第61話 台帳の黒と、消える主語
「安全」と言い切った直後に、紙から黒い鳥が飛び出した。
あれを見た人間が、何事もなかった顔で夕飯を食えるほど、この街は器用じゃない。
入口の詰所の周りは、昼より静かで、昼より落ち着きがなかった。
ざわざわするのに、声は小さい。
そういうときの空気は、たいてい“次”が来る。
俺たちが水を飲んでいると、騎士団の見張りが布をめくった。
「来い。調査班。……今すぐだ」
また“今すぐ”。
ミリアが杖を握り直す。ノーラは肩を押さえ、ロウは指に巻いた布を締め直した。
カイが小さく息を吐く。
「休ませる気、ねぇなぁ」
でも、足は止まらなかった。
◇
事務テントの中は、紙の匂いが濃かった。
紙、インク、革の帳簿。……それに、昼の黒。
机の上に広げられていたのは、アルヴィンの台帳だった。
いつも丁寧に整っているはずのページが、今日は汚れている。
黒い滲みが、点じゃない。
“線”になって走っていた。
アルヴィンは眼鏡を押さえたまま、青い顔で言った。
「……触らないでください」
声が、丁寧じゃない。
シルヴァが机の端に手を置く。
「触らない。まず見る」
ガレスもいる。鎧の金属音が、狭いテントをさらに狭くする。
「さっきから勝手に広がる」
アルヴィンが台帳のページを指さした。
「汚れを落とそうとしても、落ちない。乾かしても乾かない。
……そして、文字が」
その言葉の途中で、アルヴィンの指が止まった。
俺も見た。
ページの中段。
昼の騒ぎの記録らしい行が、途中から“抜けている”。
書かれているのは、こうだ。
――『宣言文が汚損し、異常が発生。現場にて鎮静化した。』
誰が、とは書いていない。
もともと書いてあったはずの名前の部分が、綺麗に白くなっている。
紙が削れたわけじゃない。
文字だけが、抜き取られたみたいに。
ミリアが低い声で言った。
「……主語だけ消えてる」
アルヴィンが顔を上げる。
「規定上、主語は――」
「今それ言う?」
カイが珍しく噛みついた。声が硬い。
アルヴィンは口を閉じた。
閉じたまま、台帳を守るみたいに両腕で抱え直す。
俺は鼻で息をした。
(……墨)
昨日の扉。
昼の宣言文。
そして今、この台帳。
同じ匂いがする。インクじゃない。インクに混ざった“黒”。
その黒の奥に、ほんの少しだけ――黒い石の残り香。
「混ざってます」
俺が言うと、全員の視線が来た。
「インクに、黒が。……石の匂いも少し」
シルヴァの目が細くなる。
「石……」
「洞の黒と同じ系統?」
ノーラが小さく言う。肩の痛みを耐える顔のまま。
俺は頷いた。
「たぶん。だから紙から出た」
ガレスが舌打ちした。
「紙が武器になるのかよ」
「武器っていうより……道具です」
ミリアが言った。
「“書く”ための」
アルヴィンが、唇を薄く結んだ。
「……これは、ギルドの台帳です。燃やすとか、隔離するとか、勝手な――」
「勝手じゃない」
シルヴァが低い声で遮った。
「今日、紙から“出た”。
明日この台帳が本部に行ったら、どこで出る」
アルヴィンの眉がぴくりと動いた。
シルヴァは続ける。
「台帳ごと封緘する。いまここで。騎士団の鍵付き保管へ」
「そんな――!」
「じゃあ、代案を言え」
シルヴァの声は淡々としていて、だから怖い。
アルヴィンは言葉を探して、見つけられなかった。
◇
封緘の手順は、もう身体が覚えていた。
木箱。蜜蝋。封印札。
そして“触れないための工夫”。
ロウが布手袋を重ね、ページの角だけを持つ。
ミリアが光で、台帳の周りに“杭”を打つ。燃やさない。動きを止めるための光。
俺は鼻で、黒が濃い場所を探した。
台帳の端じゃない。
真ん中の、さっき主語が消えている行のあたり。
「そこ」
指差すと、ミリアが目を細めた。
「……その行、だけ白い」
「匂いが強い。そこが中心っぽい」
言いながら、自分でも嫌なことを言ってると思った。
中心。
つまり、意図がある。
ミリアが蜜蝋を温め、箱の縁に流し込む。
「封緘」
シルヴァが短く言う。
封印札が貼られ、押印代わりに調査班の刻印が押された。
