第58話 検分と、割れる線
朝の霧は薄かった。薄いくせに、肌にまとわりつく。
霧紺の洞の入口に張り付いた湿気は、寝不足の頭を余計に重くする。
昨夜の運び屋、封緘瓶、封鎖扉――ひとつひとつは小さいのに、全部が同じ方向に引っ張っている気がした。
詰所に入った瞬間、シルヴァが言った。
「上が来る」
それだけで、ミリアの眉がわずかに動いた。
「……上?」
「ギルドの“監察”だ。城塞にも話が行った。
“現地検分”って名目でな」
名目。
名目って言葉は、たいてい面倒の前触れだ。
シルヴァは机の上の紙束を一度だけ押さえた。
「まず先に、別紙と封緘瓶を“騎士団側の保管”に回す。事務の手を通さない」
視線が、俺たちに来る。
「レオン。ミリア。ロウ。カイ。ノーラ。……運ぶ。今すぐ」
呼ばれて、動く。
依頼札の匂いがしないぶん、よほど急だ。
「《蒼灯》にも護衛を頼んである。レイヴァンがつく」
ちょうど、入口側がざわついた。
鎧の擦れる音と、一切無駄のない足音。
「呼ばれた」
レイヴァンが現れる。相変わらず短い。
「運ぶのはそれか」
封緘瓶が入った木箱を見て、視線がすぐに周囲へ移る。
誰が見ているか、どこに影ができるか――そういう視線だ。
「……動きが早いね」
ミリアがぽつりと言う。
「遅いと死ぬからな」
レイヴァンはそれだけ言った。
◇
保管用のテントは、騎士団の柵の内側にあった。
鍵と札が二重にかかっていて、入口に立つ兵の目が硬い。
ガレスが出迎えた。
「来たか。……それが“残ったやつ”か」
「封緘してある。蜜蝋も札も、いじってません。」
シルヴァが言うより先に、俺が言っていた。
自分でも、ちょっと早口だと思った。
ガレスが頷く。
「預かる。ここなら勝手に舐められん」
「舐められるって何ですか」
兵が怪訝そうに言って、ガレスに睨まれて黙った。
木箱が棚に置かれ、鍵がかかる。
その音が、少しだけ安心に近い。
――そのはずだった。
「おお、ちょうど良いところに」
丁寧な声がした。
振り返ると、綺麗な外套を着た男が立っていた。
髪に油を塗り、爪の先まで整っている。
隣にいるのは、ギルドの紋章を付けた護衛。
そして、少し後ろに――眼鏡のアルヴィン。
「ギルド評議会付、監察官のマルトンだ」
男が胸に手を当てる。
「現地検分に参りました。……話は聞いていますよ。『封鎖扉』の件」
ミリアの目が細くなる。
シルヴァも、一瞬だけ息を止めたのが分かった。
「聞いている、だと?」
「噂は風より早い」
マルトンが、笑わずに言う。
「そして噂は、放置すると街を煽る。
だから“正しい形”で整える必要がある」
正しい形。
アルヴィンの匂いがする言葉だ。
「封緘瓶はどちらへ?」
マルトンが棚を見る。
ガレスが前に出た。
「騎士団預かりだ。勝手に触れるな」
「勝手に、とは」
マルトンは眉一つ動かさず、丁寧に言った。
「私は監察官です。扱いは“勝手”ではありません。
それに、事務手順としても――」
アルヴィンが、すっと一歩前に出る。
「保管の手順はギルド規定に基づきます。封緘物は確認印が必要です。
騎士団預かりでも、記録は――」
「後だ」
シルヴァが遮った。
「今は現場が動いてる。紙はあとでいくらでも整えられる」
マルトンが、ゆっくり視線をシルヴァに合わせた。
「整えられる、ではなく整えるのです。
――“整えないと困る人”が出ますからね」
妙に引っかかる言い方だった。
ミリアも同じことを感じたのか、口を開く。
「困る人、って誰?」
「混乱する民衆です」
即答。綺麗すぎる即答。
レイヴァンが、淡々と口を挟んだ。
「民衆の混乱より、現場の穴の方が先だ。
検分は勝手にすればいいが、線を動かすな」
「線?」
マルトンが初めて眉を上げた。
「境界の話です」
レイヴァンはそれ以上言わなかった。
言わないまま、相手の出方を待つ目をしている。
そのとき、入口側が一気にざわついた。
