第59話 墨の匂いと、塞がる前の息
夕方、入口の詰所に戻ると、シルヴァが机の端に肘をついて待っていた。
顔は疲れているのに、目だけが冴えている。
「今夜、もう一度“角”を見る」
それだけだった。
説明が短い日は、だいたい急いでいる。
ミリアが杖を握り直す。
「昼の箱、入口で出た。……奥が動いてる、って話よね」
「それと」
シルヴァの視線が、紙束ではなく洞の入口へ向く。
「“上書き”が始まった。縄を消され、石灰を掃かれ、言葉を整えられた。
現場も、紙も、同じ手口だ」
ロウが、指に巻いた布を締め直した。
昼の戦闘で擦れた場所が、まだ赤い。
ノーラは借り物の丸盾を抱えたまま、足首の包帯を押さえる。
痛みは顔に出してない。でも、立ち方が少しだけ慎重だ。
「護衛は?」
カイが聞くと、入口の方から無駄のない足音が来た。
「呼ばれた」
レイヴァンだった。
《蒼灯》の三人は全員じゃない。今日はレイヴァンだけ。
「お前らが一緒だからな。無茶はさせん。……角までは見る」
「十分」
シルヴァが短く言う。
俺は鼻で息をした。
(……もう匂いがある)
洞の湿気の匂いに混ざって、乾いた紙とインク。
それと、薄い香油。昼の監察官がつけていた類の匂い。
嫌な混ざり方だった。
◇
搬送路の角へ向かう道は、夜の洞のほうが静かだった。
静かなぶん、音が遠くまで響く。
水滴の落ちる音。
靴底の砂利。
ノーラが一度だけ包帯の上から足首を押さえる音。
俺は先頭で鼻を働かせた。
(……いる)
黒い匂いじゃない。
でも黒に繋がる匂い。
墨。煤。油。乾いた布。……そしてインク。
角を曲がった瞬間、全員が足を止めた。
“片付けられている”。
昨日打ち込んだ楔は、抜かれていた。
縄の代わりに残しておいた木片も、丁寧に避けられている。
石灰は掃かれて、床がやけに綺麗だ。
「……仕事が細けえ」
バルドが低い声で悪態をつく。今日は詰所の警戒から外されて、ついてきていた。
レイヴァンが壁に触れ、隠し石の縁を撫でた。
「戻してる。……だが、戻し方が雑だ。
“見つけさせない”んじゃなく、“見つけても問題ない形”にしたい動きだな」
ミリアが目を細める。
「問題ない形?」
「封鎖札が貼られている。
……誰が見ても“ここは封鎖した”って書ける形にしてる、ってやつだ」
(墨が新しい)
古い通路の匂いじゃない。
さっき塗ったばかりの、湿った墨の匂いがする。
「……開けます」
俺が言うと、レイヴァンとバルドが隠し石をずらした。
ぎ、と湿った音。
暗い隙間。旧い通路の冷たい空気が漏れる。
その奥から――墨の匂いが、はっきり流れてきた。
◇
通路は短い。だが、短いのに“奥が広い”匂いがする。
俺たちは規定の線を越えない位置で止まった。
レイヴァンが半歩前に出て、壁越しに様子を見る。
そして、誰かの手元の光がふっと揺れた。
扉の前。
封鎖扉の表面に、灯りが当たっている。
人影がいた。
背は高くない。動きが丁寧すぎる。
手に、細い棒――筆みたいなもの。
扉の印の上を、黒い線でなぞっている。
“書いている”。
墨で、封印を。
ミリアが息を呑む。
「……封印を上書きしてる」
バルドが歯ぎしりする。
「ふざけんな。誰だ、あれ」
こちらに気づいたのか、筆の男がふっと振り返った。
顔は布で半分隠れている。目だけが光を反射した。
「……まだ来るなって言ったのに」
声は低い。若くも老けてもない。
丁寧で、無感情。
その声が、インクの匂いと同じ種類で、背中が冷えた。
レイヴァンが低く言う。
「退け。そこは立ち入り禁止区域だ」
「禁止、ね」
筆の男が小さく笑った。
「禁止が守られるなら、こんなことはしない」
次の瞬間、筆先が扉から外れた。
墨が、宙に弾ける。
黒い飛沫は床に落ちず――空中で形を持った。
小さな鳥。
影コウモリより薄く、紙より速い。
「来る!」
俺が言うより早く、ノーラが丸盾を構えた。
盾は小さい。範囲が狭い。
だからこそ、相手が“盾の外”を選べる。
墨の鳥が、盾の縁をかすめて散る。
散って、こちらへ――
「ライト・ピン!」
ミリアの光の釘が床に刺さる。
進路を縫う。止める。焼かない。
だが、墨の鳥は“止められ方”を知っているみたいに、釘の隙間を抜けてくる。
「ロウ!」
ロウの縄が跳ねた。一本、絡む。
絡んだはずなのに、墨が薄くなって、するりと抜ける。
「っ……!」
ロウの指が弾かれ、さっきの擦り傷が開いた。血がにじむ。
