第60話 安全宣言と、滲む墨
!祝60話!
朝の霧が薄い日ほど、嫌な匂いがよく分かる。
入口の詰所へ呼ばれて歩く途中、洞の湿気に混ざって――乾いた紙とインクの匂いがした。
昨日、封鎖扉の前で嗅いだ“新しい墨”と同じ種類。
ミリアが小さく舌打ちする。
「来るわね、これ」
「来てる」
俺は鼻で息をして、そう答えた。
◇
臨時の会議テントは、いつもより人が多かった。
騎士団の兵。ギルドの調査班。上位ランクの冒険者。
そして、綺麗な外套を着た監察官マルトンと、その背後に眼鏡のアルヴィン。
マルトンは机の上に一枚の書類を置き、丁寧に言った。
「昨夜の“騒ぎ”は把握しました。
よって本日付で、霧紺の洞入口の運用を“平常”へ戻します」
ミリアの眉が動く。
「平常?」
「過度な警戒は噂を育てます。噂は暴動を呼ぶ。
危険は危険として、しかし“正しい形”で扱う必要がある」
正しい形。
またその言葉だ。
シルヴァは机に手を置いたまま、声を低くした。
「昨日の扉を見たのか」
「見ました」
マルトンが即答する。
「封鎖は“適切に施されている”。扉は閉じている。
壁面の補強も確認しました。よって――」
彼は書類の上に羽根ペンを置いた。
「“安全”です」
空気が、少しだけ凍った。
バルドが低い声で吐き捨てる。
「……安全なわけねえだろ。あの扉、息してたぞ」
「“息”とは比喩ですか?」
マルトンが眉一つ動かさずに言う。
「憶測で人は動きます。噂話で街は燃えます。
だから事実以外は報告書に載せない」
アルヴィンが一歩前に出る。
「現場の方々にはご理解を。記録は規定に基づき整えます」
ミリアが口を開きかけた瞬間、シルヴァが小さく手で制した。
怒鳴っても、ここでは勝てない。
シルヴァが代わりに言う。
「封緘瓶と別紙は騎士団預かりのままだ」
マルトンの視線が棚の方向へ滑った。
「確認印が必要です。
“証拠”を名乗るなら、扱いは正規の手順で――」
「正規の手順で、問題が消えるのは見た」
シルヴァが淡々と言った。
マルトンの口元が、ほんのわずかに固まる。
その一拍の間に、俺の鼻が拾った。
(……このインク)
マルトンのペン先の匂い。
昨日の封鎖扉の前で嗅いだ墨と、同じ。
俺はシルヴァの袖を軽く引いて、小声で言った。
「そのペン……扉の墨と同じ匂いがします」
シルヴァの目が一瞬だけ細くなった。
驚いた顔じゃない。腹の底で何かを確かめた顔。
「……分かった。」
◇
会議が終わる前に、外が騒がしくなった。
「集合! 監察官の通達がある!」
入口の柵の前に、人が集まり始めていた。
帰還班、荷車、検疫の当番、見物半分の冒険者たち。
マルトンは立ち上がり、外套の襟を整えた。
「現場で説明します。余計な誤解を生まぬために」
余計な誤解。
その言い方が、一番余計だと思った。
レイヴァンが、俺たちの横に来て短く言う。
「お前らもこい。一緒に行くぞ」
それだけで、背中が少し落ち着く。
守り方の上手い人間の距離だ。
◇
入口の柵の前に、簡易の台が組まれていた。
マルトンが上に立ち、アルヴィンが台帳を抱え、ガレスが兵を並ばせる。
マルトンはよく通る声で言った。
「霧紺の洞は、引き続き注意が必要です。
しかし現時点で、入口の運用は安定している。封鎖も確認されました。
よって本日より――」
俺の鼻が、ちくりと鳴った。
(来る)
洞の匂いじゃない。
台の上。紙の匂い。インクの匂い。
その奥に、薄い黒――血に混ざる前の、嫌な匂い。
マルトンが続ける。
「……不要な警戒を縮小し、上位班による管理を――」
彼が、宣言文の巻紙に羽根ペンを当てた。
その瞬間、インクが滲んだ。
普通の滲み方じゃない。
黒が、紙の上で“広がりたがる”滲み方。
「……っ」
アルヴィンのペン先が止まり、顔色が一瞬だけ変わる。
マルトンが不快そうに言った。
「インクが悪い。替え――」
言い切る前に、紙の上の黒が“羽”になった。
薄い黒い鳥が、三羽。
紙から剥がれて、空中に浮いた。
そして――人の顔へ向かった。
「下がれ!」
ガレスの怒号と、俺の声が重なる。
群衆がどっと後ろへ引いた。
引けないやつがいる。荷車の押し手、若い見張り、台帳を抱えたアルヴィン。
ノーラが反射で丸盾を上げる。
でも丸盾は狭い。
黒い鳥が、盾の外側をすり抜けて――ノーラの肩へ。
「ノーラ!」
俺は短剣を抜くより先に、石灰袋に手を伸ばしていた。
袋の口を裂く。
白い粉を、台の下から一気に撒いた。