「帰還班だ! 回収品あり!」
声。荷車。金属音。
洞から戻った冒険者たちが、木箱を積んだ荷車を押している。
木箱には封印札が貼ってある。
……貼ってあるが、雑だ。
俺の鼻が、ちくりと鳴った。
(嫌だ)
黒い匂いじゃない。
その手前。滲む前の、乾いた嫌さ。
「止めて」
俺が言うと、荷車を押していた男が足を止めた。
「え? 何だよ、検疫だろ? 札も貼って――」
「札が、弱い」
言った瞬間、マルトンがこちらを見た。
「君は?」
「Fのレオンです」
「F……」
声に出さない侮りが、顔に出た。
「鼻が利く、という噂の」
「噂じゃなくて今です」
ミリアがすぐに噛みつく。
「その箱、隔離。今すぐ」
ガレスが兵に目配せする。
兵が動きかけた、その一拍。
「待て」
マルトンが言った。
「不用意に隔離するな。『危険』の判定は、監察の目の前で――」
その“目の前で”が終わる前に、木箱が、内側からきし、と鳴った。
蜜蝋が割れる匂い。
そして、薄い黒い匂いが、ふわっと漏れた。
「……っ!」
ノーラが反射で盾を前に出す。
借り物の丸盾だ。狭い。
ロウが縄を構える。
カイが石灰袋の口を指に引っかける。
ミリアが杖を上げる。
動けるやつから動く。
“上の許可”を待ってたら、死ぬ。
木箱の封印札が、ふわりと浮いた。
「下がれ!」
ガレスの声と同時に、箱の隙間から黒いものが噴き出した。
影コウモリ。
小さい。速い。数が多い。
――そして、嫌に“人の顔”へ向かってくる。
「うわっ!」
兵が腕で顔を庇う。
マルトンの護衛も、半歩遅れて剣を抜いた。
マルトン本人は――一歩下がった。
下がるだけならいい。だが、下がった先が悪い。
影コウモリの群れが、ちょうどマルトンの周りに寄る。
黒い翼が、紙みたいに薄くなる。
「っ……!」
マルトンが声を上げかけた瞬間、ミリアの杖先が光った。
「ライト・ピン!」
光の釘が床に刺さり、群れの進路を縫い止める。
焼かない。追わない。止める。
止めた一瞬――
影が、釘の外を回り込んだ。
「っ、まだ――!」
ミリアが歯を噛む。
火力じゃない。止める魔法は“面”が足りない。
ノーラが丸盾で前に出る。
でも、昨日の痛みが抜けきってない。
一匹が盾の縁をすり抜け、ノーラのこめかみへ――
「ノーラ!」
俺は叫ぶより先に動いていた。
剣じゃない。抜けば遅い。
腰の短剣で、影の“芯”が濃いところを叩く。
当たった瞬間、影がしぼむ。
群れの中には核がある。
全部じゃない。核持ちと核無しが混ざってる。
(混ぜてる)
作ったやつがいる。
ただ漏れたんじゃない。
カイが石灰を撒いた。
白い粉の上で、影の輪郭が一瞬だけ浮く。
核持ちが分かる。
「右、二匹! 左、核ひとつ!」
口に出していた。
自分でも驚くくらい、自然に。
ロウの縄が跳ねる。
一匹、絡む。
――絡んだはずの影が薄くなって抜ける。
「くそっ!」
ロウが踏ん張り、縄を“抜けない角度”に引き直す。
指の皮がまた擦れて血がにじむ。
その一瞬、影がロウの首元へ――
レイヴァンが半歩で間に入った。
大剣は抜かない。柄で叩き落とす。
「遅れるな」
短い声。
怒りじゃない。合図。
バルドが遅れて飛び込み、影を踏み潰す。
「ったく……! 入口で出すな!」
悪態をつきながら、目は真剣だ。
その間に、マルトンの護衛が影に噛まれ、腕を押さえて膝をついた。
「痛っ……!」
血が滲む。
噛まれたところが、じゅ、と変な音を立てた。
黒い匂いが、血に混ざって流れかける。
(まずい)
ミリアも気づく。
「その腕、動かさないで! 隔離!」
ガレスが兵に叫ぶ。
「隔離テント! 今すぐ!」
兵が護衛を担ぐ。
その動きの端で、マルトンが――俺を見た。
初めて、“丁寧な顔”が崩れている。
「……Fが、これを?」
俺は答えなかった。
答える余裕がない。
影コウモリの群れはまだ残っている。
白い石灰の上で、核の濃い部分だけを拾う。
