第49話 隔離テントの夜番と、札を刻む手
夕暮れの霧紺の洞は、昼より静かで、昼より不気味だった。
入口の柵の向こう側――洞の口から、紺色の湿気がゆっくり漏れてくる。
たいして濃くない。呼吸が苦しくなるほどでもない。
でも、「薄いから安全」とは限らない。
今日それを、もう思い知らされている。
影ネズミ。
袋から飛び出した、あの“影の形”。
止められた。止めた。
だからこそ、余計に嫌だった。
――入口の外で起きたことが、一番嫌だった。
◇
夜番の割り当てが、追加で出たのは日が落ちてすぐだった。
ガレスが来て、短く言った。
「隔離テントの番もつける。今夜からだ」
「隔離テント……押収品の?」
「そうだ。
“外で起きた”以上、外で終わる保証がない。
それと――盗まれると面倒だ」
最後の一言に、ミリアの眉がわずかに動いた。
「盗まれる?」
「“危ない物”は、危ない奴が欲しがる」
ガレスはそれだけ言って去った。
俺たちは顔を見合わせる。
「……つまり、“危ない物を安全に保管する”仕事が増えた」
ロウが淡々と言う。
「F向けだな」
「向いてるって言われても嬉しくないやつ!」
カイが小声で突っ込む。
そこへ、騎士団の伝令が木札を一枚持ってきた。
——【隔離テント夜番】——
依頼主:城塞騎士団/トラヴィス冒険者ギルド
内容:霧紺の洞入口の隔離テントにて、押収品・疑義品の保管番。
無断搬出入の防止、および異常発生時の警報・初動対応。
※追跡・洞内深追いは禁止。検疫線の維持を優先。
条件:F〜Eランク(複数人)
———————————————
「ほらね、“初動対応”って書いてある。怖い」
カイが札を見て顔をしかめた。
「怖いから書いてあるのよ」
ミリアが淡々と言う。
「書いてない怖さもあるけど」
「それ言うと、全部怖いです」
「全部怖いわよ」
あっさり言い切られて、逆に笑いそうになった。
◇
隔離テントは、入口の柵の内側にあった。
外に一枚、内に一枚。
布の壁。縄。札。石灰の袋。
外から見ればただの仮設。
中に入れば、匂いでわかる。
薬草と消毒の匂い。
汗と血の匂い。
そして――薄い、黒い匂い。
「ここ、匂いが混ざりすぎて分かりにくくない?」
ノーラが小声で言う。
「分かりにくいから、分かる鼻が必要なんだよ」
ミリアがさらっと俺を見る。
「……努力しなくても必要にされるの、やめたいんですけど」
「努力してなくても必要なんだから、仕方ないでしょ」
その会話の途中で、テントの外から足音が近づいてきた。
砂利を踏む、軽い靴音。
鎧の音じゃない。
俺の鼻に、墨と紙の匂いが届いた。
(……事務)
匂いだけで分かるのも、どうなんだろうと思う。
テントの入口が開いて、男が入ってきた。
細身。背筋がまっすぐ。
清潔な手袋。眼鏡。
服にはギルドの紋章が縫い付けられている。
「失礼。城塞騎士団から連絡を受けました。隔離テントの当番は――君たちですね」
声が、やけに丁寧だった。
「はい。Fランクです」
ミリアが名乗るより先に答えると、男は小さく頷いた。
「私はギルド事務班、アルヴィン・コールマン。
本日から、隔離品の管理台帳もこちらで取りまとめます」
「台帳……」
カイが小声で言う。
「また札を刻む人が来た」
アルヴィンは聞こえないふりをして、紙束を机の上に置いた。
「押収品・疑義品は、内容の記載、封印札の枚数、保管番号。
これが揃っていないと、後で責任問題になりますので」
「責任問題って、誰の責任ですか」
ミリアが笑わずに聞く。
「運用の責任は、現場です」
アルヴィンは、まっすぐ言った。
「そして現場の中でも――ここは“入口線”ですから。
入口線が崩れたら、困るのは街です」
正論の顔をしている。
でも、口の端にほんの少しだけ、別の何かが混じっている。
(……線を守れ、は正しい)
だけど、“線に立ってる奴は安い”も、同じ口から出そうだ。
ミリアも同じことを感じたのか、言葉を一度飲み込んだ。
◇
しばらくは、台帳の確認と、保管番号の貼り直しで時間が過ぎた。
外から持ち込まれた布袋。
木箱。
回収品。
アルヴィンは手際がいい。
字が綺麗で、番号を振るのが早い。
その手が“札を刻む”のに慣れているのが分かる。
「……手際、すごいですね」
思わず言うと、アルヴィンは軽く眼鏡を押さえた。
「現場は混乱しがちですから。整える役が必要です」
「整えるだけで済めばいいんですが」
ミリアの言葉は、棘が薄い。
薄い棘が一番刺さる。
アルヴィンは、気づかないふりをした。
◇
そのとき、外で声がした。
「隔離品の追加だ。今すぐ預ける」
鎧の音。騎士団だ。
テントの入口が開き、騎士が二人、木箱を運び込んできた。
箱は一つ。だが、妙に重そうだった。
箱には封印札が貼られている。
でも、貼り方が雑だ。
俺の鼻が、ちくり、とした。
(……薄い。けど、いる)
黒い匂い。
「アルヴィン殿、台帳に」
騎士が言うと、アルヴィンは即座に羽根ペンを取った。
「はい。保管番号は――」
「待ってください」
俺の声が、自分でも驚くほど低かった。
