第50話 台帳の空白と、通したくない匂い
!祝50話
夜番明けの空は、やけに白かった。
霧紺の洞の入口から漏れる湿気が、朝日をぼんやり滲ませている。
隔離テントの脇で湯を沸かしながら、俺は耳を澄ませた。
布の向こう――事務机の方から、紙をめくる音が聞こえる。
羽根ペンの擦れる音。
乾いたインクの匂い。
……そして、眼鏡の男の声。
「――昨夜、隔離品より小型影獣一体が発生。
現場は騎士団が封鎖、当方が隔離処理を実施。封印札の再点検を手配しました」
声は丁寧で、滑らかで、無駄がない。
でも――
盾を出したのが誰か。
縄を投げたのが誰か。
光の釘を打ったのが誰か。
それは「現場」の二文字にまとめられて、どこかへ消えた。
「負傷は?」
別の男の声。騎士団の伝令だろう。
「擦過傷程度です。騒ぎ立てるほどのものではありません」
その最後の一言が、わざとらしく聞こえた。
――騒ぎ立てたのは誰でしたっけ。
俺の横で、ミリアが小さく息を吸った。
怒りの前に、冷える音だ。
「……ねえレオン。今の、聞こえた?」
「聞こえました」
「聞こえるように言ってるのよ。あれ」
確かに。
テントの布越しでも聞き取りやすい声量だった。
◇
そのとき、隔離テントの入口が開いて、アルヴィンが出てきた。
眼鏡はぴしっと正しい位置。
手袋も新しい。
昨夜の“尻もち”なんて最初からなかったみたいな顔。
ただし――目だけが、少し硬い。
俺たちを見ると、アルヴィンは一瞬だけ口元を引き締めたあと、すぐに営業用の笑みに戻した。
「おはようございます。昨夜は……その、助かりました」
助かった、と言っているのに、声の温度は紙と同じだった。
「おはようございます」
ミリアが返す。笑ってない。
アルヴィンは、机の上の台帳をぽん、と叩いた。
「本日から、隔離品の運用手順を少し改めます」
「改める?」
「はい。昨夜の件で、入口線が“感情的”に動きすぎましたので」
言った。
丁寧な言い方で、刺してきた。
ノーラが思わず「え」と声を漏らし、すぐ口を押えた。
カイは目を丸くして、ロウは無言で縄の結び目を直している。
ミリアの目が細くなった。
「感情的?」
「現場はそうなりがちです。特に低ランクの方々はそういう傾向があります。
経験が少ないので仕方がありません。分かります」
アルヴィンはうなずくふりをした。
「ですが、隔離品の管理は――規定と手順が命です。
昨夜のように“勝手な判断”が増えると、責任の所在が曖昧になる」
「勝手な判断って、何のこと?」
ミリアの声は静かだった。
アルヴィンは、まっすぐ答えた。
「隔離品に対して、必要以上に接触すること。必要以上に騒ぐこと。必要以上に――」
そこで言葉を切って、眼鏡を押さえた。
「……私が、皆さんの前で少々取り乱したのも事実です。恥をかきました」
自分で言うんだ、と少し驚いた。
でも次の瞬間、その「恥」が、矛先を変える音がした。
「同じことを繰り返したくない。
だから“手順”を強化します。皆のためにも」
皆のためにも、という言い方が便利だった。
◇
アルヴィンが紙を差し出す。
――【隔離品取扱い注意書】――
・隔離品の搬入出は、騎士団または調査班の立会いがある場合に限る
・F〜Eランク当番は警戒線の維持と通報を優先し、単独判断での処理を行わない
・異常兆候を報告した場合、記録は事務班の書式に従い要約すること
———————————————
「……要約される?」
カイが思わず読む。
アルヴィンは、にこりともせず頷いた。
「報告は統一しなければ混乱します。
昨夜のように、“誰が何をした”を細かく書くと、責任の押し付け合いになりますから」
ミリアが、紙を持ったままアルヴィンを見る。
「責任の押し付け合いが嫌なら、功績の押し付け合いも嫌でしょうね」
「功績?」
アルヴィンは、わずかに口角を上げた。
「功績は、正式な報告書に付随します。
正式な報告書は、規定に従って取りまとめます。以上です」
言い切った。
昨夜の“焦り”は、もう見せない。
その代わり、別の鋭さを出してきた。
――逆恨み。
だけど、刃の持ち方を知ってるタイプの。
ミリアは紙を返さなかった。
破かない。怒鳴らない。
ただ、声だけをさらに冷やした。
「じゃあ、私たちがすることは何? “立ってるだけ”?」
「立つのは重要な仕事です」
アルヴィンは淡々と言う。
「入口線を維持する。異常があれば報告する。――簡単でしょう?」
簡単、と言った。
俺はその言葉が、黒い匂いより嫌だった。
◇
そこへ、騎士団が木箱を運んできた。
昨日の“影イタチ”が出た箱とは別。だが、封印札の貼り方が似ている。
雑。急ぎ。乱れ。
俺の鼻が、ちくり、と鳴った。
(……薄い。でも、通したくない)
「その箱」
俺が口を開くと、アルヴィンが先に被せてきた。
「これは移送します」
即答だった。
「ギルドの保管庫へ。入口に置くべきではありません。