ガレスが騎士団の鎖を掛ける。
金属が、かちりと鳴った。
アルヴィンはその音を聞いて、少しだけ肩を落とした。
安心じゃない。……諦めに近い落ち方。
「……私の記録が」
「記録は残す」
シルヴァが言う。
「残すために、今は閉じる」
◇
保管テントへ運ぶ間、入口の周りの人間の視線が妙に刺さった。
木箱は小さい。
でも、さっきから俺の鼻が拾う匂いは大きい。
乾いた布。油。
そして、影抜きの粉の匂い。
(混じってる)
誰かが、ここにいる。
保管テントの前。
兵が布を上げようとした、その瞬間――
人混みの中から、肩がぶつかってきた。
「おっと、すま――」
言い終わる前に、バルドがその腕を掴んだ。
「おっと、で済むぶつかり方じゃねえな」
ぶつかった男は、反射で腕を引いた。
引いた手の中に、細い刃が見えた。
封印札を切るつもりだ。
ロウが一歩出ようとして、指の痛みで半拍遅れる。
ノーラは丸盾を上げるが、肩の痺れが残って動きが硬い。
その“半拍”を、男が狙った。
木箱へ手が伸びる。
俺は短剣を抜かなかった。
抜くより早い方法がある。
男の手首を、柄で叩く。
「っ――!」
刃が落ちる。
落ちた刃を、ミリアの光が床へ縫い止めた。
「動かないで」
ミリアの声は低い。静かで、刺さる。
男は舌打ちして後ろへ跳ぶ。
跳ぶ先に、兵がいる。兵が槍を向ける。
……男はそこで止まらず、布の影へ潜るように身を翻した。
影抜き。
抜け方が、盗賊のそれだ。
「待て!」
バルドの怒号が飛ぶ。
だが人混みが壁になって、男の姿は消えた。
残ったのは、床に落ちた刃と――
切れ端の縄。
結び目が、癖のある形をしていた。
なくし物通りで見た、あの結び。
ミリアが唇を噛む。
「……来たわね。物じゃなくて、“書くもの”を狙って」
ガレスが兵に怒鳴る。
「周囲を固めろ! 通行止めだ!」
でも、もう遅い。
狙いは“奪うこと”じゃない。
“触れること”だったのかもしれない。
俺は木箱を見る。
封印札は無事。蜜蝋も割れてない。
それでも、嫌な予感がした。
◇
保管テントに木箱が収まり、鍵が閉まった。
シルヴァが一息つく。
「……よく止めた」
「止めただけです」
俺が言うと、シルヴァは何も言わずに頷いた。
ミリアが、テントの外で小声で言った。
「ねえ。あいつ、箱を奪う気じゃなかった」
「触って、何かした?」
カイが眉を寄せる。
俺は鼻で息をした。
(……インクが濃い)
木箱から、匂いが増えている気がする。
増えているというより、“混ざった”。
シルヴァが鍵を開けさせ、木箱の上からだけ確認した。
蜜蝋は割れていない。封印札もそのまま。
……なのに。
箱の中から、紙が擦れる音がした。
誰も触ってない。
なのに。
アルヴィンが青い顔で言う。
「……勝手に、書き換わってる」
「何が」
ミリアが問う。
アルヴィンは震える指で台帳の端を少しだけ開いた。
封緘の隙間から覗ける範囲。ほんの数行。
そこには、さっきと同じ文があった。
――『宣言文が汚損し、異常が発生。現場にて鎮静化した。』
そして、その下に追記が一行。
――『混乱を避けるため、詳細は記載しない。』
ミリアが、ゆっくり息を吐いた。
「……紙が、自分で“都合のいい書き方”をした」
シルヴァの顔が、冷えた。
「違う。書かせた奴がいる」
ガレスが低く言う。
「つまり、敵は現場だけじゃない。……記録の中にも手を伸ばせる」
アルヴィンが唇を噛んだ。
その表情が、悔しさなのか恐怖なのか、俺には判別できなかった。
ミリアが、俺の横で小さく言った。
「主語が消えるの、ただの比喩じゃなくなってきたわね」
俺は返事ができなかった。
鼻の奥が、ずっと危険信号を鳴らしている。
洞の“息”より、紙の“滲み”の方が近い。
そう感じるのが、たぶん一番嫌だった。
シルヴァが短く言った。
「明日から、回収品の流れを変える。
運ぶもの、書くもの、触れるもの……全部だ」
それは作戦というより、宣告だった。
入口の霧が、今日もゆっくり息をしている。
でも、その息の中に――墨の匂いが、確かに混ざっていた。




