第54話 別紙のための採取と、舐めに来る影
ノーラの盾の修理見積もりは、思っていたより現実的だった。
「縁の補強と、芯材の入れ替え。……これなら直るよ」
鍛冶屋の親方が、ひびの入った盾を指で弾く。
金属音が、やけに軽い。
「ただし、元の強度までは戻んねえ。次に同じ場所で受けたら、また割れる」
ノーラが小さくうなずいた。
「……うん。分かった」
レイヴァンが、黙って財布を取り出した。
親方が領収の札を切る。
俺はその札を受け取り、胸ポケットにしまう。
「……借りは増えました」
「増えた分だけ返せばいい」
それだけで話は終わった。
ノーラが、ほんの少しだけ笑った。
「……その頑固さ、もっと他に使えばいいのにってだけ」
カイが、いつもの調子に戻ろうとして言う。
「例えば?」
ミリアが横から淡々と刺す。
「……上に喧嘩売るとか?」
「売る気はないわ。買わされたくないだけ」
言い方が鋭い。
昨日、噂話で《蒼灯》だけが褒められていたのを聞いてから、
ミリアの温度が少しだけ変わった気がする。
怒りというより、決意の方向に。
◇
ギルドへ戻ると、リサがいつもより早足で来た。
「レオンくん、ミリアさん。調査班から“すぐ”だそうです」
「また洞ですか」
「洞ですね……」
リサは苦笑して、でも声を落とした。
「今度は“別紙”の話だって。シルヴァさん、かなり真面目です」
◇
小会議室。
机の上には記録板と紙束、それから——小さなガラス瓶が二つ並んでいた。
瓶の口には蜜蝋の蓋。さらに封印札。
手間のかかった“残し方”だ。
「これが“残せる形”だ」
シルヴァが瓶を指で叩く。
「犬が回収しても、壁の滲みが消えても、匂いが薄れても。
……先に閉じ込めれば残る」
「閉じ込めるって、匂いをですか?」
ノーラが目を丸くする。
主盾は預けたままだから、今日はギルドの物置から出した古い丸盾を抱えていた。革が固い。重い。
「匂いだけじゃない。残滓だ。壁の目地の粉、黒い泥の繊維。
採って、蜜蝋で封をして、封印札を貼る」
シルヴァは言葉を選ばなかった。
今日の彼は“面倒な現実”をそのまま口に出してくる。
「……で?」
ミリアが短く促す。
「採取に行く」
シルヴァが依頼札を机に置いた。
——【霧紺の洞・痕跡採取(別紙用)】——
依頼主:トラヴィス冒険者ギルド(調査班)
内容:霧紺の洞・初層搬送路にて、壁面の滲出痕および変異個体の残滓痕の採取。
採取物はガラス瓶に収め、蜜蝋で封緘した上で封印札を貼り、調査班へ提出すること。
※戦闘域への前進は禁止。危険を感じた場合は採取を中断し撤退。
条件:F〜Eランク(複数人)/護衛同伴
———————————————
「護衛同伴、って……」
カイが視線を上げる。
「《蒼灯》にも話を通した。レイヴァンは同行してくれる」
シルヴァが言うと、ちょうどノックがして扉が開いた。
「呼ばれた」
レイヴァンが入ってくる。
後ろにイリスとグレン。
「採取だろ。いい。やる」
短く言って、瓶を一瞥する。
「……ようやく“残す”方向に動いたな」
「遅いくらいだ」
シルヴァが返す。
ミリアが小さく息を吐いた。
怒りじゃない。噛みしめるみたいな吐息だ。
◇
霧紺の洞の入口は、朝から相変わらず忙しかった。
柵、テント、机、札、石灰。人の列。
そして、眼鏡の事務班——アルヴィンがいる。
紙束を抱え、封印札の束を数え、番号札を配っている。
俺たちに気づくと、視線が一度だけこちらへ滑り、すぐ外れた。
外したまま、声だけが丁寧に飛んでくる。
「……本日は“採取”ですか」
「そう。調査班の依頼」
ミリアが札を見せる。
アルヴィンは紙面を一瞥し、すぐ言った。
「採取物は、提出時に必ず“所定の手順”に従ってください。
勝手に保管したり、勝手に持ち歩いたり——」
「勝手に舐められて消えるよりマシでしょ」
ミリアがさらりと言う。
アルヴィンの眉がぴくりと動く。
また嫌なのが顔に出る。
「……現場の冗談は理解できません」
「冗談じゃないわよ」
イリスが静かに言った。
「採取の目的は“再発防止”。記録と証拠は必要」
アルヴィンはイリスの顔を見て、飲み込んだ。
相手がBだと、丁寧さの速度が変わる。
「……承知しました。では、提出先は調査班へ。番号は——」
「番号は後でいい」
シルヴァが遮った。
「今は現場を優先する」
アルヴィンの口元が固くなる。
逆恨みの矛先が、こちらからシルヴァへ一瞬だけ移った顔をしたが——すぐ隠した。
「……分かりました。安全第一で」
◇
洞の入口をくぐると、湿気が一段濃くなる。
外の声が遠ざかり、代わりに水滴の音がよく響いた。
今日の目的は戦闘じゃない。
でも、この洞は「戦闘じゃない日」を許してくれない気がする。
「場所は昨日の搬送路の角だ」
レイヴァンが言う。
「補給棚の少し手前。壁の目地が光ったところ」
グレンが周囲を見回した。
「来るなら、後ろから。分かってるやつだ」
イリスが小さく頷く。
「採取は手早くね。長居はしない」
俺たちは、昨日の“線”へ向かった。
◇
角を曲がると、空気が少し冷える。
匂いは——薄い。
でも、消えてない。
(……犬が舐めたはずなのに)
