第56話 「あっち」の意味
夜が明ける前に、目が覚めた。
寝た、というより、横になって目を閉じただけだった気がする。
霧紺の洞の入口に張った仮設の詰所。ランタンの煤の匂い。石灰の乾いた粉っぽさ。
そして、鼻の奥に残る、あの“影抜き”の粉の匂い。
外が白み始めた頃、騎士団の見張りが布をめくった。
「起きろ。調査班から呼び出しだ」
呼び出し。
ミリアもロウもカイも、同じように眠りの浅い目で起き上がった。
ノーラは包帯を巻いた腕を押さえながら、ゆっくり立つ。
「……行こ」
ミリアが短く言って、杖を握った。
◇
臨時の取り調べテントは、入口の柵の内側にあった。
布一枚で区切っただけの場所なのに、空気が重い。
中には、シルヴァとガレス、そしてバルド。
《蒼灯》のレイヴァンも立っている。
縄で縛られたまま、例の“運び屋”が木椅子に座らされていた。
顔の布は外され、まだ若い男の目が落ち着かない。
そして――その隅に、眼鏡のアルヴィンがいた。
台帳を抱え、ペン先だけが忙しい。
シルヴァが俺たちを見るなり言った。
「昨日の侵入経路を潰す。今すぐだ」
「……侵入経路、分かってるんですか」
カイが聞くと、シルヴァの視線が椅子の男へ向いた。
「こいつが“あっち”って言った」
男が口の端を歪める。
「……言ってねえよ。独り言だ」
「独り言でも口は口だ」
バルドが低い声で言う。
その一言で男の肩がわずかに跳ねた。
ガレスが腕を組む。
「お前は何をしに来た。木箱か。瓶か」
男はふん、と鼻で笑おうとして、途中で引きつった。
「……知らねえよ。俺は運び屋だ。取って来いって言われた。そんだけ」
「誰に」
「顔は見てねえ。声だけだ。金だけ渡された」
ミリアが一歩前に出る。
「声の特徴は」
男の視線がミリアに移って、すぐ逸れる。
「……上品だった。腹立つくらい丁寧でさ。
でも、丁寧なやつほど平気で汚いこと言うんだよ」
アルヴィンのペン先が、紙の上で一瞬止まった。
止まって、また動き出す。
シルヴァが言う。
「“どこへ運ぶ予定だったか”を言え」
男は唇を噛み、目を泳がせた。
そのとき、俺の鼻がちくりと鳴った。
(……黒い石)
男の服じゃない。
椅子の下。足元の布袋。
「その袋、どこから」
俺が言うと、男がぎょっとした。
「な、なんだよ」
「黒い匂いがする」
ミリアが即座に杖を持ち上げる。
「袋、開けないで。そこに置いて手を離して」
男は反射で袋を抱えそうになって、ガレスの視線に刺されてやめた。
ロウが縄を少し引いて男の動きを止める。
シルヴァが袋を指差した。
「中身は?」
男が吐き捨てるように言う。
「粉だよ。影抜きの粉。……あの通路、石灰撒かれてただろ。
あれに混ぜて足跡消せって」
カイが顔をしかめた。
「うわ、性格わる……」
バルドが舌打ちする。
「道具も手口も、盗賊の残党と同じだな」
ミリアが男を睨む。
「“あっち”って何。どこへ運ぶ予定だったの」
男が一瞬だけ黙る。
黙って、目が揺れる。
昨日、黒い犬を見たときと同じ揺れだ。
「……洞の奥じゃねえ」
低い声。
「初層の、搬送路の途中。……壁の裏。
“封鎖扉”があるって言われた。そこへ置けって」
空気が、一段重くなった。
レイヴァンが低く言う。
「封鎖扉?」
「知らねえよ。俺は知らねえけど、案内役はそう言った」
「案内役?」
シルヴァが問い返すと、男は口を歪めた。
「……下から来るやつがいるんだよ。街の下。
“道”だけ知ってるやつ。顔は見てねえ。影みてえな奴だった」
街の下。
盗賊ルート。夜会地下。古井戸。
全部が、一本の線で繋がりそうな嫌な感覚がした。
◇
「行くぞ」
シルヴァが言い切った。
「レオン、お前の鼻が必要だ。ミリア、ロウ、カイ、ノーラも来い。
レイヴァン、護衛を頼む」
レイヴァンが短く頷いた。
「了解。……バルドも来い。現場が分かってる」
「ったく」
バルドが悪態をつきながらも動き出す。
アルヴィンが口を開いた。
「調査班の判断で動かれるのは結構ですが、記録の手順が――」
「後」
シルヴァが即答した。
「今は穴を塞ぐ。紙は逃げない」
アルヴィンの口元が、ほんの少しだけ固くなる。
でも言い返さない。
言い返せない相手には言い返さない。
そこが、やっぱり嫌に手慣れている。
◇
洞に入ると、湿気が肌に貼りつく。
昨日と同じ道。
同じ角。
同じ搬送路。
でも今日は、“見る”目的が違う。
俺は鼻で息をした。
(……いる)
影抜きの粉。油。乾いた布。
そして、薄い黒い匂い。
「こっち」
俺が言うと、レイヴァンがすぐ後ろにつく。
守り方が上手い。背中が落ち着く。
補給棚の少し手前。
壁の目地のあたりで、匂いが濃くなる。