昨夜の件で、ここを“危険地帯”みたいに扱われると困るので」
困るのは誰だろう。
街か。ギルドか。アルヴィンか。
「待ってください」
俺は言った。
「封印札の匂いが弱い。今動かすのは危ないです」
「匂い。……またですか」
アルヴィンが、わずかに眉を動かす。
「君の鼻が優れているのは認めます。
ですが、保管庫の方が設備が整っている。責任者もいる。手順も――」
「手順の前に、漏れます」
ミリアが淡々と言った。
「ここなら“外”。街の中で漏れたら、止めにくい」
アルヴィンは一瞬黙って、騎士団の兵を見た。
「予定通り運びます。……昨夜のように“騒ぎ”になる前に」
その言い方が、明らかに棘があった。
主導権を握りたい。そういう種類の焦り。
兵が木箱に手をかける。
その瞬間、木が、内側から――かすかに、きし、と鳴った。
俺の背中に、冷たい汗が浮く。
「止めて!」
言ったときには、遅かった。
封印札の端が、ふわ、と浮いた。
「……っ」
ミリアが杖を構える。
ノーラが盾を前に出す。
ロウが縄を半歩前へ。
カイが石を掴む。
俺たちの連携は、反射で出る。
木箱の隙間から、黒いものが――ほんの糸みたいに漏れた。
影ネズミほどの形にもならない。
でも、匂いだけは濃い。
「アルヴィンさん!」
俺が叫ぶ。
「札、貼り直して! 今!」
アルヴィンが一瞬、固まった。
Fランクに指示されるのが嫌なのが、顔に出た。
その“半拍”が命取りになる。
ミリアが先に動く。
「ライト・ピン!」
光の釘が、浮いた札の縁を地面に縫い付けるみたいに固定する。
完全ではない。時間稼ぎ。
「ロウ、縄!」
ロウが箱の周りに縄を回し、ぎゅっと締めた。
“箱を縛る”んじゃない。“隙間を殺す”。
「石灰!」
俺は腰の袋を裂いて、箱の下に白い粉を撒く。
黒い糸が、びく、と止まった。
その一瞬。
「……ワン」
黒い犬の影が、木箱の影にすっと現れた。
箱の隙間へ鼻先を近づけ、ひと舐めする。
黒い糸が、すうっと消える。
回収。
犬は何も言わず、影のまま消えた。
静寂が戻る。
兵が青い顔で手を離した。
アルヴィンは、眼鏡の奥で目だけを忙しく動かしている。
「……ほら」
ミリアが言った。
「“騒ぎ”じゃない。危険よ」
アルヴィンの喉が鳴った。
でも、彼は謝らなかった。
代わりに、口の端を固くして言った。
「……だからこそ、保管庫に」
「だからこそ、ここで封印を立て直すのよ」
ミリアの声は、刃物みたいに冷たかった。
◇
そこへ、足音。
シルヴァが来た。顔が最初から険しい。
「何やってる」
状況を一目見て、理解したらしい。
彼はアルヴィンを見ずに、木箱だけを見た。
「……動かしたのか」
「動かそうとしました」
ミリアが短く答える。
シルヴァは息を吐き、今度はアルヴィンを見る。
「君、昨日の件で何を学んだ?」
「手順の重要性です」
アルヴィンが言う。
「手順は大事だ。だが、優先度がある」
シルヴァの声が低くなる。
「この箱は“隔離の隔離”に回す。
移送は封印を二重にしてから。調査班の立会いがある時だけ」
「ですが、上から――」
「上が誰でも関係ない。入口線が崩れたら、上も下も沈む」
シルヴァが言い切った。
アルヴィンの顔が、わずかに歪む。
今度は“上位者への不満”に向かっていくのが見えた。
でも――彼はそれを飲み込んだ。
「……承知しました」
アルヴィンは頭を下げた。形だけきれいに。
そのまま台帳を開き、羽根ペンを取る。
「記録します。
『封印札の浮き、確認。調査班立会いの上、封印再施工』――」
淡々と書く。
俺はその紙に、俺たちの名前が載るかどうかを見てしまった。
載せないなら、載せないで。
載せたら載せたで、“責任”のところだけ太字になる気がした。
◇
封印の貼り直し作業が始まり、結局、午前が潰れた。
指先は札の糊でべたつき、石灰で白くなる。
地味で、面倒で、でも必要な仕事。
そして、夕方。
シルヴァが俺たちを呼んだ。
「入口線だけでは追いつかなくなってきた」
短く言って、霧紺の洞の簡易地図を広げる。
「だから明日から、線を一段内側に引く。
初層の“搬送路”まで。補給棚までだ」
ミリアが目を細めた。
「……Fも?」
「Fもだ。荷運び枠。あくまで本隊の後ろ。深入り禁止」
ノーラが盾のベルトを握り直す。
ロウが縄を締め直す。
カイが「まじか」と小声で言った。
俺は、洞の入口を見た。
紺色の湿気が、今日もゆっくり息をしている。
薄いのに、通したくない匂いが混じる。
入口は逃げない。
逃げないぶん、逃げ場もない。
そして――入口の外でも、入口の内でも、
“札を刻む手”は、同じ速度で動く。
俺は短剣の柄を握り直して、
明日の線の位置を、頭の中でなぞった。
本年は大変お世話になりありがとうございました。
どうぞ来年もよろしくお願いいたします。
少しでも、
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