全員の視線が、俺に向く。
アルヴィンの眉が、わずかに動いた。
「……何でしょう」
「この箱、匂いが変です」
「匂い」
アルヴィンは、ほんの一瞬だけ困った顔をした。
「それは君の“特殊技能”の話ですか?」
「そうです。
黒い石と同じ系統が、薄く混じってます」
「封印札も貼ってありますし、騎士団経由です。
まず台帳が先です」
「台帳の前に、隔離です」
ミリアが、淡々と言った。
「番号を振るのは、動かなくなってからでもできる」
「……」
アルヴィンは、一度だけ騎士を見る。
騎士は肩をすくめた。
「昨日の件があったからな。念には念だ」
アルヴィンの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
「……分かりました。隔離番号を仮で振って――」
その瞬間。
木箱の中から、かすかな音がした。
――カリ。
爪が木を引っ掻くみたいな音。
全員が動きを止める。
「……今の、なに?」
カイが小声で言った。
俺の鼻が、もう一度ちくりと鳴った。
(生きてる)
「箱、開けるなよ」
騎士が低い声で言う。
「封印がある。勝手に開けたら――」
言い終わる前に、箱の側面が、内側から押された。
木が、みし、と鳴った。
「っ……!」
ノーラが盾を前に出す。
ロウが縄を構える。
ミリアが杖を握る。
カイが石を掴む。
……俺たちの連携は、もう体に染みている。
アルヴィンだけが、一歩遅れた。
「ま、待ってください。これは、書類上――」
「書類より先に来ますよ、それ!」
俺が言った瞬間、木箱の隙間から黒い影が噴き出した。
影は小さい。
影ネズミより少し大きい。――影イタチみたいな形。
速い。
狙いがいやらしい。
一直線に、アルヴィンの足元へ飛んだ。
「うわっ!」
アルヴィンが声を上げて尻もちをつく。
影が、足首に噛みつこうとする。
「ノーラ!」
ノーラの盾が、影の進路に滑り込む。
がん、と乾いた音。
影が盾に弾かれて、空中で回転した。
「ロウ!」
ロウの縄が走る。影の胴に絡み、輪郭を縛った。
影は潰れない。
でも、“広がる”前に止められる。
「ミリア!」
「ライト・ピン!」
針の光が、影の核に刺さる。
影がきゅ、と縮む。
縮んだ瞬間、縄がたわむ。
――影は、軽い。
「カイ!」
「任せろ!」
カイの石が、縮んだ影を叩いた。
影がほどけて、黒いシミみたいになって床に落ちる。
残り香だけが、嫌に冷たい。
そして――
「……ワン」
短い鳴き声。
テントの入口の影に、黒い犬が一瞬だけ見えた。
床の黒いシミに鼻先を寄せ、ひと舐め。
影ごと、消えた。
回収。
まるで「終わったなら片付けます」と言わんばかりに。
◇
静寂が戻る。
アルヴィンが、白い手袋を震わせながら立ち上がった。
眼鏡が少しずれている。
「……い、今のは……」
「隔離品です」
ミリアが淡々と言った。
「“書類上”じゃなく、“現場上”のね」
アルヴィンは反論しようとして――言葉が詰まった。
足首に、ほんの小さな赤い線ができている。
噛みつかれる直前に盾で弾いたから、擦っただけだ。
それでも、アルヴィンは顔色が悪かった。
「……たかが小型の影獣です。騒ぎすぎです」
声が、さっきより荒い。
余裕が剥がれると、口が悪くなるタイプだ。
それが、妙に“らしい”。
「“たかが”が入口線を抜けたら、街の中で増えるかもしれません」
俺が言うと、アルヴィンの目が一瞬だけ鋭くなった。
「……君たちFランクには分からないと思いますが、
この隔離品は“とても大事な仕事”に関わるものなんです」
言った。
わざわざ口に出した。
ミリアが静かに息を吐く。
「分からないって決めつけるの、便利ね」
アルヴィンは口を開きかけて――そこで止まった。
テントの外から足音が来たからだ。
「何があった?」
シルヴァだった。
記録板を持ち、眉間に皺を寄せている。
俺は短く状況を説明した。
木箱から影が出たこと。
封印札が雑だったこと。
黒い匂いが混じっていたこと。
シルヴァは木箱の封印札を見て、すぐに顔を険しくした。
「……これ、貼ったの誰だ。騎士団?」
「いいえ。受け取った時点でこの状態でした」
騎士が言う。
アルヴィンが、喉を鳴らす。
「そ、それは――書類上、搬入経路は――」
「書類は後」
シルヴァが珍しく強い声で言った。
「この箱は“隔離の隔離”に回す。
アルヴィン、台帳は君がやれ。
ただし、“今日ここで起きたこと”も、ちゃんと書け」
「……はい」
アルヴィンは、唇を噛んで頷いた。
その指が、ペンを握る手が、少し震えていた。
◇
夜は更ける。
隔離テントの外で、霧が少し濃くなった気がした。
今日の影獣は小さかった。
止められた。
でも――
“封印札が雑な木箱”から出てきた影は、
洞の外側で、入口線の内側で、こちらに噛みつこうとした。
つまり、線は外からだけじゃない。
内側からも、どこかで歪められる。
(……誰が、何のために)
鼻の奥に残った黒い匂いは、洞の湿気よりも薄いのに、
ずっと嫌な形で居座っていた。