「この辺です」
俺が指を当てると、石が冷たい。
ロウが縄で周囲を区切り、ノーラが丸盾で通路を狭める。
昨日と同じ“作業場”ができた。
バルドが壁を睨む。
「……ここか。確かに、石が削れてる」
レイヴァンが指先で撫でた。
「新しい傷だな。爪じゃない。刃か、工具」
ミリアが低い声で言う。
「……人が通れる“穴”があるってことね」
俺は鼻を頼りに、壁の目地を辿った。
ひとつだけ、匂いが“抜ける”場所がある。
湿気の流れが、ほんの少しだけ逆向きになる場所。
「ここ」
言った瞬間、バルドが舌打ちした。
「……チッ。ほんとに“鼻”だな」
レイヴァンが大剣を抜かずに、壁の石を押す。
ぎ、と嫌な音。
石が、ほんの少しだけ動いた。
「隠し石か」
レイヴァンが低く言い、ロウと一緒に石をずらす。
重い。湿ってる。指が滑る。
ずらした先に、暗い隙間が現れた。
奥は――人が一人、横向きなら通れそうな細さ。
そして、その先から、別の空気が漏れている。
洞の匂いじゃない。
街の地下の匂いだ。
「……繋がってる」
ミリアが小さく言った。
バルドが歯ぎしりする。
「やっぱりかよ」
俺は隙間に顔を近づけた。
匂いが広い。
奥が“長い”だけじゃない。
“空間”の匂いがする。
「この先……広いです」
自分で言って、根拠が薄いのが嫌になる。
でも、鼻はそう言ってる。
レイヴァンが目を細めた。
「……空洞がある。奥が抜けてる」
そして、バルドがぽつりと吐いた。
「……封鎖扉、ってのはこの奥か」
◇
隙間の先には、古い石の通路があった。
霧紺の洞の加工とは違う。
角が丸く、排水の溝があり、壁に煤の跡が残っている。
旧い。
街の地下と同じ旧さ。
ミリアが壁の線を見て、顔をしかめた。
「……線、ある」
夜会地下で見たのと似た癖。
薄い刻み。乱暴な上書き。
レイヴァンが一歩だけ進んで、止まる。
「ここから先は、規定的にアウトだ」
当たり前だ。
Fが行ける場所じゃない。
でも、目の前で“道”が見えてしまうと、戻るのが怖い。
その奥。
薄暗い通路の終わりに、扉が見えた。
鉄と石で作られた封鎖扉。
表面に、古い印――円と線。見覚えのある線の癖。
そして、扉の周りの空気が、ゆっくり動いている。
呼吸みたいに。
「……脈、打ってる」
ミリアが言った。
俺の鼻の奥が、危険信号を鳴らす。
古井戸のときとは違う。
もっと広い。もっと深い。
“街”を丸ごと飲み込めそうな匂い。
「ここ、今は開いてない」
レイヴァンが言う。
でもそれは安心じゃない。
「開いてないだけだ」
バルドが吐き捨てた。
「開いたら終わるやつだ」
シルヴァが息を吐いた。
「……とりあえず、今は塞ぐ。証拠を残す」
ミリアが杖を上げる。
「ライト・ピン。固定する」
光の釘が、扉の周囲の線を縫い止めるみたいに刺さる。
完全な封印じゃない。応急処置だ。
ロウが縄を通路入口に張り、通ったら分かるようにする。
カイが石灰を薄く撒き、足跡の“抜け”を潰す。
ノーラは丸盾を抱えたまま、扉を見ていた。
「ノーラ」
俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「……うん。分かってる。今は、立ってるだけ」
それが、いちばん苦しい。
◇
「……ワン」
小さな鳴き声。
背中が冷える前に、もう分かってしまった。
黒い犬の影が、通路の端に立っていた。
いつも唐突で、いつも自然で、
いること自体が説明になってない存在。
犬は封鎖扉を見ていた。
じっと。
まるで「ここだ」と言うみたいに。
そして、俺を見た。
尻尾が、少しだけ揺れる。
嬉しいのか、合図なのか、分からない揺れ。
次の瞬間、犬は影ごと消えた。
残ったのは、封鎖扉の脈と、冷たい湿気だけ。
シルヴァが低い声で言った。
「……昨夜の運び屋が言った“あっち”は、ここだ」
レイヴァンが頷く。
「そして、ここへ辿り着かせたくない奴がいる」
ミリアが目を細めた。
「消したいのは、瓶じゃない。……“扉の存在”かもね」
◇
入口詰所へ戻る途中、俺はふと気づいた。
扉の前に立っていたとき、アルヴィンがいなかった。
当たり前だ。現場に来ない人だ。
でももし――
もし、あの扉の存在が紙の上で消されるなら。
“別紙”が必要になる。
シルヴァは歩きながら、短く言った。
「この封鎖扉のことは、まず内部記録に残す。誰が何と言おうとだ」
その言葉の「誰が」の中に、いろんな顔が混じって見えた。
俺は、洞の入口の紺色の湿気を見た。
線を引き直しても、追いつかない。
証拠を残しても、消しに来る。
でも、犬が指した方角はもうはっきりしてしまった。