ノーラが一歩前に出ようとして、足首が少し遅れる。
その半拍で、墨の鳥がノーラの肩へ――
俺は短剣で“叩いた”。
刃で斬らない。柄で潰す。
当たった瞬間、墨が散って、床に落ちる。
落ちた墨が、じゅ、と石に染みる匂いを出した。
(核じゃない。墨そのものだ)
“倒す”相手じゃない。
“撒かれた”ものだ。
「石灰!」
俺が言うと、カイが反射で袋を裂いた。
白い粉が舞う。
墨が白に吸われるみたいに固まり、動きが鈍る。
その間に、レイヴァンが半歩だけ前へ。
線を越えないギリギリで、壁に大剣の鞘を叩きつけた。
ごん、と鈍い音。
筆の男の足元の灯りが揺れ、手元がぶれた。
「……邪魔をするな」
初めて、男の声に苛立ちが混じった。
男は筆を振り、墨をもう一度弾く。
今度は鳥じゃない。
床に落ちた墨が、細い“糸”になって這った。
縄じゃない。影でもない。墨の糸。
糸は、足首を狙ってくる。
「ノーラ、下!」
ノーラが盾を下げようとして間に合わない。
墨の糸が、包帯の上から足首に絡む。
「っ……冷た……!」
ノーラの膝ががくんと落ちた。
痛みじゃない。中へ入ろうとする冷たさだ。
ミリアが歯を噛む。
「ライト・ピン!」
光の杭が床に刺さり、糸の動線を止める。
でも糸は“止まるだけ”で、切れない。
俺は迷わなかった。
包帯のすぐ外側、墨が一番濃いところ。
短剣の先で、そこだけをすくい取るように削ぐ。
墨が、ぺり、と剥がれる。
剥がれた瞬間、冷たさが抜けた。
ノーラが息を吐く。
「……大丈夫。まだ……立てる」
立てる。
でも、立つまでが遅い。
その差が、今夜は痛いくらい見えた。
◇
筆の男は、こちらを見たまま、扉へ向き直った。
筆先を、最後に一度だけ扉に当てる。
黒い線が、古い印の上を“綺麗に”整えた。
封印が、綺麗になった。
……綺麗になりすぎて、気持ち悪い。
男が低い声で言った。
「これで誰が見ても“安全”だ。」
その言葉に、ミリアの目が鋭くなる。
「……見せるための封印?」
「見せるための報告書」
男がぽつりと返して、ふっと笑った。
次の瞬間、灯りが消えた。
男の気配が、墨の匂いと一緒に薄くなっていく。
「待て!」
バルドが踏み出しかけて、レイヴァンが腕で止めた。
「追うな。線を切るな」
正しい。正しいから腹が立つ。
闇の向こうで、筆の男の足音が一度だけ響いて、消えた。
◇
残ったのは、扉の前の“綺麗な線”と、薄い墨の匂い。
ミリアが、扉を遠目に見て言った。
「……あれ、封じてるんじゃない。隠してる」
シルヴァが息を吐く。
「“扉の存在”を紙の上で消すための封印だ。
現場の封鎖まで、上書きされる」
ロウが指の血を布で押さえながら、低く言った。
「じゃあ、俺たちが見たものは……」
「別紙に残す」
シルヴァは即答した。
俺は鼻で息をして、床に落ちた墨の固まりを見た。
石灰を吸った黒い塊。
動かない。だが匂いは残る。
「……持ち帰れます」
俺が言うと、シルヴァが頷いた。
「封緘だ。今すぐ」
ミリアが小瓶を出し、蜜蝋を温める。
ロウが震える指で黒い塊を拾い、瓶に落とす。
蜜蝋で封をする。封印札を貼る。
――残る形。
その瞬間だった。
「……ワン」
通路の影に、黒い犬がいた。
いつもみたいに突然で、いつもみたいに自然に。
犬は瓶を見た。
舐めない。
代わりに、扉の方をじっと見た。
そして、こちらを見る。
尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。
嬉しいのか、合図なのか、分からない揺れ。
次の瞬間、犬は影ごと消えた。
◇
詰所へ戻る道は、短いのに重かった。
ノーラは足首を押さえながら歩く。
歩ける。けど、踏み込みが浅い。
ロウは指の血を止めながら、黙って縄を巻き直している。
ミリアは杖を握ったまま、一度も振り返らない。
シルヴァが、入口の灯りの下で小さく言った。
「明日、“上”は綺麗な封印を見て『安全』と言う」
ミリアが吐き捨てるように言う。
「言わせない」
「言わせないために、残す」
シルヴァが封緘瓶を見た。
「そして、守る。……今夜みたいに」
俺は鼻の奥の危険信号を無視しないように、湿った空気を吸い込んだ。
墨の匂いが、まだ残っている。
あれはただの盗賊じゃない。
ただの魔物でもない。
そして、扉は――綺麗に塞がれたふりをして、まだ息をしている。