全部を舐め切れていないのか。
それとも、舐めた“あと”が残るのか。
どちらにしても、好きじゃない種類の匂いだ。
「作業場を作る」
ミリアが短く言って、ロウを見た。
「ロウ、縄。ノーラ、盾で狭めて」
「了解」
ロウが縄を張り、通路の中央に“線”を作る。
ノーラは借り物の丸盾を置き、通路幅を意図的に狭めた。
盾はいつもの大盾じゃない。
守れる範囲が狭い。
それが、逆に怖い。
カイが石灰袋の口を指に引っかける。
ミリアは小瓶と蜜蝋を取り出し、すぐ封できるように温め始めた。
俺は壁の目地へ指を当てた。
湿っている。冷たい。
そして——
ぴく、と。
壁が脈打った気がした。
「……動いてる」
思わず言うと、ミリアがこちらを見る。
「脈?」
「呼吸、みたいな……」
レイヴァンが低く言った。
「……分かる。ここ、空気が変だ」
俺は小さなナイフで目地の縁を慎重に削った。
石の粉が落ちる。
その粉が、普通の石じゃない匂いをしている。
「瓶」
ミリアが差し出す。
俺は削った粉を瓶へ落とす。
ロウが瓶の外側を押さえ、ミリアが蜜蝋で口を塞ぐ。
封印札を貼る。
貼り方が雑だと意味がない。ミリアの指が一枚一枚、丁寧に角を押さえた。
「次、床」
グレンが周囲を警戒したまま言う。
床の黒い染み——昨日の“跡”の場所。
もうほとんど見えない。けれど匂いだけが残っている。
「石灰、薄く」
俺が言うと、カイがふわっと撒く。
白い粉の上に、黒が浮く。
輪郭が、ほんの一瞬だけ見えた。
「今」
ロウが布を押し当て、さっと拭う。
黒いものが布に移る。
ミリアがそれを瓶に入れ、蜜蝋で封緘。
封印札。
これで——残る。
「……成功ね」
ミリアが息を吐いた。
そのときだった。
「……ワン」
小さな声。
通路の影に、黒い犬の影がいた。
いつも通り、唐突に。
犬は、床の黒い染みを見た。
次に、封をした瓶を見た。
そして、こちらを見る。
俺は反射で一歩前に出た。
盾でも縄でもない。体が勝手に。
犬が舌を出す。
——舐める気だ。
「ダメだ」
俺が言った。
言葉が通じるとは思わない。
でも、言わずにいられなかった。
犬は床へ近づき、鼻先を寄せる。
ミリアが瓶を抱えて一歩下がる。
次の瞬間、犬の舌が伸び——
舐めた。
床の黒い染みを。
黒が、すうっと消える。
でも、瓶の中のものは消えない。
蜜蝋の封がある。
犬は瓶を見て、首を傾げた。
考えてるみたいな沈黙。
そして犬は、瓶へ鼻先を寄せ——
寄せただけで、舐めなかった。
代わりに、俺の方を見た。
目が合った気がした。
次の瞬間、犬は影ごとすっと消えた。
回収はした。
でも、全部は持っていかなかった。
まるで——
「今日はそれでいい」と言ったみたいに。
◇
帰り道は、妙に早かった。
何も起きない。
でも、何も起きない方が怖い。
入口詰所へ戻ると、シルヴァが待っていた。
いや、待っていたのはもう一人いる。
アルヴィンだ。
いつもより“入口線の内側”に立っている。近い。
「採取物は?」
アルヴィンが真っ先に聞いた。
声が丁寧。
目が、丁寧じゃない。
「これ」
ミリアが瓶を出す。
アルヴィンは手を伸ばしかけて、止めた。
ミリアの目を見たからだ。
「……提出手順があります。内容物の確認、番号の付与、保管庫への——」
「調査班へ提出って依頼札に書いてある」
ミリアが返す。
アルヴィンの唇が薄く結ばれる。
「“調査班へ提出”でも、保管は事務の管轄で——」
「俺が受け取る」
シルヴァが、そこで口を挟んだ。
アルヴィンの眉が動く。
「……別紙、ですね」
「そうだ。別紙だ」
シルヴァは瓶を受け取り、蜜蝋の封を確認した。
「良い。ちゃんと残った」
アルヴィンは笑わなかった。
「……残ったところで、何になるんですか」
ぽつりと出た言葉。
逆恨みというより、もっと嫌な種類の本音だった。
“残されると困る”側の匂い。
ミリアが静かに言う。
「困る人がいるなら、なおさら残す」
アルヴィンの眉が動いた。
言い返したい顔。でも、言えない顔。
レイヴァンが、淡々と釘を刺す。
「現場を守るのは、札じゃなく人間だ。
人間が守ったなら、記録も残るべきだ」
アルヴィンは小さく頭を下げた。形だけ。
「……承知しました。では私は“所定の書式”を整えます」
踵を返す。
去り際、こちらを見ないまま言った。
「くれぐれも、勝手な判断は増やさないでください」
最後まで“棘”だけは置いていった。
◇
夕方。
洞の入口の霧が、少しだけ濃い。
ノーラの大盾は、まだ鍛冶屋にある。
でも、瓶はここにある。
“残せる形”が、初めて手元に残った。
それだけで、ほんの少しだけ——世界の理不尽に指がかかった気がする。
「ねえレオン」
ミリアが小さく言った。
「さっき犬、瓶は舐めなかった」
「うん」
「……全部回収したいわけじゃないのかもね」
「分かりません」
分からない。
分からないから怖い。
でも一つだけ分かることがある。
壁は、昨日より強く脈打っている気がする。
匂いも、少しだけ濃くなっている。
線を引き直しても、追いつかない速度で。
俺は鼻の奥の危険信号を無視しないように、短剣の柄を握り直した。