刺して、落として、踏み潰して、止める。
派手じゃない。
でも、止まる。
最後の一匹がしぼんだ瞬間、入口の空気が少しだけ静かになった。
◇
床に残った黒い染みが、まだ微かに蠢いた。
そのとき――
「……ワン」
黒い犬の影が、荷車の下からすっと現れた。
黒い染みへ鼻を寄せ、ひと舐め。
黒がすうっと消える。
回収。
――そして犬は、荷車の下に落ちていた布切れをくわえた。
布切れ。
結び目。
なくし物通りで見た、あの“癖”のある結び。
犬は布を引きずるようにして、洞の入口の方角へ顔を向けた。
「あっち」。
そんなふうに見えて、背中が冷えた。
次の瞬間、犬は影ごと消えた。
布切れも、一緒に。
◇
混乱が収まったあと、マルトンが咳払いをした。
「……状況は理解しました。
よって“過度な混乱を避けるため”、本件は監察が取りまとめ――」
「取りまとめるな」
シルヴァが言った。
声が低い。怒鳴ってない。だから余計に怖い。
「今の木箱、封印札の貼り方が雑だった。誰の手だ。
回収品の管理の穴だ。そこを潰すのが先だ」
アルヴィンが口を開く。
「回収品の札は、現場の班が貼ります。規定に従って――」
「規定に従って、このザマか」
バルドが吐き捨てた。
レイヴァンが一歩だけ前に出る。
「今の影は“混ぜ物”だ。自然発生じゃない。
入口で出たのは、たまたまじゃなく“ここで出す”意図がある」
マルトンが唇を薄くする。
「意図、という言葉は危険だ。証拠が――」
「証拠なら、ここにある」
シルヴァが言って、封緘瓶の棚を指した。
マルトンの視線が一瞬だけ泳いだ。
……嫌な泳ぎ方だ。
“困る人”の顔。
「監察官」
ミリアが静かに言った。
「さっき『危険の判定は目の前で』って言ったわよね。
目の前で起きた。目の前で人が噛まれた。
それでも“整える”の?」
マルトンは答えない。
答えないまま、アルヴィンをちらりと見た。
アルヴィンは、目を合わせなかった。
合わせないまま、ペン先を動かしている。
……主語を整えている。
シルヴァが、淡々と宣言した。
「封緘瓶は騎士団預かりのまま。別紙は別紙で残す。
監察は“見た”だけで帰れ」
ガレスが頷く。
「異論は城塞で受ける。ここで混乱させるな」
マルトンは一拍置いて、丁寧に頭を下げた。
「……承知しました。現場の判断を尊重します」
丁寧すぎる言葉だった。
◇
詰所の外に出ると、ノーラが小さく息を吐いた。
「……また、止めきれなかった」
「止めきれてる」
ロウが即答した。
「止めきれてるのに、押し込まれる。
……それが一番嫌だ」
カイが珍しく黙って、手の甲の擦り傷を見ていた。
さっき影の翼が掠めたんだろう。浅い。けど、冷たい痺れが残っている顔だ。
俺は鼻で息をした。
入口の空気には、まだ薄い黒い匂いが残っている。
それと混ざって――香油の匂い。
マルトンの匂い。
上品で、室内っぽい匂い。
そして、もうひとつ。
インクの匂い。乾いた紙の匂い。
アルヴィンの匂い。
二つが、嫌な形で重なる。
ミリアが俺の横で小さく言った。
「……ねえレオン。今の箱、あなたが止めなきゃ、もっと広がってた」
「分かりません」
分からない。
止めただけだ。止めるしかなかった。
レイヴァンが洞の入口を見て、ぽつりと言った。
「入口で出るなら、奥で何かが動いてる。
……“上書き”が始まってる」
上書き。
封鎖の上書き。記録の上書き。線の上書き。
シルヴァがこちらに来て、短く言った。
「今夜、もう一度“見に行く”」
見に行く。
洞の奥じゃない。搬送路の角――封鎖扉に繋がるあの場所。
「犬が持っていった布切れ、覚えてるな」
俺は頷いた。
「……あれが“運び屋の線”だ。
そして線が動くなら、次は太いのが来る」
太いの。
影コウモリの群れより、もっと。
霧紺の洞の入口は、今日も逃げない。
逃げないぶん、逃げ場もない。
通したくない匂いが、昨日より確かに濃い。