白の中で黒が輪郭を失う。
鳥が“紙に戻る”みたいに、ふらつく。
「ライト・ピン!」
ミリアの光の釘が、床に刺さる。
逃げ道を縫う。焼かない。止める。
ロウが縄を投げる。
絡む――が、黒い鳥は薄くなって抜けようとする。
「っ……!」
ロウの指が弾かれ、血がにじむ。
鳥がその血の匂いに反応した。
嫌な向き方をする。
(血に混ざる)
俺は息を止めて、ロウの手首の近くを短剣の柄で叩いた。
鳥を潰すんじゃない。軌道をずらす。
ずれたところへ、レイヴァンの鞘が飛ぶ。
ごん、と鈍い音。鳥が紙みたいに折れて落ちた。
落ちた黒が、床に染みる前に――カイが石灰を追い撒きした。
「ほらほら、白くなれ白くなれ!」
軽口の形をしてるけど、声が硬い。
場を持たせるための声だ。
残り二羽が、今度はアルヴィンの台帳へ向かった。
まるで「書くもの」が好きみたいに。
「うわっ……!」
アルヴィンが一歩下がる。
下がった拍子に台帳の端が開き、紙が風を受けた。
黒い鳥が、その紙へ“貼りついた”。
紙の上で黒が走る。
文字の間を縫うように、妙に“綺麗に”。
――見せるための黒。
紙の上で黒がどんどんと溢れ出てくる。
「レオン、あれ、紙の上だと増える!」
「分かってる!」
俺は台の脚を蹴って、台の上の巻紙をひっくり返した。
マルトンの宣言文が、地面に落ちる。
そこへ石灰。
白が黒を吸って、鳥が形を保てなくなる。
最後の一羽が、ノーラの肩を掠めた。
「っ……」
ノーラの顔が一瞬だけ歪む。
俺はノーラの肩口を見て、短剣の先で“黒い濃いところ”だけを削いだ。
布と一緒に、ぺり、と剥がす。
ノーラが息を吐いた。
「……ごめん、遅れた」
「謝るな」
言葉が先に出た。
謝る場面じゃない。
◇
黒は消えた。
消えたけれど――床の白い粉の上に、黒い滲みが点々と残った。
そして、台の上にはもう一つ残ったものがある。
“安全”と書きかけた宣言文。
その「安」の字が、黒く汚れて読めない。
マルトンが、喉を鳴らした。
丁寧な顔を取り戻そうとして、取り戻せていない。
「……些細な異常です。
現在、現場の対応で鎮静化しました。よって――」
群衆の中から、誰かが言った。
「今の、紙から出たぞ」
「安全って言った直後だぞ」
ざわめきが広がりかける。
マルトンは声音だけを固くした。
「余計な憶測は避けてください。
“安全”とは、危険がゼロという意味ではありません。
管理できるという意味です。現に今だって対応できたでしょう。」
……言葉の上で、また上書きが始まった。
ガレスが一歩前に出て、群衆に怒鳴った。
「退け! 入口線を崩すな!」
兵が動き、人の波が少しだけ落ち着く。
マルトンは紙束を抱え直し、言った。
「本日の通達は、後ほど“整えた形”で掲示します。
現場は引き続き、騎士団とギルド調査班が管理する」
結局、縮小はできなかった。
でも、口ぶりは「最初からそうする予定だった」みたいだ。
アルヴィンは台帳を閉じ、唇を薄く結んだ。
自分の紙が汚れたのが嫌なのか、目撃者が増えたのが嫌なのか――分からない。
シルヴァは俺たちにだけ聞こえる声で言った。
「……見たな」
「見ました」
俺は頷く。
「紙から出た。つまり、洞だけじゃない」
シルヴァの目が一段暗くなる。
「インクの線が、どこかで繋がってる」
◇
撤収の途中、ノーラが肩を押さえて言った。
「……また、私」
「お前のせいじゃない」
ロウが、血のにじむ指を布で押さえながら即答する。
カイが珍しく真面目に息を吐く。
「今日のは、場所が悪い。人が多すぎる。
止めるって、燃やすより難しいぞ」
ミリアが杖を強く握った。
「燃やせたら楽なのにね。
……でも燃やしたら、“安全宣言”ごと燃えちゃう」
皮肉が混じる。
でもその皮肉は、笑いにならなかった。
レイヴァンが、洞の入口を見て言った。
「入口で出るのは、忠告だろう。
“お前らが動くなら、こっちも動くぞ”ってやつだ」
俺は鼻で息をした。
匂いが残っている。
マルトンの香油。アルヴィンのインク。
そして、紙から滲んだ黒の匂い。
全部が、同じ場所で混ざっている。
シルヴァが言った。
「今夜、もう一度、封緘する。
今日の黒も、残す形にする。……誰が嫌がろうが」
誰が、の中に何人もいる気がした。
入口の霧が、ゆっくり息をしている。
その息が、昨日より確かに近かった。
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