけ震えている。
怒りじゃない。疲れの震えだ。
ロウが床の黒い欠片を拾おうとして、指が痛んで一瞬止まった。
止まった手を、カイが黙って支える。
ノーラは肩を押さえたまま、笑おうとしてやめた。
「……ごめん、私、遅い」
「遅いんじゃない」
ミリアが言った。声は低い。
「相手が“遅れた瞬間”を狙うのが上手いだけ」
それが慰めじゃないのが、余計に痛い。
◇
封緘瓶の木箱は、城塞の石倉庫に入った。
鍵が掛かり、鎖が掛かり、見張りが増えた。
それでも、安心の匂いはしなかった。
受領印は汚れた。引渡書も汚れた。
紙の上で、また“整え”が始まる。
アルヴィンは汚れた紙を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……私の字で、後から“成立した”ことにされるかもしれない」
ミリアが目を細める。
「あなたが書かなきゃいい」
「書かなければ、別の誰かが書きます」
アルヴィンの声は震えていた。
シルヴァが言った。
「だから、お前は“書かされる側”から、“見た側”に回れ。
……見たなら、別紙に残る」
アルヴィンは返事をしなかった。
返事の代わりに、眼鏡の奥の目が一度だけ揺れた。
◇
帰り道、ノーラの肩の痺れが増したのか、歩幅がさらに小さくなった。
ロウは指の痛みを隠して縄を巻き直している。
ミリアは杖を握ったまま無言。カイも無言。
俺は鼻で息をした。
城塞の石の匂いに混ざって、墨の匂いがまだ残っている。
紙の匂いと混ざって、消えない匂いだ。
ふと、城壁の上に小さな影が見えた気がした。
犬の形。
黒い犬の影。
見上げた瞬間には、もういなかった。
見間違いだろう、と思うことにした。
でも、鼻の奥の危険信号は止まらない。
扉の息より、紙の滲みより——
今日は「印が汚れた」匂いが、いちばん嫌だった。




